戦国時代の女性というのは親の意向で結婚が決められていて、武将の家に生まれたら政略結婚に利用されていました。
そのため武将は正妻である正室の他に側室という妾が認められ、そこには夫婦であっても本当の愛が生じる可能性は低かったと言えます。
しかし、そんな戦国時代で政略結婚していても、妻を思いやり本当に愛した愛妻家の武将も存在しています。
愛妻家の武将にはどのような人物がいたのでしょうか?
愛妻家の武将その1前田利家
前田利家は加賀百万石の礎を作った戦国武将ですが、その正室であった「まつ」をとても愛していたことは有名です。
二人は「まつ」が4歳の時に利家の家に引き取られてきた時に出会い、それから7年後に当時では珍しい恋愛結婚で夫婦になります。
この結婚をしてすぐに「まつ」は11歳で長女の幸姫を産み、それから11人もの子供を一人の正室として授かりました。
ところが長女の幸姫が生まれた頃に利家は一人の茶坊主を斬り殺してしまい、この行動を主君であった織田信長が激怒して織田家を追放されてしまいます。
今でいうリストラのようなもので当然に収入がなくなり、二年後に利家が敵軍の武将を討ち取るまで大変困窮したそうですが、「まつ」は利家を信じてついていきました。
この茶坊主は日頃から利家に嫌がらせをしていて信長も知っていましたが、信長はこの茶坊主を気に入っていたので我慢するように利家に言います。
しかし、この茶坊主は利家が「まつ」から貰った「笄(こうがい」を盗まれ、挙句に安物だとか形が悪いなど侮辱をします。
それまでは織田信長の指示で我慢していたのに「まつ」をけなされたため、利家は我慢ができずに斬り捨ててしまったのでした。
この「まつ」は利家が若い頃は荒くれものですが少し小心なところがあり、大事に至る場面では尻込みをよくしていたので率先して行動しています。
「賤ケ岳の戦い」では柴田勝家についていた利家でしたが、相手方の豊臣秀吉にも自身の四女の豪姫を養女にしていたため、どうすればいいのか悩んで結論が出せないでいました。
そんな時に「まつ」は豊臣秀吉の正室である「ねね」と懇意にしていたので、この「ねね」を介して豊臣秀吉との和議を成立させました。
「まつ」は利家の死後に前田家を救うために自ら江戸城に人質に出ますが、家康との戦いを求めていた家臣を諫めて前田家を守るための行動でした。
最後まで利家の築いた加賀藩を守り抜いて300年間も前田家を健在させたのは、利家を愛してその意思を貫いた「まつ」の功績があったからです。
その2毛利元就
毛利元就は安芸国(現在の広島県)で生まれた武将であり、当時の中国地方は出雲の尼子氏と周防の大内氏が勢力争いをしていました。
毛利元就は謀略と乗っ取りを繰り返して中国地方の覇権を握りましたが、正室である妙玖(みょうきゅう)を迎えると側室は作りませんでした。
毛利元就は戦になると勇猛果敢で男気溢れる武将でしたが、この妙玖のことになると、その面影は影を潜めてしまいます。
この妙玖は47歳の時に病気で他界してしまいますが、毛利元就は自室に三日間籠って嘆き続けます。
挙句に隠居して家督を子供たちに任すとまで言ってきたため、子供たちは必至に説得して思い止まらせました。
筆まめだった毛利元就は息子たちによく手紙を書いていましたが、妙玖が亡くなってからは手紙に妙玖のことばかり書いてくるため、息子らはうんざりするほど困ったそうです。
その内容は「こんな時に妙玖がいてくれたら…」とか、「もう一度だけ妙玖に会いたい」などのろけ話ばかりであり、猛将の姿は全く見えなかったと言われています。
その3浅井長政
最後はあまり愛妻家としては描かれていませんが、個人的には戦国時代で一番の愛妻家だと感じている武将です。
浅井長政は「あざい ながまさ」と読む滋賀県北部の北近江を治めていて、その妻は織田信長の妹で戦国一の美女と名高い「お市」です。
織田信長は越前の朝倉義景を仇敵としていずれは戦いを行う考えですが、そこで困るのはこの朝倉家と以前より同盟を結ぶ北近江の浅井家です。
朝倉征伐を行っている時に背後より浅井家から攻められると挟み撃ちになり、戦国時代では挟み撃ちを受けることは敗北を意味しています。
そのために織田信長は浅井家と姻戚関係を結ぶために画策し、妹の「お市」を浅井家当主の浅井長政に嫁がせます。
完全に政略結婚であり「お市」も気の強さから最初は反目しますが、浅井長政の優しさから次第に惹かれていきます。
浅井長政と「お市」の間には三人の娘が授かり、名前は「茶々(ちゃちゃ)」「初(はつ)」「江(ごう)」と言います。
ところが三女の「江」が生まれた直後に織田信長は朝倉征伐に動き、浅井長政には手を出さないように指示を事前に書状を出していましたが、浅井長政は家臣からの突き上げで朝倉家を助けるために出兵します。
織田信長は朝倉・浅井の兵に前後を挟み撃ちにされて絶体絶命になり、これが「金ケ崎の戦い」ですが織田信長は何とか逃げ出します。
この裏切り行為を織田信長が許すはずがなく、浅井長政に対する出兵は揺るがない事実になってしまいました。
家臣は「お市」を人質として扱うことを浅井長政に進言しますが、浅井長政は「お市」と離縁して織田家に戻るように伝えます。
浅井長政は自分の身の上よりも「お市」の安全を最優先に考えたのですが、「お市」はこの離縁を受け入れずに浅井家に残ることを選択します。
結局は「お市」を慕っていた豊臣秀吉の命令により、「お市」は無理やり浅井家から織田家に連れ戻した後、織田信長は浅井長政を攻め落として浅井家を滅亡させます。
浅井長政は自分が朝倉家を擁護すれば「お市」の立場が悪くなるため、「金ケ崎の戦い」に参加するのは最後まで渋っていたそうです。
しかし浅井長政は前の圧政を強いていた城主を追い出していることから、旧家臣では以前の城主を崇拝していて浅井長政を追放する動きもありました。
自分がいなくなれば領民が再び苦しむだけだとして、浅井長政は本意ではないまま「金ケ崎の戦い」に参戦したのです。
戦国武将でなければ最高の城主にもなれた浅井長政だけに、その死は優しい性格だったからこそ訪れたとも言えます。
まとめ
戦国時代で側室という本妻以外の女性が武将に認められていたのは、自分の子孫を残すためには必要だったからです。
また親が自分の利益を考えて家族の結婚相手を勝手に決めるのは当たり前で、主だった武将はほとんどが政略結婚で妻を持っています。
しかし戦国武将といっても人間なので妻に愛情を持つ人もいて、そんな史実を知ることで武将の人間性を見ることができるでしょう。