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徳川家光はどんな性格?生涯エピソードや、側室、死因について

江戸幕府の3代将軍として有名な徳川家光。

2代将軍徳川秀忠の世子として産まれた家光ですが、その生涯は意外にも、安寧なものではありませんでした。

いったい家光はどんな人物だったのでしょうか。

徳川家光が将軍になるまで!両親に冷遇された少年時代

徳川家光は幼名を竹千代といい、徳川秀忠の次男として生まれます。

乳母にも、元明智光秀家臣である斉藤利三の娘の春日局を宛がわれ、後の将軍として育てられるはずでしたが……

竹千代の誕生後、弟の国松(後の徳川忠長)が生まれてから、状況がおかしくなってきます。

秀忠も、実母のお江の方も国松を可愛がり、竹千代よりも高待遇に処していくのです。

この理由としては、竹千代がいわゆる「イケメン」ではなかったこと、吃音があり病弱だったことが考えられます。

一方、弟の国松は勉学に秀でた活発な性格で、容姿も織田信長似のイケメンと、とても優れた少年だったようです。

幕府内も国松派と竹千代派に二分される始末。しかも、秀忠やお江の方も国松推しであることで、竹千代派は劣勢に立たされます。

竹千代は父母に愛されない悲しさから、自害をしそうになったほど……それを救ったのが、竹千代の乳母・春日局です。

春日局による直訴!波乱万丈の世継ぎ争いを制した家光

竹千代劣勢の状況を打破すべく、春日局はある策に出ます。

江戸時代、「入鉄砲に出女」と言って、江戸に入ろうとする長い包み、出て行こうとする女性は、それぞれ関所できわめて厳しく取調べを受けました。

本来ならば、春日局が江戸から出ることも難しかったのですが、彼女が使ったのは「お伊勢参りに行く」という口実。

当時、伊勢神宮に参ることが流行になっていて、この理由であれば女性でも江戸から関西方面へ行きやすかったのです。

春日局が向かったのは伊勢ではなく、駿府。そう、初代将軍の家康が隠居している駿府城です。

家康に彼女は直訴し、やがて家康により、長幼の序が優先され、竹千代が世継ぎであることが正式に決定されます。

しかし、何故家康と春日局は家光を世継ぎに推したのでしょうか?それにはこんな俗説もあります。

「二世権現」とは?家光の実父は誰?

興味深い書物があります。江戸城の内情に通じた人物が著したと言われている「松の栄え 東照宮様御文」という書物に、「家光の母は春日局」という一文があるのです。

ここから発展し、秀忠とお江の方の間に子供が産まれる間隔が短すぎること(11年間で8人も出産しています)から、

「家光の父親は秀忠ではなく祖父・家康なのでは?」という説まで唱えられています。

将軍になってから家光は「二世権現・二世将軍」という言い方を良くするようになり、現代にも家光直筆の紙が残っていますが、

先ほどから何度も述べている通り、家光は「徳川幕府三代将軍」なのです。

何故父親であり、2代目将軍である秀忠を無視したのか。単に、忠長を可愛がり自分を冷遇した父を嫌っていたからなのか。

それとも、家光は自分の父親が家康であると知っていたからなのか…歴史のミステリーですね。

家光は男好き?側室について

ところで、家光は、若い頃は男色趣味一辺倒で、女性に興味を示すことがありませんでした。

この当時、「女性に興味を示さない」ということは、子供が生まれない、つまり跡継ぎがいなくなってお家が断絶してしまうことに直結します。

事実、鎌倉幕府などは元々は源頼朝が将軍として権力をふるっていましたが、跡継ぎが暗殺などで断絶してしまい、執権の北条氏が実権を握ってしまいます。

このようなことにならないためにも、家光が女性を愛し、子供を作ることは幕府にとってとても重要な課題でした。

そこで、春日局は巷でボーイッシュな美少女を探してきて、家光に何人も宛がいます。

最初は興味を示さなかった家光ですが、男装して近付いてきたお振の方という女性を皮切りに側室を作るようになり、

二人目の側室であるお楽の方との間に、見事世継ぎである家綱を作ります。

ちなみに、家光の側室となった女性の中に、「お玉の方」という、決して身分の高くない庶民出身の女性がいます。

庶民だったにも関わらず、将軍の側室となったことから、「玉の輿」という言葉が誕生したとも言われています。

家光の性格は?

家光の時代に、徳川幕府の基礎となる様々な政策や体制が整えられていきます。

後の将軍の大半が、自分で決めずに老中などに政治を任せていたことからも、家光は決して暗愚ではなく、聡明な男性だったのではないでしょうか。

一方で、キリシタンを一様に処罰し、鎖国を始めたことなどからやや頑固なイメージもぬぐえません。

書物などには、「家光は父や祖父と同様に能や武芸を愛した」という記述もありますが、

著名な能楽師に舞わせることを好んだ祖父や父とは異なり、家臣や諸大名など、決して上手くはない人たちに舞わせるのが好きだったという逸話も残されています。

幼少期に両親の愛を受けられなかったため、性格がやや歪んでしまったのではないでしょうか。

徳川家光の死因は?

家光は幼少時から病弱でしたが、大人になってからもその傾向は残念ながら変わりませんでした。

25歳のときに脚気になったのを始め、26歳で天然痘に罹患します。

その他にも、抑うつ状態であったり、血圧の高さを感じられるような文献の記述を見ることが出来ます。

中でも脚気は、この頃急速に白米食が広がって、ビタミンB1不足による脚気患者が急増しました。

徳川幕府で言うなら、13代家定、14代家茂も脚気が原因で死去したと考えられています。

家光の死は、「献上品を眺めていたら突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れて48歳で逝去」と伝えられています。

その数日前から歩行障害が起きていたという記録も残っているので、現代で言うならば脳卒中や脳梗塞などが原因であると考えられるでしょう。

まとめ

家光は波乱万丈な少年時代をすごしましたが、将軍となってからは後の徳川幕府の礎ともなる参勤交代や鎖国の政策を行ったり、

冷え込んでいた朝廷との関係を立て直したりと、とても有能な青年であったと言えるでしょう。

一方で、まだまだ謎に満ちた出生の秘密など、歴史愛好家の興味をひきつけてならない点もたくさんあります。

今後の家光の研究でそれらが解明されることはあるのでしょうか。とても楽しみですね。