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真田幸村(信繁)の性格や清々しい生き様!最後の戦いについて

真田幸村(信繁)

真田幸村(信繁)という武将ほど、有名な武将はほかにいません。日の本一のつわものと称された彼ですが、果たして本当にそうだったのでしょうか。

先だってはNHKの大河ドラマで大人気となった彼ですが、数々の映画、ドラマ、ゲームなどでも主役級の扱いを受ける人です。

日本人が好む武将の姿がそこにあるのかもしれません。真田幸村の性格や生き様、そして最後の戦いをご紹介したいと思います。

真田幸村という名前

一般的に世の中に知れ渡っている「真田幸村」という名前ですが、実はこれ、戦国時代も終わり江戸時代になってからつけられた名前なのです。

本当の名前は「真田信繁」と言います。ではなぜ幸村となったのか。

大河ドラマによれば、関ケ原の戦いで敗れたあと、九度山へ配流となった真田親子ですが、大阪冬の陣の折、すでに亡くなってしまった父は残念でしたが、信繁は豊臣秀頼に呼ばれ再び日の目を見る事となります。

その時に、新しい名前で城入りを果たしました。それが「幸村」という名前です。「幸」は真田家が代々受け継いできたもの。「村」は、大河ドラマではくじ引きで選んだ文字でしたが、諸説あります。

徳川に仇名す妖刀「村正」から取ったとも言われていますが、真実は謎です。

他にも、幸村という名前が使われていた事実が、信繁の生前に見られないため、この名前は信繁の死後、江戸時代につけられたという説があり、今のところ、この説が一番有効なようですね。

なんでも江戸時代「真田信繁」という名前は禁句のごとく忌み嫌われていました。徳川家康の命を奪いかねなかった武将の名です。

嫌われて当然なのですが、その生き方は多くの武将、大名、そして民からの共感を得ました。そこで、小説にしたり歌舞伎にする際、信繁の名を使わぬよう「幸村」の名を使うようになった、という話です。

様々な諸説がありますが、ここでは最も知られている名「幸村」を使っていく事とします。

真田幸村という人

真田幸村は、1567年、もしくは、1570年、真田昌幸の次男として生まれます。兄には真田信之がいます。兄であるのに「幸」の字ではないのにも諸説ありますが、

もっとも有力なのが、関ケ原の戦いの折、兄は徳川、父と弟は豊臣と、どちらが勝っても真田の名が生き残るようにと別れて戦う事になった時、もしくはその後、

徳川に対しての忠誠を表すために父からもらい受けた「幸」の字を捨てて「之」の字にした説です。しかし近年、徳川時代の書状に「信幸」と署名していたものも見つかり、真実は定かではありません。

さて、幸村は幼少の頃、人質生活を余儀なくされます。父、昌幸が仕えていた武田氏が滅んでしまったからです。

昌幸は豊臣秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれていました。今でこそ「卑怯」という意味の漢字ではありますが、当時では最大の誉め言葉だったのです。

真田家はとても小さなものでした。しかし、昌幸は武田氏、織田氏、上杉に豊臣、様々な大名の間をその知恵で渡り歩き、真田の名を大きくしていったのです。

その手腕は見事なもので、後の大阪冬の陣の際、豊臣に真田が援軍に駆けつけたと知った家康は、拙いことになったと頭を抱えたそうです。

しかし、実は息子の幸村しかいないと知ると、家康は大きく安心したと言われています。もっとも、この安堵が後々後悔を産む事になるのですが。

ともかく、そんな知将・謀将の子として産まれた幸村は、幼い頃から周りの人間に愛されるような子でした。

ですから、人質になったとしてもとても大切にされていたそうです。最初に人質となった上杉においても、上杉景勝からとても大切にされていたそうです。

また、豊臣に人質となった際も、秀吉にいたく気に入られ、秀吉の重臣・大谷吉継の娘と結婚させたほどでした。幸村は秀吉亡きあとも、豊臣のために尽力しました。

関ケ原の戦いの折には父と共に徳川秀忠を足止めし、結果的には負け戦であったとしても、その足止めのおかげで秀忠は参戦できなかったわけですから、とても大きな働きをしたのです。

そして、大坂の陣の折にも、幸村はただ一人となっても秀頼を裏切る事なく、最後まで戦い続けたのでした。

真田幸村の性格

一言でいうならば、とても「実直」であったと言われています。そして正義感にあふれ、義理にも厚い人物だったともいわれています。

それを表すのが、やはり大阪の陣でしょう。圧倒的に味方が少なくなった夏の陣に際しても、幸村は秀頼の側についていました。

実はこの時、徳川から何度も寝返るように使者が訪れたそうです。それは破格の扱いでの寝返りでした。しかし、幸村は断固として首を縦に振らなかったのです。

徳川には兄がいます。信之は父と弟が九度山へ配流になった際、とても力を尽くしてくれました。

本来なら死刑になるところでしたが、信之が家康に懇願して配流になったと言われています。この時もきっと信之の尽力もあったのではないでしょうか。しかし、それでも、幸村は大恩ある豊臣を裏切らなかったのです。

このまま九度山で朽ち果ててしまうかのような身の上だったものを、再び戦いの場に出してくれた。それだけではなかったかもしれません。

秀吉から受けた恩も忘れておらず、ただ豊臣のためにと、幸村は奔走したのです。

これらを見るに辺り、本当に義理人情に厚い男らしい人物だったと言えます。ただ、兄、信之の一説によりますと、信繁はとても大人しく、控えめで腹を立てる事もなかった、とあります。

次男坊、そして人質という立ち回り上、そういう幼少時代だったのかもしれませんね。

深紅の椿と六文銭

さて、真田幸村の甲冑と言えば、パッと思い浮かぶのは深紅に彩られた甲冑ではないでしょうか。この甲冑は、大阪の陣において使用されました。真田の赤備え、有名ですね。

実は赤備えは、他にもいました。幸村と同じ頃にあったのが、井伊の赤鬼と呼ばれた井伊直政の赤備えです。

ではまず、赤備えの祖からお話しましょう。そもそも、赤備えとは、力のある武将ができるものでした。黒などの地味な甲冑しかない戦場で、パッと花開いたような赤軍団。

目を引きますね。これは強い武将である自分に目を惹かせるため、という理由もあるようです。

また、朱色の槍が力のある武将に授けられていたこともあり、やはり「赤色」というのはとても強いイメージのあるものだったのです。

そんな赤備えは、まず武田信玄の部下である飯富虎昌から始まりました。しかし、彼に謀反の志があるとされ、武田信玄により静粛されてしまいます。

その飯富の赤備えを引き継いだのが、弟である山県昌景でした。この辺りから、幸村はこの赤備えに憧れを持っていたのかもしれません。

しかし、この赤備えは武田信玄の滅亡後、姿を消してしまいます。主を失ってしまったのですから、仕方がないのかもしれません。

ですが、実は、この赤備えの軍団を徳川家康が引き取っていたのです。徳川家康は三方が原の戦いで、武田信玄にこてんぱんにされてしまいました。

その時の自分の哀れな様子を描かせ、生涯の教訓にしたともいわれています。それほどこてんぱんにされたのは、この山県の赤備えがいたからです。

このまま野放ししておくのは危ないと思ったのでしょうか。家康は赤備えを自分のところで引き取り、そのまま井伊の隊に組み込ませてしまったのです。ここで、井伊の赤備えができたわけです。

さてさて。もともと真田は武田に仕えていました。ですから、幸村は赤備えを用いる時、きっと山県氏の事を思った事でしょう。幸村の本名「信繁」は武田信玄の弟からもらったものです。

武田に対する思いは、滅んだあとも強かったのではないでしょうか。こうして生まれた真田の赤備え。戦国最後の大合戦において、華々しく散ろうとする真田幸村の、弔い花の如く咲き誇りました。

後に、徳川家康伝記によりますと「その赤備え、戦場にツツジの花の如く」とあったそうです。それは見事な咲きっぷりだった事でしょう。

また、真田の軍旗でもある六文銭。こちらもとても有名ですね。六文銭といえば、三途の川の渡し賃として、死者の棺の中にいれるお金の事を言います。

少し前までは本当に六文銭を入れていましたが、今は様々な事情によって紙に描かれた六文銭を棺に納めているところがほとんどです。

その六文銭を掲げているという事は、いつでも死を覚悟した戦いをしている、という心意気の現れでした。ここでも、真田の軍がいかに豪胆で命知らずか、周りに知らしめていたわけです。

真田幸村の最後

真田幸村という名前は、あまり歴史に詳しくない人でも知っているほど有名です。しかし、実は、幸村が戦場において、勇猛果敢に戦ったのは、大阪の陣だけだったりします。

もちろんそれまでにも数々の戦いに出ていますが、それらのほとんどは兄と一緒、そして父・昌幸と共にありました。

現に、関ヶ原の戦いにおいても、父・昌幸と共にありました。ではなぜ、彼はここまで有名な武将になったのでしょうか。それは彼の生き様、そして最後にあります。

真田幸村の最後は、大阪夏の陣です。冬の陣では「真田丸」という砦を作り、徳川の軍勢をことごとく追い払う事に成功しました。

その「真田丸」のせいで大阪城攻略がならなかった家康は、和議を結ぶ際の条件として、真田丸の取り潰しを入れ込んだほどです。それほど、真田丸という砦は厄介なものだったのです。

真田丸を失った大阪城。しかも、堀までも埋められてしまってはもう勝ち目はないと、夏の陣の頃にはほとんど味方がいませんでした。

先ほども話しましたが、この頃に幸村は再三寝返るように使者が訪れています。しかし、幸村はかなり不利な立場にあるにも関わらず、それらすべてを突っぱねました。最後まで秀頼と共にあろうと決めていたからです。

そして始まった夏の陣。すべての人間が困惑し、誤った判断をしたり、情報に流されたりと、本当に混乱した戦場の中、幸村は家康本陣を目指します。

この乱れた戦場を終わらせるのは、もはや家康の首を取るしかないと思ったのでしょう。多くの戦いひしめく戦場を、真田幸村の赤備えが突き進みます。その勢いは熾烈で、さすがの徳川家康も命の覚悟を決めたと言われています。

事実、幸村は家康の本陣にまで迫りましたが、あと一歩のところで力尽きてしまうのです。

さもありなん。その先日も、幸村はずっと戦っていました。この頃、幸村はすでに40後半、もしくは50に突入していました。そのころ「人生五十年」と謳われていた時代です。はっきりいってもう年です。

しかも、十何年も九度山で貧しい暮らしを強いられて、体力的にも衰えていたに違いありません。それでも、決死の覚悟と気力で、家康の首を取る寸前まで戦ったのです。しかも、三度も突撃して。見事なものです。

どれだけ味方がいなくても、守り抜くと信じた主君のため、命がけで戦場を駆け抜けた朱色の軍団を、他の大名はどんな思いで見ていたのでしょうか。「敵ながらあっぱれ」と称したに違いありません。

現に、島津氏の「薩摩旧記」には、幸村の事を「真田は日本一の兵(つわもの)」と記しているそうです。その生き様は多くの武将の心を捉え、今もまだ語り継がれているのでしょう。

大阪夏の陣の最後、幸村は力尽きて安居神社の境内で休んでいました。そこへ西尾宗次という徳川方の鉄砲頭がやってきます。幸村は難なく発見されてしまいました。

しかし、幸村はもうじたばたすることもなく「儂の首を手柄にせよ」と告げ、自ら差し出したという話です。

この幸村の最後にも諸説あるのですが、今のところ有力なのがこの話だと言えます。

最後まで戦い続けた清々しい生き様

最後の最後まで清々しい生き様だった真田幸村。最後の最後に武将として生まれてきた幸せを得たのではないかと思います。

九度山にいたままでしたら、きっと病に倒れ、誰からも忘れられて亡くなっていたに違いありません。日本一のつわもの、真田幸村は、きっとこれからの世でもずっと語り継がれていく武将の一人なのでしょう。