戦国時代、活躍して注目を浴びていたのは、常に武将と呼ばれる人たちでした。織田信長しかり、豊臣秀吉しかり。
男世界であった群雄割拠の戦国時代を女性として生き、そして後世までその名を響かせた女性は一握り。
その中にあって今回ご紹介する淀殿(茶々)はとても有名な人物ではないかと思います。
彼女は豊臣秀吉の側室として生き、大阪夏の陣でその命を息子と共に散らせました。
俗に「悪女」と呼ばれる淀殿(茶々)の本当の性格や、豊臣秀吉の側室になる決意をした生涯をご紹介いたします。
淀殿(茶々)という女性
歴史上、様々な女性の登場人物がいますが、彼女ほど「悪女」として有名な女性もいないのではないでしょうか。
もちろん、探せば他にもいるのでしょうが、戦国時代で有名な悪女といえば、「淀殿」という人です。
そもそも、「淀殿」という呼び方は彼女の死後、徳川万歳の世の中で流通した呼び方です。「淀殿」をつけるのは遊女に対してのもの。
本来は「淀殿」と呼ばれていた可能性が高いですね。
しかし、個人的に茶々という響きがかわいらしく、彼女の本来持っているものを表しているような響きがしますので、こちらで進めさせていただきます。
そんな茶々は、1569年。眼下に美しい湖の広がる近江の国城、小谷城で生まれました。父は悲運の武将・浅井長政。母は織田信長の妹で、戦国一の美女と謳われたお市の方です。
後にお初、お江という妹が生まれ、浅井三姉妹として有名になりますね。茶々は長女にあたります。
茶々は生まれながらにして生粋のお嬢様でした。戦国の世でなければ、何不自由なく育てられ、蝶よ花よの人生だったのではないかと思います。
しかし、時は戦国時代。彼女は二度の落城を経験したのち、三度目の落城で自らの命を落とします。年齢は50歳の時でした。
立った五十年の人生の中、彼女は三度も落城という悲劇に見舞われたのです。
一度目は父・浅井長政を失った小谷城。二度目は義父・柴田勝家と母・お市の方を失った北の庄城。そして三度目は、自らの息子と自刃した大阪城です。
燃え盛る炎に包まれて、茶々は最後に何を思ったのでしょうか。遠い日、同じ炎に包まれた父と母を思ったのでしょうか。それは彼女しかわからない事なのかもしれません。
淀殿(茶々)の性格について
歴史的に有名なのは、とにかくプライドが高くヒステリーな女性というイメージが強い茶々。
そして自身の子である豊臣秀頼を溺愛している……今の世ならモンスターペアレントになってしまう可能性が高い母親。
そんな悪いイメージがたくさんあります。では、本当のところはどうだったのでしょうか。
確かに、そう思われてしまっても仕方がないところはあったのかもしれません。それは生まれのせいもありますね。
茶々は生粋のお嬢様です。織田家と浅井家、戦国時代の名門から生まれた茶々は、小谷城を失っても、北ノ庄城を失っても、必ず後見人がおり生活を助けてくれました。
小谷城から落ち延びた後は、信長の庇護を受けて生活しています。信長の死後、柴田勝家に嫁いだ母と共に寒い北国へ向かい、今度は豊臣秀吉に攻められ落城。
ここでは母であるお市の方まで亡くし、孤独な三姉妹は敵である秀吉に助けられます。その後は織田の縁者の庇護を受け、またもや大切に育てられるのです。
どんな悲運に見舞われても、こうしてお嬢様のように守られてきた茶々が、プライドの高い女性に成長していってもおかしくはありませんね。
末妹のお江も、これまた性格がきつい事で有名な女性です。そうならざるして育っていったのでしょう。
しかし、それゆえに、茶々はとても純粋な娘だったとも考えられます。
それを裏付けるように、妹二人を守るべく(と個人的に思っているのですが)、両親の仇である豊臣秀吉の側室になりました。
彼女が側室になる事で、お初、お江の将来を安泰のものとしたのです。
そのかいあって、お初は京極家、お江は徳川家へと嫁ぎました(お江に限っては、秀吉のせいで多少振り回された挙句徳川への輿入れでしたが、それまた別の話となります)。
茶々という女性は、妹たちへの責任感を持ち合わせていたのでしょう。その責任感は、豊臣という家にも持つようになります。
自身の子が豊臣の跡取りとなると、豊臣家をなんとか存続させようと奮闘しますが、ここでまた落城の目にあいます。
この時、お初やお江の力添えで、なんとか命は助かるはずだったのですが、彼女は落城と自害という道を選びました。
豊臣という家に対しての責任や、お嬢様としてのプライドがそうさせたのかもしれませんね。
ともあれ、茶々という女性は、純粋で責任感が強すぎたあまり、少々融通の利かない悪女として後世に名を残してしまったのかもしれません。
豊臣秀吉の側室になる決意
織田信長の家臣だった豊臣秀吉は、1572年、浅井長政、お市の方、そして浅井三姉妹の居る小谷城を急襲。
浅井長政の父親である久政と長政を分断させ、まず久政を攻め滅ぼしたあと、茶々の家族がいる本丸へと攻め込んできました。
この時、長政はお市の方に三姉妹を託し、城の外へと逃します。その後、秀吉に攻め入られ、長政は城内で自刃するのです。
燃え盛る炎に包まれた城を見ながら、当時三つ四つだった茶々は何を思ったのでしょうか。その瞳にはきっと、くっきりと燃える城が写し込まれたに違いありません。
その後、二人目の父となった柴田勝家の城も、再び豊臣秀吉によって滅ぼされました。この時は母親であるお市の方も亡くしてしまいます。
三姉妹は豊臣軍に助けられたと言いますが、当時十四、十五の茶々はここでも何を思ったのでしょうか。
愛しい父と母を、どちらも豊臣秀吉に滅ぼされ、助けてくれたとはいえ心の底から憎いと思ったのではないでしょうか。
しかし、時は戦国。女が一人で、ましてや幼い妹を二人抱えて生きていくには、世知辛い時代です。
茶々は豊臣秀吉の庇護を受けながら、織田の縁者のもとで暮らしました。それから五年後。茶々は両親の仇である豊臣秀吉の側室となったのでした。
この五年の間、きっと茶々はとても悩んだ事でしょう。浅井の事、柴田の事。母の事、父の事。そして未だ幼い妹たちの事。
それらを細い背に背負い、並々ならぬ決意で秀吉の元に向かったのではないでしょうか。
様々な葛藤が考えられますが、きっと一番に思ったのは妹たちの事ではないかと思います。
現に、茶々が側室としてあがる前までに、お初は縁深い京極家へ。お江は秀吉の甥の元へ嫁ぎます(徳川へはその後に嫁ぐことになります)。
どちらももちろん、秀吉の口添えあってのものです。そうやって妹たちの幸せを見届けたのち、彼女自らは仇である豊臣へ差し出したのです。
豊臣秀吉との子
豊臣秀吉の側室となってからの茶々は、秀吉に大切にされて権力を思うがままに奮った……というイメージが強いのですが、実はここからもまた不幸に見舞われてしまうのです。
豊臣秀吉には正室やたくさんの側室がいましたが、誰一人として子を産む事がありませんでした。
しかし、茶々は見事に秀吉の子を宿したのです。秀吉の喜びようは例えようのないものでした。
もともと、秀吉の主君は織田信長。つまり、茶々の伯父です。そして茶々の母であるお市の方に、秀吉は長く恋慕の情を抱いていたという説があります。
尊敬していた主君と、恋焦がれていた女性と繋がりのある茶々を、秀吉は目に入れても痛くないほどにかわいがっていました。城を一城与えるほどです。
この城が淀城と呼ばれていた事から、茶々は淀殿と呼ばれるようになったのです。
さて、豊臣秀吉の子を産んだ茶々。第一子は捨(鶴松)という男児でした。捨という名にしたのは、捨て子はよく育つという民間の言い伝えにのっとったものです。
しかし、この鶴松は二歳で亡くなってしまいます。その二年後、のちに大阪城の君主となる豊臣秀頼が生まれます。
幼い頃の名は「拾」と言います。捨という名にしてしまったために鶴松を亡くしてしまったのかもしれないと、今度は拾という名にしたのです。
この時、秀吉は50歳を過ぎていました。今でこそ、50代はまだまだ若いとされますが、戦国時代当時、「人生五十年」と歌われていた時代です。
かなりな高齢と言えるでしょう。ですから、秀吉はこの拾の事を、亡くなる間際まで気にかけていたとされています。
秀吉亡きあと、秀頼は母親である茶々と共に、豊臣の名を守ろうとしますが……徳川家康によって滅ぼされてしまいます。
秀頼はこの時、母と共に自害した、とされていますが、のちに九州の方へと逃げ延びたという説もあり、はっきりとした事はわかっていません。
さて、茶々にはもう一人、猶子がいました。完子という女児です。猶子とは、養子と似ていますが、養子とは違い相続権はありません。
完子は妹であるお江の娘です。秀吉の甥との間にできた子でしたが、徳川へ嫁ぐ際に茶々の融資となりました。
実の子のようにかわいがっていたとされています。この完子は後に公家へと嫁ぎ、ここに織田、浅井、豊臣、徳川の血が皇室に流れていく事となります。
淀殿(茶々)と豊臣秀吉の年齢差
戦国時代の結婚は、主に政略結婚でした。
ですから、ある程度の年の差があってもおかしくない世の中ではありましたが、秀吉と茶々の年齢差は群を抜いて突出していたのではないかと思います。
茶々は1969年に生まれました。少し前までは1967年生まれという説もありましたが、今はこちらの1969年説が有力のようです。
対して秀吉は、1537年とも1536年とも言われています。茶々の伯父である信長は1534年生まれ。母であるお市の方は1547年。父である浅井長政は1545年生まれとされています。
秀吉は茶々の両親よりも年上だったんですね。親子ほどの年齢差があったのです。
豊臣秀吉が数多くいる側室の中でも、とりわけ茶々を愛でていたのは、茶々が秀吉の子を宿したからだけではありません。
先にも少し述べましたが、秀吉はずっとお市の方に恋焦がれていました。信長の死後、織田の勢力は二つに分かれます。
古参の柴田勝家と、信長を死に追いやった明智光秀の首を取った豊臣秀吉です。この時、両者はお市の方を妻にする事にやっきになっていました。
恋慕の情があったのも事実ですが、それ以前に、信長の妹であるお市の方を妻にした方が、より強い権力を持つ事になるだろうと思ったからです。
この時、勢いは豊臣秀吉にありました。なんせ、信長の仇を討った男なのですから。しかし、お市の方は柴田勝家の元へと嫁いでいきます。
最愛の夫、浅井長政を滅ぼした秀吉が許せなかったという説がありますが、この通りではないでしょうか。
それでも諦めきれない秀吉は、事あるごとに柴田ともめ、最終的に攻め滅ぼしてしまうのです。
この時、お市の方が柴田勝家と共に自害したと聞き、秀吉はかなりのショックを受けたのでした。
そこまでして恋焦がれたお市の方の娘であり、一番お市の方に似ていた茶々を、秀吉が大切にしないわけがないのです。
最後に
様々な書籍やドラマ、映画などで、淀殿という女性はほぼ、悪女として描かれてしまいます。
しかし、歴史をよく読み解いていくと、それだけではないものが見えてきませんか?例えば、茶々の生きた時代が戦国時代ではなかったら。
戦国時代であっても、両親である浅井長政とお市の方が生きていたら。彼女の人生はここまで大きく翻弄されたものにならなかったかもしれませんね。
女性が生きるのに厳しい戦国時代、その純粋さと信念を胸に誇り高く生きた茶々を、賞賛せずにはいられません。