未分類

大谷吉継とはどんな人物?病気の謎や石田三成との熱い友情について

ootaniyositugunoshougai

日本人は義が大好きです。己の命を捨てようとも、友や義の為に戦う男に、やたら惹かれてしまう人種かもしれません。

そんな日本人の心を惹きつけ、大河ドラマ「真田丸」や映画「関ケ原」によって、爆発的に人気になった戦国武将がいます。

その名を、大谷吉継。ゲーム「信長の野望」でお馴染みのコーエーが、映画「関ケ原」上映時に行ったアンケートでは、関ケ原で戦った戦国武将人気の1位に輝いた、大谷吉継。

惜しくも2位だった石田三成と仲が良かったと言われる吉継は、一体どんな人物なのでしょう?

後年は病気に苦しみながらも、関ケ原の戦いで散りました。今回は、大谷吉継の人生と、石田三成との友情についてお話します。

謎に包まれる大谷吉継の生涯

日本人は昔から、軍記物や戦記物などの物語では、判官贔屓なところがあります。

数々の戦歴を重ね、勝利を勝ち取った強い主人公よりも、そのライバル的な存在が義の為に立ち上がり、勝てるかもしれない!

というところで、無念の死を迎えるという話が何故か好きなのです。

源義経しかり、真田幸村しかり、何故日本人が判官贔屓かと言えば、娯楽として一番物語を楽しむのはいつの時代も庶民。

あくどいことをしてでも目的を達し、権力を握った強い男よりも、そこに立ち向かう悲劇のヒーローにシンパシーを感じてしまうのは、仕方のないことでしょう。

そんな理由からか、最近人気に火が着いたのが、今回紹介する大谷吉継です。先ほど名前が上がった、真田幸村(信繁)のお舅さんとも言われています。

大河ドラマ「真田丸」では、片岡愛之助さんが好演していましたね。この吉継、大河でもゲームでも彼を表現する時には、目だけ出した白い頭巾を被っている姿が多いのですが、

その姿同様、彼の人生を後付け出来る資料は未だ少なく、彼の生涯もまた謎に包まれています。

生まれ年からして1559年説と、1565年説の二つあり、父もはっきりしておらず、近江国(現在の滋賀県)生まれだということも、

断言は出来ないのですが、同郷と言われる石田三成と仲が良かったエピソードから、近江出身と言ってもいいでしょう。

名前も吉継、吉隆、平馬などありますが、当時名前が変わるということは珍しいことでもないので、ここでは吉継で統一します。

このように、出生~少年期あたりまでは、未だ謎が多い吉継ですが、はっきりしているのは、若き頃から秀吉に仕えていたということと、

「兼見卿記」という文献で吉継の母親が、秀吉の妻、寧々の取次役をしていた東殿だったことが判明したということくらいです。

そのせいか、歴史マニアには人気の高かった吉継ですが、最近まであまり目立った存在ではありませんでした。

大河ドラマでも、吉継が脇役として登場するものは、真田丸や軍師官兵衛の他合わせても7本のみ。登場してもそんなに出番が多い役でもなかったのです。

秀吉も認めた男、吉継の功績

吉継の名前が手紙や文書に登場するのは、信長亡き後に秀吉が天下統一を目指し動き出した頃からです。

清須会議後、織田家の主導権争いの決着となる、賤ケ岳の戦いにて吉継は敵、柴田勝家の甥である長浜城城主、柴田勝豊を調略し、秀吉勝利の為に尽力しました。

吉継はこの他にも、秀吉天下統一までの数々の戦に同行してはいるのですが、武功として残っているのは秀吉が紀州討伐に出陣した際、

抵抗する根来寺の僧侶を槍で一突きしたという話が残っているのみで、その他目立った武功の記録はありません。

しかし、秀吉に「吉継に100万の軍を預け、軍配させてみたい」と言わせしめたという逸話があるので、武力というよりは、軍師的な知略に長けていた男だったのでしょう。

ただ、少年期~青年期初期くらいまでは、秀吉の馬廻り衆として側にいたという話があるので、武力がまったくなかったという訳でもないのでしょう。

ちなみに馬廻り衆とは、秀吉のボディーガードのようなものです。実際、彼は秀吉の側にいて実務担当をしており、石田三成らと共に、事務方的な仕事が多かったのです。

賤ケ岳の戦いから、わずか2年で、従五位下刑部省輔という官位を授けられており、その4年後には敦賀城主となっているところかも、秀吉の信頼が厚い男だったのでしょう。

この官位名から、刑部(ぎょうぶ)殿とも呼ばれています。

一介の馬廻り衆としての吉継の石高は、150万石程と言われていますが、もし最近の生まれの説(1565年)が正しいのなら、24歳にして2万石の敦賀城主になったのです。

しかもその後、領地を5万5千石に石高を増やすのですから、秀吉が吉継を認めるのもわかりますね。

病と白頭巾の謎

吉継キャラクターの特徴としては、必ず着用している目だけが出た白頭巾姿です。大河ドラマでも、ゲームでも、大谷吉継を表現する時には欠かせないアイテムとなっています。

敦賀市の公認キャラクター「よっしー」も吉継がモデルですが、白い頭巾を被っているので、分かりやすい表現となるほど定着しています。

吉継は病気に掛かっていたと言われ、後年、その病状を隠すために白頭巾をしていたと公然と言われていますが、実は史料的には確信できるものは判明していません。

ハンセン病(らい病)や、梅毒という説もありますが、ハッキリと分かっていないのが事実です。

そして、今やすっかり彼のアイテムである、白頭巾も江戸中期までそのような話は登場しておらず、江戸後期に作られた関ケ原の戦記物などに書かれた創作が元ではないか?と言われています。

身体の具合が悪かったと思わせる根拠として、上杉景勝の忠臣、「愛」の兜でお馴染みの直江兼続への手紙に、草津の温泉に湯治に来ていること、

追伸に目を悪くしたため、花押ではなくハンコを使いましたと残されていることと、彼の死に場所となった関ケ原の戦いで、足腰が弱り輿に乗っていたことくらいです。

関ケ原の戦いの時、生まれ年が1559年であれば41歳。最近こちらの方が信憑性が高いと言われている、1565年生まれであれば、35歳。

いくら昔の平均寿命が短く、四十は初老と言われていたとしても、病気かケガでもなければ、足腰が弱るということは無いと思われるので、

やはり何等かの身体の不調はあったのは事実と思っていいでしょう。

石田三成との熱い友情

大河ドラマ「真田丸」や、映画「のぼうの城」、そして3年前に突如としてブームを巻き起こした「配下にするならみつなり~♪」という歌が耳について離れない、

滋賀県のPRCMなどから、ここ最近急に人気急上昇になった石田三成。今まで描かれる三成は、頭はいいけど、空気の読めない嫌味な小男というイメージでしたよね。

そんな彼との仲良しエピソードが語られる吉継。しかし、ここまで彼の生涯など謎だらけの中で、三成との逸話が本当だったのかは、やはり確定できません。

それでも、吉継と三成は秀吉に小姓として仕えていたはずであり、年も近く、秀吉の行くところ必ずと言っていいほど、

この二人は側にいたので、吉継と三成が仲良しだったとしても不思議ではないでしょう。

有名な話としては、大阪城で開かれた茶会の時、一つの茶碗を皆で回し飲みをしている際、吉継が茶を飲む時、顔の膿が茶碗へ落ちてしまい、

皆が飲むのを躊躇する中で三成がそれを一気に飲み干し、何事も無かったかのように、おかわりを催促し新しい茶に変えたというエピソードがあります。

先ほど述べたように、吉継がハンセン病だった事実は残っていないことを考えると、これもまた創作の気がしますが、しかし、二人の友情があったのではないか?

という逸話は、他にもあるのでご安心を。その他の逸話としては、吉継が何をやらかしたのか?秀吉の怒りを買い、少しの間蟄居していたことがあるようです。

その間開かれていた茶会で、珍しい茶器などの披露があったようですが、観られない吉継にこっそり茶器を観せるよう寺の僧侶に頼んだという話も残されています。

秀吉に内緒でそんなことをするなんて、三成の融通が利かない、固いイメージが少し変わりますね。

また、家康討伐を決意し、自分が大将になる!と血気に逸る三成へ、「お前じゃ誰もついてこないし、無理」「お前は横柄だし勇気がない」など、

本人に向かってズバズバ言ったという話が残っていることからも、気心知れた仲であったことが垣間見れます。

関ケ原に散った吉継

関ケ原にて三成と共に西軍で戦った吉継ですが、実は元々家康に対しての敵意はありませんでした。

秀吉死後、五大老となった家康と彼は仲良くしていましたし、前田利家と家康の仲が不穏になった頃、家康襲撃の噂が広がり、

その時も家康の警護の為に出陣していることもあり、敵視していた様子はずっと見当たらないのです。

関ケ原のきっかけとなる、家康討伐の協力を求めてきた三成に、「お前じゃ無理」を3回も言って止めていたのですから、

どちらかと言えば最初は家康と戦うつもりなどハナからありませんでした。そもそも、三成を止めた時というのは、

家康要請の上杉討伐に出陣する道中に、蟄居させられていた三成のところへちょっと寄って、家康と仲直りをさせようとしていたのですから…。

しかし、何が彼の心を急変させたのか、吉継は関ケ原に家康の敵として立ち上がります。

逸話の数々が残されているように、三成との友情と彼の熱意にほだされたのか、それとも何か家康にキレたのか?

はたまた、病の重さから先は長くないと思っていたのか、現代の我々には想像できませんが、ともかく吉継は三成と共に西軍として、天下分け目の関ケ原へ出陣したのです。

動かない身体を輿に乗せ、後方で指揮を取っていた吉継。午前中、大谷軍は東軍の藤堂高虎の軍、京極高知の軍の2軍と戦い、西軍が優勢でした。

後世に伝わる布陣図を見て、どの歴史研究家も、軍事評論家も、西軍が勝つに決まっていると判断するほど完璧な布陣でしたが、午後になり形勢が逆転してしまいます。

突如として寝返った、秀吉の正妻寧々の甥に当たる小早川秀秋が、吉継の方へと攻めてきたのです。しかし、そこは軍師的な吉継。

奴は裏切る可能性が高いと見切っており、小早川対策用に軍を備えていました。が、その様子を観ていた小早川対策要員の軍の一部も、寝返って吉継の方へと攻め入ってきたのです。

前には東軍、後ろには小早川軍1万5000人、横からは寝返った4200人。

この様子を見て、西軍は戦意を喪失したのか、ボロボロに。もはやここまでと、吉継は切腹してこの世を去りました。

この時吉継は、「小早川を3年以内に祟る!」と呟いたとか…。その呪いが効いたのか、小早川秀秋は吉継の幽霊を見たなど、

言動もおかしくなり2年後狂死したという怖い話も、まことしやかに語り継がれています。

義の男、大谷吉継

関ケ原にて切腹した吉継の介錯をしたのは、最後まで共にいた側近の、湯浅隆貞という男。

彼ははねた吉継の首を、関ケ原に埋めたと伝えられいますが、関ケ原町にある吉継の墓石の最下段部分に、なんと昨年(2018年)になって、

吉継の戒名と没年月日が彫られていたことが発見されました。

墓石は戦の後すぐに建立されたようで、謎多き男、吉継の史実にまた一つ証を見いだせたことは、素晴らしいことですが、

なんと現存している戒名とちょっと違うということが判明し、新たな謎がまた一つ増えたとも言えます。

史実はほとんど残っていなくとも、逸話が多数語られ、人々の記憶に語り継がれていく吉継。何の特徴もない平凡な男であったのなら、今現在も名前を残すことは出来ないでしょう。

辞世の句と呼ばれるものは、共に戦った平塚為広のお別れに送られてきた辞世への返事として残っているもので、

「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」という言葉です。この言葉からも、死を覚悟していたことが伺えますね。

「お前じゃ負ける!」とまで言った三成に出陣を頼まれ、命を懸けても共に関ケ原で戦ったのには、きっと義の男と今も呼ばれる程の何か根拠があったに違いありません。

そんな吉継に心惹かれるのは、やはり判官贔屓の日本人だからなのかもしれませんね。