大河ドラマ「真田丸」から、何かと真田の名を聴くことが多くなった気がします。
真田三代、真田十勇士、真田忍者など、ゲームや映画などでその名を耳にしたり、目にした人もいるでしょう。
有名なのは、真田雪村(信繁)ですが、その名を世に残すきっかけとなった人物とは、幸村の祖父である真田幸隆という戦国武将です。
幸隆の息子である昌幸や、幸村の方が知名度が高いので、先代のことまでは知らない人も多いでしょう。
今回は、そんな真田家の元祖とも言える、父幸隆の性格や生涯について紹介していきます。
真田三代の初代?では無かった幸隆
戦国ファンとしては、真田家の事を真田三代と呼びます。父の幸隆、その息子の昌幸、そして孫の雪村(信繁)の3人を、真田家の名をこの世に広めた逸材ということで、そう呼ばれていました。
しかし、ここ数十年の間に実は幸隆が初代ではなく、幸隆の父の存在が判明しているのです。父がいる以上、幸隆は単なる真田家の跡取りであったということになりますね。
少し残念な気持ちになりますが、真田の名をのちの世に残していくきっかけを作ったのは、幸隆で間違いありません。
幸隆は幸綱とも呼ばれていますが、はっきりと裏付ける史料はありません。ここでは、幸隆と呼んでいきます。
そんな真田家は謎だらけ。真田家の始まりも未だはっきりしていません。
言い伝えでは、清和天皇の子が信濃海野庄に移住し、その孫が醍醐天皇より、海野(うんの)の姓を賜って、その流れが信濃の豪族になったと言われています。
そして、その海野家当主の分家筋にあたる、海野棟綱(うんのむねつな)の子が真田を名乗ったとも言われていますが、今のところ不明です。
史料として信憑性が無いと言えるのは、江戸時代に入ってから、「真田丸」ではお馴染み大泉洋さん演じた、
信之の領土である松代藩にて真田家の家系図をまとめたので、箔を付ける為にそういう出自にしたのではないかと言われています。
現在は、幸隆の父は真田頼昌と言い、母が海野棟綱の娘ではないか?と伝えられているので、多少は海野家に縁があったのかもしれません。
しかし、大河ドラマに登場した、草刈正雄さん演ずる昌幸の胡散臭さや、ハッタリの上手さ、そして昌幸の妻が出自を偽っていた事を思い出すと、全く何の関係も無い可能性も捨てきれませんね。
何れにせよ、少なくとも1440年に関東で起きた幕府との戦い「結城合戦」に、真田の文字が登場していることから、
幸隆が初代ではなかったということは確定してもよいのでしょう。
ひたすらに小県を守りたい真田家
小県(ちいさがた)とは、その名の通り小さい領土ではありますが、真田の大切な領地です。
信濃にあるこの地域は、山も険しく、扇状地でもあり、田畑を開くには狭い盆地と、冬は雪も降って大変自然環境厳しい土地でした。
環境は厳しいながらも、それなりに呑気に過ごしていた真田家を震撼させたのは、隣国甲斐の武田信玄の父である信虎の登場です。
武田家が北の海を目指し、信濃に侵攻して来たのは幸隆が29歳の時でした。
小県は信虎に侵略され、幸隆は故郷から逃亡するしかありませんでした。
海野平の戦いにて海野家は敗走し、当時関東管領であった上杉家(後の上杉謙信の養父)を頼って、上野(こうずけ:現在の群馬県)に匿われたと言われています。
同時期、その家臣である長野業正という男の元に、幸隆も身を寄せ上野にいたという史料により、真田家も戦には参加していたと思われますが、はっきりとしたことは分かっていません。
その日から、信濃は戦場に巻き込まれていきました。「真田丸」でも、幸隆の息子である昌幸が、
小県を守る為に必死でクジ引きなどを息子に迫っていましたが、幸隆も武田家の信濃侵攻以来、大ピンチを迎えてしまうのです。
幸隆にはその時既に、子供がいました。長男信綱はまだ4歳、次男昌輝はまだお腹の中。
後に武田家最強家臣、武田二十四将と父子揃って呼ばれるようになるとは、この時幸隆は想像もしていなかったでしょう。
ちなみに「真田丸」で草笛光子さん演ずる、「おとり」という、豪胆な昌幸の母が登場していましたが、その人こそが幸隆の妻です。
幼子を抱えたまま、戦国の荒波に揉まれていくのですから、相当覚悟の出来た嫁だったのでしょうね。
しかし真田家にとって、不幸の元凶は全て武田家にあると言ってもいいでしょう。この一族に係わってからトータルで見ると、ロクな目に遭っていないのではないでしょうか?
信虎のおかげで小県を取られ、信玄の家臣になってからは小県は取り戻せたものの、大事な息子2人が戦死、
三男昌幸が家督を継いでからは、武田家は滅亡し、織田や豊臣、ついには徳川にまで真田家は翻弄されていくのです。
生まれた時代が悪いのか、それとも運命なのか、武田家さえいなければ、真田家はもう少し平和に生きられたような気もしますが、名も残すことは出来なかったかもしれません。
縁とは不思議なもの、人の人生は本当に一瞬で変化していくものですね。
敵の懐に飛び込み武田の家臣へ
そんな真田家の命運を決めた武田信虎の登場から、信濃の地は戦乱の巷と化し、武田、諏訪、上杉、村上などの戦場となりました。
幸隆は最初、世話になった長野氏の下で働いていましたが、その最中、武田信虎が息子晴信により国外追放され、武田家の領主は晴信に変わりました。
後に甲斐の虎と呼ばれるようになった、武田信玄の誕生です。
確実な史料が無いので、真田家得意の「大博打のはじまりじゃぁ!」という決意が幸隆にあったかどうかは不明ですが、彼は突如として信玄の家臣となるのです。
大河ドラマ「武田信玄」では、幸隆の役は橋爪功さんが演じていましたが、若き当主の誕生を寿ぐ為、碁盤を持っていきなり参上し、自分の領地を掛けて、碁の勝負を挑んでいました。
「真田丸」の草刈昌幸と同じような抜け目は無いが、ひょうひょうとした役で、とても親子を感じさせるものでした。
同じく大河ドラマ「風林火山」では佐々木蔵之介さんが演じていて、同じくいきなり家臣になった信玄の軍師、
山本勘助の紹介で信玄の家臣となっていましたが、こちらはその逸話があるようです。しかし、蔵之介さんの幸隆は、そこまで胡散臭さが無く、少し残念に思った程です。
小県を攻められた時、幸隆は関東管領であった上杉憲政を頼ったと上にありますが、一説にはこの上杉が相当頼りにならない男であったようで、
幸隆は上杉を見限り信玄を選んだとも伝わっています。
本当の幸隆がどのようなキャラクターだったかは、今となっては知ることは出来ませんが、後に知略に長けた男と呼ばれることから、一大決心で信玄の元へと行ったことは間違いないでしょう。
幸隆も、昌幸も弱小国の領主として一族を守る為には、常に最善の策を考え続けねばならなかったのですね。戦国時代の男達の苦労が偲ばれます。
調略と言えば真田家
経緯は不明でありますが、とにかく信玄の家臣となった幸隆。
幸隆の年齢や信玄の年齢が定かではありませんが、幸隆の方が8歳程上で、若き信玄は幸隆と勘助の2人の知恵を借りて、引き続き信濃平定を目指して侵攻します。
戦についても、幸隆が武功で活躍したという史料はほとんど無い中、しっかりと伝わっているのは、唯一「調略」なのです。
調略と言えば、「真田丸」での真田家お得意パターンでしたが、そのスタートはやはり父、幸隆からの教えなのでしょうか?
ちなみに、調略(ちょうりゃく)とは、敵方に色々な策略や工作をして、内通者(スパイ)を作ったり、寝返り者を作りだして、敵を打ち負かす作戦のことです。
信玄にとって信濃を平定するまでに、一番の敵となったのは、村上義清という領主でした。
それまで戦に勝利し諏訪、上伊那、佐久を手に入れてきた信玄でしたが、幸隆の元領土である小県に侵攻した信玄は、上田原の戦にて村上軍に苦戦し負けてしまいます。
ちなみに、この時信玄は、自分の守役である板垣信方を失っています。
その後、村上軍とは攻防を繰り広げ、山に囲まれた天然の要害である砥石城を巡る戦いでも、信玄は撤退を余儀なくされてしまいました。
砥石城を巡って、武田と村上は2回に亘って戦っていますが、その戦を砥石崩れと呼びます。
1度目も幸綱は、砥石城側に調略を仕掛けていたようですが失敗。2度目の調略は上手くいって、信玄は砥石城を手に入れることになります。
その砥石城側の内応者は、幸綱の弟である矢沢頼綱であったとも言われていますが、はっきりとはしていません。
ちなみに矢沢頼綱は、「真田丸」では自分の城である沼田城を巡って、城は絶対渡さんマンの勇ましい爺さんでしたが、
敵を欺く為に村上側の家臣として入りこんでいたとしても、真田の兄弟ですから不思議ではありませんよね。
その後幸隆は、砥石城を落とした功績を称えられ、旧上田領内(小県含む)を与えられました。幸隆はついに故郷の地を取り戻すことが出来たのです。
敵方からふらりとやってきたはずの幸隆はその後、武田家の重臣となりました。
幸隆考案?六文銭の家紋
三途の川の船賃とも言われる六文銭は、真田の家紋です。この六文銭を旗印に決めたのは、幸隆と伝わっています。
六文銭とは、仏教用語で人間の業を表す六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)に合わせているとも言います。
業だけではなく、人の心中にもこの六道はあります。
当時武将達は、いつ死んでもいいように、この六文銭を懐に忍ばせていたとも伝わっていますが、それを旗印や家紋にするのは、不吉とも言われていました。
しかし、幸隆はあえてその六文銭を旗印にしたのです。一説には上杉を見限って、信玄の元へと向かう際、いつ死んでも良いという覚悟で六文銭に決めたという話もあるのです。
確かにその時信玄は、まだどのような人なのかも判断できない上、元は敵の息子。
武田家臣になれるかも不明で、先の見通しも無いまま家族と共に甲斐へと向かう道中、幸隆はイチかバチかの心境だったでしょう。
しかし、その時幸隆の望みは家族を守ることと、真田の領地を取り返すことだけ。
生き延びて行く為に強い領主の下にいなければ、自分たち小国の豪族の命運は無いという気持ちで、若き信玄に命を懸けたのでしょう。
その想いが、六文銭に込められているのかもしれません。
その掛けに勝ち、武田家臣へと無事取り立てられた幸隆は、後に攻めの弾正とも称されるほど、数々の調略や忍を使っての情報戦などで活躍するのです。
信玄に情報戦の大切さを教えたのは、幸隆と山本勘助とも言われています。
信玄生前の頃、幸隆は信玄が突然出家した際、共に剃髪し「一徳斎」と名乗っています。そのことから見ても、幸隆の信玄に対する想いや忠義心を垣間見ることができますね。
真田の名はその後も続く
真田家はその後、幸隆の長男信綱、次男昌輝も、武田家臣として迎えられ、次男の昌輝に至っては、「信玄の両目の如く」とも呼ばれる程、信頼をされていました。
三男である昌幸も信玄の近衆として取り立てられ、信玄の母方の縁戚に当たる武藤家に養子になりました。昌幸は信玄にとても可愛がられていたようです。
四男の信尹も、甲斐の旧族である加津野家に養子になったりと、父息子共々、信玄の信頼は相当厚かったと見られています。
しかし信玄亡き後、武田家と織田・徳川軍との壮絶な長篠の戦いにて、長男、次男が相次いで戦死したことにより、三男の昌幸が急遽真田の当主となります。
この時、幸隆はすでに隠居していたので、京へ向かう戦には参加していません。
信玄が突如亡くなった後、1年程して幸隆も後を追うようにこの世を去りました。享年61歳。
ある意味では、幸隆も武田家が滅びゆく様を見る前に亡くなって幸せだったのではないでしょうか?
最後は武田家の重鎮として過ごし、自分の領土も取り戻したことで、人生の目的を達成した終焉は、幸隆にとって満足できるものだった気がします。
何故ならその後の真田家は、再び戦国の動乱に巻き込まれていくからです。
信玄のおかげで、周りは敵だらけ。真田家を継いだ昌幸は、織田や徳川という新たな強敵の出現に、再び小県を守る為の波乱な人生が始まります。
その後紆余曲折有り、真田家は織田、豊臣の家臣となり、戦乱の世を生き抜いていくのですが、関ケ原の戦いが真田親子の命運を分けました。
昌幸の長男、信之は徳川、昌幸と次男の幸村(信繁)は豊臣に付き、真田家は名を残す為に分裂します。
結局関ケ原で敗戦した昌幸と幸村は、九度山へ送られてしまい、昌幸は故郷に戻ること無くその地で亡くなりました。
そして豊臣VS徳川の最後の戦いである、大阪夏の陣にて、幸村もまた豊臣方として再び戦いますが、豊臣の敗北により自害。
最終的に、徳川に付いていた幸村の兄である信之が、その後松代藩の領主となり、真田家の血は残すことが出来たのです。
知略を持って名を残した男
武力が優勢だった戦国時代に、知略を持って真田の名を残した真田幸隆。弱小国の領主ながら、見事戦乱の世を生き残った真田家には、幸隆の血が確かに流れています。
そして強敵相手に、次々に襲い掛かるピンチをギリギリで乗り越えていくこの家族の物語に、人々は手に汗握りながらも、何故か心躍らせるのです。