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常高院(お初)とはどんな人物?性格や波乱万丈の生涯について

常高院、またの名を「お初」という女性を思い浮かべてみてください。と言われて、すぐにパッと思い浮かぶ方は、立派な歴史好きの類に当たるのではないでしょうか。

このお初という女性は、かの有名な淀殿の妹にして、二代目徳川将軍・徳川秀忠の妻、お江の方の姉になる人です。

浅井三姉妹といえば、少しは耳にした事があるのではないでしょうか。父は悲運の武将・浅井長政。母は織田信長の妹で、戦国一の美女と謳われたお市の方です。

淀殿、お江、どちらも有名な戦国時代の女性ですが、真ん中のお初だけはどうも認識が薄いところがあります。

しかし、歴史上の大役を果たしたりと、なかなか活躍した女性なのですよ。今回はこの常高院(お初)を紹介したいと思います。

常高院(お初)の性格

歴史上、お初の姉である淀殿、幼少名を茶々は、とてもプライドが高いきつい性格をしていたとされています。それはお初の妹であるお江も同じでした。

そんな姉妹の間にいたお初は、どちらかといえば温厚で優しい性格をしていたようです。

今の世もそうですが、他の兄弟、姉妹が激しい気性だと、どの子かは大人しい性格になるようですね。

ただし、とても嫉妬深い性格をしていた事でも有名なのがお初です。

この嫉妬深さは、おそらく三姉妹一ではないでしょうか。しかし、それにもちゃんと理由があるのです。姉の淀君は両親の仇である豊臣秀吉の側室になりました。

妹のお江は秀吉の意向で婚姻させられたり、離縁させられたりを繰り返し、最終的に年下の徳川秀忠へと嫁がされてしまいます。この時、娘の完子と別れさせられてもいます。

つまり、最初から好きだったとか、相思相愛の相手と結ばれたわけではないという事です。そんな中にあって、お初だけは違いました。

お初はなんと、幼い頃から大好きだった人と結婚できたのです。初恋が実ったわけです。それほどまでに好きな相手ですので、それだけ嫉妬深くなってしまったという事なのでしょう。

当時は側室を持つ事など当たり前の世でしたが、京極家はなかなか難しいものがあったのではないかと思います。

しかし、お初はなんだかんだ言っても、側室に産ませた子も立派に育てあげているのですから、見上げたものです。

常高院(お初)の結婚まで

1570年に小谷城で生まれたお初ですが、1573年にその小谷城が伯父である織田信長によって滅ぼされてしまいます。

この時、父である浅井長政も失いました。母・お市の方と織田信長に庇護されたお初は、ここで蝶よ花よと暮らす事になります。

織田信長はお市の方をかわいがっていたとありますが、その娘たちの事も、とてもかわいがっていたようです。

しかし、そんな信長も本能寺の変で明智光秀によって討たれてしまいました。1582年の事です。お初は12、13歳になった頃でした。

小谷城の落城からしばらく、幸せに暮らしていたお初にまたもや不幸が訪れたのです。信長の死後、織田家は混迷の中へと落ち込みます。

古参の柴田勝家と、信長の敵討ちをした豊臣秀吉が対立したのです。そんな中、信長の妹でお初の母であるお市の方がどちらに付くのか、問題になりました。

しかし、お市の方の胸の内はもうとっくに決まっていたようで、彼女は夫・浅井長政の仇である豊臣秀吉ではなく、かなり歳が離れてしていましたが、柴田勝家に嫁いだのでした。

柴田勝家を義父とし、お初は寒い北ノ庄城で暮らす事になりました。確かに寒さはありましたが、ここでもまた幸せがお初を包んでくれたのです。

ですが、その幸せも、瞬きをするうちに失われていくのでした。

寒い冬が終わり、雪がなくなったころ、豊臣秀吉と義父の対立は激しくなり、賤ヶ岳の戦いが始まりました。ここで、お初は二度目の落城に遭遇し、今度は義父と母を亡くしました。

その後、豊臣秀吉に浅井三姉妹は助けられ、信長の弟である織田信雄を後見とし過ごす事になったのです。

京極高次との結婚

先ほどにも少し述べましたが、お初の結婚はお初自身にとってはとても喜ばしいものとなりました。

お初の夫になったのは、父である浅井長政の姉、京極マリアの息子・京極高次です。

つまり、お初にとっては従兄になるわけです。年の近い従兄に憧れるのは、よくあること。しかも、高次の生まれは小谷城です。

お初が生まれたのも小谷城。幼いころ、二人はともに暮らしていたという事になるのです。

もっとも、お初のもの心がついていたかどうかは不明ですが、幼いながらも一緒に遊んでくれたお兄ちゃんが好きになったのは、確かにある話ではないでしょうか。

その後、二度の落城を経験したお初は、豊臣秀吉の計らいで1587年、憧れの従兄・京極高次へ嫁ぐ事とになります。

この結婚ですが、豊臣秀吉の計らいもあり、また、のちに豊臣秀吉の側室となった松の丸(京極龍子)の計らいでもあったと言います。

もしかすると、ですが、豊臣秀吉を介して龍子と仲良くし、女子会のような話の中、実は高次さんの事が……とお初が告白したものだから、龍子が画策したのかもしれませんね。

ともあれ、お初はこうして京極家に嫁いだのです。ちなみに京極家はお初の実家、浅井家とも関わりの深い家柄です。

もともと、浅井家が治めていた北近江は京極家のものでした。しかし、浅井家が下克上を起こして主従が逆転してしまった謂れがあるのでした。

立場が逆転されてしまった京極家を浅井家はきちんと面倒を見ていて、だからこそ高次は庇護を受けていた小谷城で生まれたと言われています。

常高院(お初)の唯一の闇・嫉妬心

とにもかくにも、大好きで大好きで仕方がなかった高次の妻となったお初は、それはもうかいがいしく高次のために尽くしました。

残念ながら浅井三姉妹の中で唯一お初だけ子がいません。

原因は不明ですが、それでも高次はお初を離縁するでなく、高次が亡くなるまで相思相愛の夫婦だったとされていますから、お初の一方的な思いだけではなく、高次もお初に対して気持ちがあったのでしょう。

ただ、いえ、だからこそ、お初はとても嫉妬深いところがありました。戦国の世では、側室を持つのは当たり前のこと。

ましてや、お初には子が生まれません。それならばなおさら側室を作り、後継ぎを作らなければならない世の中です。しかし、お初はそれが許せませんでした。

とある日、高次がうっかり手をつけてしまった侍女に子供が生まれてしまいました。男の子です。

それを知ったお初は、あろうことかその子を殺してしまおうと考えてしまったのです。

ちなみに、先ほどもお話しましたが、お初は三姉妹の中で一番温厚で優しい性格の持ち主です。

浅井三姉妹は様々な書物、ドラマ、映画になりましたが、やはりどれを見てもお初はとても温厚で優しい感じがします。

利発なイメージもありますね。ですが……どうしても高次が他の女性を愛した事が許せなかったのでしょう。

この事を知った高次は、慌てて家臣の磯野信高に子を預け、磯野は浪人として各地をさまよいながら、お初の激昂が収まるまで、子を匿っていたそうです。

その後、その子・忠高をきちんと育て上げ、老後まで仲良くしていたのというのですから、お初は立派な女性だったに違いありません。

また、他にも大勢の養子をとり、すべての子に愛情を注いで育て上げました。とても母性の強い女性だったのでしょうね。

豊臣と徳川のはざまにて

高次と結婚してしばらくすると、豊臣秀吉が亡くなりました。すると、姉の淀殿の、妹の嫁ぎ先である徳川がもめ始めたのです。

三姉妹はとても仲が良く、姉妹それぞれがとても胸を痛めた事と思います。そんな中、関ヶ原の戦いが始まりました。

西軍は豊臣の石田三成。東軍は徳川家康。姉と妹が対立してしまったのです。お初の嫁ぎ先である京極家は迷いました。豊臣には大恩がありますが、徳川の勢いは熾烈です。

京極の家を守るために、高次は西軍につくと見せておいて、東軍につきました。世にいう「大津城の戦い」です。

裏切者となった京極高次のいる大津城を、西国一と言われた天下無双の立花宗茂らが襲います。

城内ではお初を始め、多くの女性たちも戦いました。最終的には開城してしまうのですが、開城の直後に関ケ原の戦いが始まり、東軍が勝利。

この大津城の戦いで立花宗茂らの足止めをした功績をたたえられ、京極家は徳川にあってもその名を残すことに成功しました。

しかし、その戦いから数年後、高次が亡くなってしまいます。高次の死後、お初は常高院と名乗り剃髪しました。ですが、実はこれ、形式だけだったという話があります。

お初は伯母であり義母でもある京極マリアからの影響で、キリシタンだったのです。

ともあれ、戦国の世にならい、かたちの上だけでも尼となったお初ですが、まだまだ老後をゆっくり過ごしている場合ではありませんでした。

関ヶ原の戦いのあと、いよいよ徳川と豊臣の争いが激しくなり、お初は双方の仲介役として奔走します。

お初はその利発な様子から、徳川家康にも気に入られていたようで、仲介役にはうってつけだったのです。

何度も姉である淀殿の説得しようとしたお初ですが、歴史の流れはとどまる事を知りません。お初が大阪城にていまだ説得していた最中に戦いが始まってしまいました。

大阪夏の陣です。お初は淀殿に逃され、迎えに来ていた徳川の臣と共に崩れ落ちかけている城を後にします。

その時のお初はどんな気持ちだったのでしょうか。もう二度と会えなくなるだろう姉の思いを胸に、自分の力の無さを呪ったかもしれませんね。

最後に

男たちがその力を武器に、群雄割拠していた戦国時代。その男たちの裏では、数多くの女性が翻弄されていました。お初もまた、その一人ではないかと思います。

大津城の開城を含めますと、なんと茶々は四度も城が落ちる場面に居合わせた事となります。それだけ、波乱万丈の人生でした。

徳川の世になった後、初は継子である忠高の元、63、もしくは64まで生きたとされています。当時にしてみれば大往生ですね。三姉妹の中でも、一番の長生きでした。

お初こと、常高院。その人生は三姉妹の中で、一番地味とされながらも一番波乱万丈な人生だったかもしれませんね。