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北条氏政の生涯エピソードや逸話、最後について

北条と聞いて頭に思い浮かぶ下の名前は学校の授業程度しか歴史に興味が無い人は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻である、北条政子を思い出す程度でしょうか?

しかし、戦国時代にも有名な北条がいます。歴史に「もしも」はありませんが、この人が生き延びていたら、今の関東はまた違った国になっていたかもしれません。

今回は、大河ドラマで秀吉が登場すると、毎回滅ぼされてしまう悲哀の人、北条氏政の生涯を性格や、最期も含めて紹介します。

後北条家4代目として誕生した氏政

後北条氏(ごほうじょうし)という御家の初代は、戦国時代にて無名の浪人が、下剋上を初めて成し遂げた存在と、長い間言われてきました。

しかし最近になって、実はそれなりの武家の出であったことが判明しています。

元は桓武平家(かんむへいけ)の流れを汲む、伊勢氏という家の出身。

武士とは、天皇の皇子達が姓を賜って出来た御家が始まりですが、源氏流れがいるのなら当然、平氏流れも存在している訳です。

冒頭で登場した北条政子の御家とは、遠縁とも言われていますが、ほぼ無関係なので、歴史家達が判別しやすいように後(ご)を付けられていますが、正式には北条という姓です。

初代は室町幕府に仕える伊勢氏という武士でしたが、応仁の乱が発生し、紆余曲折あって駿河守護(するがしゅご:現在の静岡県)であった、

今川家の家臣となり、最終的に下剋上が始まった戦乱の世初期に、伊豆や相模を抑えて戦国大名となりました。

多少良い血筋の武家だったとしても、周辺を攻めて一国の主になったのですから、北条家が結果、下剋上したということに変わりはありませんね。

そんな北条家3代目氏康(うじやす)の次男として、氏政(うじまさ)はこの世に誕生しました。

しかし、長男が幼くして亡くなってしまった為、氏政が4代目の跡取り息子となったのです。

幼名は、松千代丸。氏政の下には弟達もいましたが、下剋上の戦国時代には珍しく、兄弟仲がとても良かったと伝わっています。

しかしながら、幼少期の逸話やエピソードは残っておらず、どのような子供だったかは残念ながら不明です。

飢饉と乱世の狭間で

氏政が生まれた翌年、天文8年(1539)日本中が大雨に見舞われます。

その影響から、各地で洪水が発生。更にそれに伴う疫病が蔓延し、追い打ちを掛けるようにわずかな農作物にイナゴが来襲し、日本中が飢饉に襲われます。

後に天文の飢饉と呼ばれるこの災害から始まり、氏政12歳頃には、関東周辺で大地震が発生と、日本は次々と自然災害に見舞われていました。

現代の日本でも、ここ最近は各地で大災害が発生しており、他人事ではありませんね。

しかも、今のように国がきちんと支援に動いてくれるようならいいのですが、残念ながら時は乱世の戦国時代。

この頃、室町幕府の権力も衰えており、朝廷も二つに分かれ、頼れる者は領地や、食べ物を分捕ってきてくれる強い武将だけ。

氏政の父、3代目氏康(うじやす)が当主になったのは、まさに天文の飢饉が始まった翌年。氏政はまだ4歳の子供です。

周辺では、力のある戦国武将達が続々と登場しています。

甲斐では武田信虎と、その後父を追い出し、家督を奪った信玄が信濃へ侵攻。

駿河では今川義元が三河侵攻、三河では家康の祖父や父が、今川や信長の父と戦っていたり、

関東管領を巡って同じ上杉が分裂して戦っていたりと、考えるのも嫌になる程のカオス状態です。

その中で、氏政の父は奮闘し、相模の国を守るため戦い続け、氏政17歳頃に長い間小競り合いを続けていた、甲斐武田、駿河今川と同盟を結びました。

氏政は、その甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)の際、武田信玄の娘を嫁に貰うことになります。

人質とは言え、氏政と嫁である黄梅院(こうばいいん)との夫婦仲はとても良く、子宝にも恵まれましたが、

信玄が後に今川を攻めて、三国同盟が破棄されてしまった時、怒った父氏康に離縁させられてしまいます。

この黄梅院は、甲斐に戻ってからすぐに亡くなってしまうのです。

氏政は父亡き後、武田と再び同盟を結び直した際に、亡き妻の遺骨を分骨してもらい、手厚く供養したと伝わっていることからも、

氏政の妻に対する愛は、とても深かったように感じますね。

上杉家との攻防

戦国時代の甲斐、相模、駿府、そして信濃などの戦歴を眺めていると、あることに気が付きます。その事とは、何故かあちこちに登場する、上杉という御家なのです。

上杉と言えば謙信(けんしん)が有名ですよね?

しかし、この謙信が越後の戦国大名となる前の上杉家は、室町幕府に任ぜられた関東圏を統括する、関東管領(かんとうかんれい)というお役目でした。

藤原の流れを汲む上杉家は、鎌倉時代から続く武家です。

室町時代に関東管領に任命されてからは、越後(えちご:現在の新潟)、上野(こうずけ:現在の群馬)、

武蔵(むさし:現在の東京、埼玉、神奈川)、そして相模(さがみ:現在の神奈川の一部)を預かる、守護大名の由緒正しき御家でした。

そんな御家でしたが、いつしか時代は戦乱の世になり、北条始め関東を脅かす強者達が登場してしまいます。

上杉家としては、御家を守る為の正当な戦なのですが、これらの土地を巡って、周辺の戦国武将達と争っていたので、

武田、今川、北条、真田などなど有名な武将を調べてくると、必ず登場してくるのがこの上杉なのです。しかも、そちら側から見れば上杉が敵です。

少々説明が長くなってしまいましたが、北条家もこの上杉家とは何かと戦を重ねています。相模が被っている時点で当然ですね。

氏政が跡を継いだ頃、父氏康に敗北した関東管領としての上杉家は、越後に引っ込み、長尾景虎に上杉の名を譲って、

上杉謙信となるのですが、この謙信は武田にとっても、北条家にとっても、とにかく厄介な存在となってしまうのです。

氏政が当主となったのは、22歳の頃。しかし、父氏康は隠居しても実権を握っており、しばらくは父の下で内政や戦に参加することになります。

そんな中で、上杉謙信は秋になると、とにかく北条の領地や武田の領地にやってきて、田畑を荒し、食べ物を奪い取り、春になると越後へ帰っていくという戦を仕掛けてくるのです。

氏政が当主となって最初の戦も、上杉軍率いる大軍に小田原城を囲まれた、小田原城の戦いなのですが、天下の名城と言われた小田原城で、氏政は籠城戦を乗り切ります。

この時は同盟を結んだ武田が援軍に来てくれたので、上杉を撃退することに成功しますが、のちの氏政の最後を知っていれば、何とも因縁めいた話ですね。

不吉な予言?汁かけご飯のエピソード

氏政を評している史料を見ると、どちらかと言えば無能扱いが多いです。

結論を知らない人の為に、少しだけ氏政最後のネタバレをすると、彼は秀吉が天下統一目前、

「豊臣の臣下に下り、上洛するように」と再三命を下されていましたが、氏政は中々上洛しませんでした。

結局、秀吉は天下統一の最後の総仕上げに、22万の大軍を引き連れ、小田原城を包囲し、

氏政はこの時も籠城するのですが敗北。最後は御家取り潰しと、氏政切腹というラストが待っているのです。

この結論から、判断ミスをしたダメ領主と、無能扱いされてしまうのは後世でのことなので理解出来ますが、

まだその未来も見えていない内から、「この家は氏政が潰す!」と不吉な予言を放った人達がいるという、ホラーな話があるのです。

悲しいことにその予言をした一人目は、何と父の氏康です。

ご飯に汁を掛けて食べる際、氏政は何度かに分けて汁を掛けていたのを見た父は、

「毎日食べていて、自分の丁度いい汁の量が1回で分からないようでは、この家はお前の代で終わりだ!」と叱られるのですが、見事当ててしまっています。

ちなにみ、大河ドラマ「真田丸」で氏政を怪演してくれた、高嶋政伸さんが登場する度、

汁を小分けに掛けて飯を食べていたおかげで、「汁かけ男」というあだ名も付けられる程でしたが、この大河でわりと知られるエピソードとなりました。

真田丸ではそれを逆手に取って、「少しずつ領土を取る、これがわしのやり方」的なことを、

息子氏直(うじなお)に偉そうに言っていましたが、実は自分が叱られた、不吉な予言が元となっています。

更にもう1人、氏政が当主となってから久しぶりに小田原に立ち寄り、制札(せいさつ:民に知らせる禁止事項や、法律など書かれた立て札)

を見たとある僧侶が突然、「あぁ、北条も終わりだ!」とまたしても予言をします。

制札を見ただけで不吉な予言をする僧侶に、町奉行が理由を聞いたところ、「父氏康時代は5カ条しか書いていなかったのに、今は30条もあるからだ」と答えます。

これだけ条約が増えたということは、領民をコントロール出来ていない証拠として、北条滅びのメッセージを残していったのです。

氏政にすれば、余計なお世話だと腹立たしいところでしょうが、実際二人の予言が当たってしまうのが怖いところ。

人のちょっとした言動で、何となく先行きまで読めてしまうとすれば、現代人の我々も普段からの言動に気を付けておかないと、

誰かに不吉な予言をされてしまう怖れがあります。皆さま、気を付けましょう。

ホワイト企業が故に爪が甘い?

氏政が当主になってからも、父が実権を握っていたので、父が凄いのかもしれませんが、氏政もきちんと踏襲して内政を行っています。

北条家は現代でいう、かなりのホワイト企業です。

北条は成り上がりと言えば、成り上がりの家なので、元々守護大名の今川や、関東管領上杉だけではなく、

関東周辺の豪族達や国衆などもわんさかおりまして、それに従う領民や農民達も一筋縄ではいきませんでした。

そこで、武力や恐怖政治で抑えるのではなく、北条が取った政策は懐柔策です。

父氏康は税を3公7民にしたり、目安箱を設置してみたりと、領民たちの気持ちを汲んだ政策が多かったのです。

氏政が跡を継いだ時は、代替わりの検地をし直して、更にお安く、2公8民にしています。

島原藩が9公1民、津山藩、島津藩が8公2民などという、ふざけた税を取っていたことを考えれば、北条家はほとんど儲けがありませんよね。更に、戦に出たらまた減税。

戦国時代は、農民も戦闘民ですから、氏政がここまでしても、食べられなくなると即効敵方に寝返りするか、逃散(ちょうさん)と言って、田畑を捨てて逃げるのです。

しかし、氏政は寝返って戻ってきた農民を、許して受け入れてあげるのです。現代の政治家や官僚達にも見習って欲しい程、庶民にとってはかなり良い領主ですよね?

このおかげで、のちに関東に入封された家康は、三河時代に6公4民だった税を、農民達にサービスのつもりで、

5公5民に値下げしたのにも係わらず、一揆を起こされたりしています。氏政時代は、多少逃げられていますが、とりあえず一揆は起きていません。

時代を見る目も無かった訳では無く、織田信長が勢いを増してきた時には、何とか縁を結ぼうとたくさんの貢ぎ物を送ったり、

アピールしていますし、自分の娘と信長の長男と婚約もしています。

その後信長が本能寺の変で殺された後は、上野(こうずけ:現在の群馬)にいた滝川一益の軍を追い払って、

領地を取り戻したりもしたので、時世が読めないという訳でもありません。

父亡き後は、一度壊れた武田や今川とも手を結び直していますし、今川氏真を救うために、家康とも同盟を結んでいます。

更に、あれだけ天敵の上杉にも、自分の弟を養子に出しているのです。

しかし、この養子に出した弟(名を改め上杉景虎)と、のちの上杉家を継ぐ、上杉景勝との間で御家騒動が起こり、

結果景虎が負けてしまったので、更に遺恨を残しただけという結果になっていまいますが…。

何れにせよ、氏政は実は良い人過ぎて、爪が甘いのかもしれません。

手を出し過ぎて敵だらけ?

氏政43歳の時に、息子の氏直(うじなお)に家督を譲りますが、やはり父と同じように実権は氏政が握っていました。

父氏康と共に、関東に領土を広げる戦いも苦戦したり、敵も多かったのですが、まだ狭い範囲の戦いでした。

ただでさえ周辺にいた敵は、守護大名から戦国武将になった強者達や、関東管領など室町幕府の正規軍の他に、

地方の国衆達も中々のメンツ揃い。武田、今川、上杉、佐竹、その他にも里見、真田など、北条が手を広げれば広げる程、敵は当然ながら増えます。

氏政は最終的に相模(さがみ)・伊豆の他に、下総(しもうさ)、上総(かずさ)という現在の千葉県、

そして上野(こうずけ)、下野(しものつけ)、常陸(ひたち)という、現在の群馬、栃木、茨城、更に駿河(するが)

という静岡の一部も手に入れて、240万石という大大名になっていました。

これだけ手を広げていれば、当然敵も多いのが分かります。

更に、父氏康亡き頃には、すでに室町幕府の力は皆無で、信玄が死に、謙信もこの世を去り、

新たに力を付けてきた織田信長や、その臣下に付いた、秀吉も含む有能な武将達が増え、日本中を巻き込む戦となっていきます。

織田信長の台頭で、この国の情勢はどんどん変化を始めました。氏政はそのような中で、領土を守る為に、信長と手を組もうと動き出しました。

しかし上手くいかないまま、信長の死でまた世の中が激変していきます。

織田家の存続を掛けた、家臣達の戦いがあり、織田に臣従を誓った国衆達が動き出し、氏政もそれに伴い、家康と敵になったり、

真田と城の取り合いをしたり、上杉や佐竹との争いも再び起きたりと、氏政も隠居しても休む暇がありませんでした。

ちなみに家康とは途中和睦をして、家康の娘を氏直の嫁に迎え、親族関係になっています。

小田原征伐 氏政の最後

最終的に秀吉が天下を取り、各大名達を上洛させ、臣従を誓わせようと動き始めます。

最期まで粘っていた家康も臣下に下り、残っていた雄藩は、伊達政宗のいる奥羽と、関東の北条のみ。

抵抗していたと言われる氏政も、秀吉の上洛要求に対して、実は対応しています。

親戚となった家康の説得もあり、氏政は弟の氏規(うじのり)を上洛させたり、完全隠居宣言も伝えているのです。

更に、上野(こうずけ)にあった沼田城を巡り、真田と北条は戦っており、氏政はその解決の為に、

家臣である板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)を上洛させ、秀吉に助けを求めており、氏政上洛の約束と引き換えに、沼田を手に入れたりもしています。

しかしここに来て、上杉家との遺恨や、同じく上杉と同盟を組んでいた、佐竹家とも敵対関係にあったことが、氏政の運命を決めてしまいます。

この両家が北条憎しで、早々に秀吉の臣下に下り、北条征伐を願っていたということが致命的でした。

氏政は人が良すぎたということも考えられますが、相手の方が、何枚も上手だったということかもしれません。

確かに氏政もこの敵達と戦っていますが、元を正せば北条の初代から、3代目の父親までがメインであちこちに手を出したのがきっかけであり、

氏政が好んで始めた戦ではないのに、こんなに恨みを買ってしまうとは、何となく損な気がしますね。

結果、沼田問題の後、来年の春か夏頃の上洛にして欲しいという、氏政の願いを秀吉は却下。

更に私闘を禁ずとされている中で、追い打ちを掛けるように、氏政の弟の家臣達が、沼田問題で取り上げられた、

名胡桃城(なぐるみじょう)を奪い返すという事件が発生してしまいます。

跡を継いでいた氏直は、当主として弁明の手紙を秀吉に送っていますが、秀吉はこれ幸いとこの事件をきっかけに、北条征伐に立ち上がってしまいました。

こうして秀吉は、22万の大軍を引き連れて、小田原城を取り囲むのです。

氏政は、やはり籠城しますが、付近の重要な城が次々と落城。上杉に囲まれた小田原合戦では、武田が援軍に来てくれましたが、

この時は、頼りにしていた伊達政宗が、ギリギリのところで秀吉に寝返り、氏政は孤立してしまいます。

この時、家臣達での評定も、降伏か討って出るかという議論が、なんと一ヶ月以上も行われましたが、結論が全く出ませんでした。

後に何事も決まらない事を「小田原評定」と揶揄されてしまうことになりますが、家臣の言うことを聞き過ぎても、

トップが決断出来ないとダメだという見本ですね。氏政の人の良さが、ここでも仇になっていたと感じます。

ちなみに、映画「のぼうの城」の舞台となった忍城(おしじょう)は、この小田原征伐中抵抗を続けていた、北条方の城の一つです。

約3か月の籠城の末に、氏政は降伏。当初命は取らぬという約束で和睦を結んだものの、秀吉は氏政に切腹を命じて、

氏政も息子の命と、家臣や領民達の安堵と引き換えに、それを素直に受け入れます。

この小田原征伐の際、家臣達にも領内の田畑を焼いたりしないように命じていたり、家康に領民達を頼むと手紙や、

水路図など送り、氏政は切腹してこの世を去りました。享年53歳。どこまでも人のいい領主です。

下剋上の末路

氏政の時世の句は、「雨雲がかかる月も、胸の霧もスッキリ払うような秋の風だ」という、未練を感じさせないもの。

息子である氏直も、高野山にて出家の後1年程でこの世を去り、北条家は5代で滅びました。

戦国時代全てに言えることですが、下剋上で勝ち上がっても恨みを買いすぎると、いつか足元を救われます。

信長、秀吉然り、家康とて、徳川を滅ぼしたのは長州による恨みです。

氏政が家を潰した無能というより、時代と状況が悪かった気がします。

しかし初代が平家の流れを汲んでいるせいか、氏政の死にも、何となく諸行無常を感じてしまうのです。