未分類

浅井長政、イケメンと言われる真相は?身長や、性格、生涯について

数多の男が鎧甲冑に身を包み、その威信を賭けて戦いを繰り広げていた時代。それが「戦国時代」です。

その中で、一際義理人情に厚い武将がいました。その名を「浅井長政」と言います。

ほんの少しだけ歴史に詳しければ、誰もが知っている武将でもありますが、歴史が苦手という人だと全く知らない武将かもしれません。

そんな浅井長政という武将は、果たしてどんな人物だったのでしょうか。

イケメン?という噂もよく聞きますね。それに見合う身長や性格をしていたのでしょうか。ここでは戦国武将・浅井長政についてご紹介しましょう。

そもそも浅井長政とは?

今、世の中には戦国時代を舞台とした小説や漫画、アニメ、そしてゲームがたくさんあります。

その中では誰もが知っているような有名な武将が勇猛果敢に戦い漢を見せてくれています。

そんな中、それこそ誰もがよく知っている武将・織田信長の物語を読み解いていくと、物語の中盤に必ずと言っていいほど出てくる武将がいます。

それが、浅井長政です。物語やゲームの中で、彼はとても温厚でイケメン、家族を大切にするといった、戦国時代にはあまり見ない清廉潔白な武将として描かれています。

彼は北近江の国、今でいう滋賀県の戦国大名でした。長政が生まれた当時、浅井家は六角氏との戦いに敗れ、六角氏に従事していました。

長政の母が人質として六角氏の城にいたため、長政は六角氏の城で生まれたという事です。

長政が元服する頃(15歳)になっても、この関係性は変わらずにいて、しかも、六角氏の当主からは自分の名前から漢字を一つやるから、お前は賢政と名乗れと強要されてしまいます。

それだけではありません。六角氏の家臣の娘と結婚しろと、とにかく扱いが徹底的に従僕としての扱いを強要されてしまったのです。

これに、若き長政(浅井家)は反旗を翻し、野良田の戦いが勃発します。そこで浅井家家臣たちの目を奪うような素晴らしい働きを見せた長政は、若くして浅井家の当主としての道を歩む事になります。

浅井長政は本当にイケメンだった?

浅井長政といえば、イケメンという事で有名です。

野良田の戦い前に、六角氏より押し付けられた妻と離縁した後に迎える二人目の妻、お市の方は戦国一の美女と謳われていて、長政とお市の方の夫婦は、美男美女の組み合わせとしても有名でした。

では、本当に長政はイケメンだったのでしょうか。浅井長政の容姿を鮮明に伝える掛け軸があります。

長政といえばこれ、と言った感じでよく見るお市の方の肖像画と対になっている高野山持明院像にある肖像画です。その中に描かれている長政を見てみると、

……はて。ふっくらとした体躯、色白で餅のような肌。なんなら二重顎。ようするに、今で言うぽっちゃりさんな長政がそこにいます。

かたや、お市の方の肖像画を見てみますと、すっきりとした目元、ほっそりとした美しい顔立ちがそこにあります。

お市の方の実兄で有名な織田信長の肖像画とよく似ています。

織田兄妹の肖像画と、浅井長政の肖像画を並べてみてみますと、やはり「イケメン」というのは物語やアニメ、ゲームからの影響が強いと考えられます。

ただ、イケメンキャラとして今の世に名を響かせているのは、長政のそのまっすぐな生き方と身内のこと、部下の事を殊の外大切に思う気持ちも手伝っているのではないかと思います。

お市の方との仲は戦国一と言われるほど仲睦まじく、当主になってからの浅井領では、民からとても慕われる殿様でした。

長政がふっくらした体系になってしまったのは、長政を慕う領民たちが、資源豊富な北近江の様々な野菜や果物、肉や魚を届けてきたからかも……なんて説もあるようです。

そんな領民に対しても長政はお礼の手紙を書き記したという話があります。こんなお殿様なら、また美味しいものができたら食べてもらいたくて届けてしまいそうですね。

領地を治める殿としての長政とは

六角氏との戦いに敗れ、長い間苦渋の生活を強いられてきた長政は、父親と共に発起した野良田の戦いにて勝利を収めます。

この戦いぶりを家臣たちに見初められ、家臣たちの熱望により長政が家督を相続。

この時、父である久政は一度家臣たちから追放されるのですが、すぐにまた長政と一緒に暮らし始めます。

義理堅い長政は、父親を追放したままにできなかったのでしょう。ちなみに、長政が家督を継いだのは、推定15歳の頃。元服してすぐの頃です。

若い当主では不安でいっぱいのはずなのですが…長政を仰ぐ家臣たちは違ったようです。この若き侍に、多大なる期待を寄せていた事でしょう。

その後、長政は猛烈な勢いをつけてきた織田家と婚姻により同盟を結びます。

この時、織田信長は調略の最終兵器として温存していた妹(もしくは従姉妹という説も)のお市の方を浅井家に差し出したのでした。

お市の方は戦国一の美形と謳われるほど美しい女性でしたし、信長が一番かわいがっていた妹でもありますから、ここぞという時を選んだのです。

というのも、この頃の信長には二つの心配事がありました。一つはずっと小競り合いを続けていた美濃との戦いです。この調略の足掛かりとするために、近江が必要でした。

もう一つは、京都へ上洛するのにも、この近江を通らなければなりません。信長は浅井家と懇意である朝倉家と、こちらもずっと小競り合いを続けていましたので、なかなか通れなかったのです。

ですが、浅井家との同盟が成立し、美濃と京都への足がかりができました。ここで、長政は一つだけ条件を出します。それは「朝倉家と戦わない事」。

浅井・朝倉とひとまとめに総称される事も多いほど、朝倉家との繋がりは深く、父親の代からの恩義もありました。

こんなところも真面目な長政らしい条件ですね。こうして、浅井家は破竹の勢いであった織田家と同盟を結び、朝倉家の安泰も守りました。政治的にも手腕があった事が伺われます。

身長や性格について

織田信長の妹を娶る事には、家臣のほとんどが反対でした。一番の原因は、浅井が懇意にしている朝倉家と織田家が対立していたからです。

ですがそれも、婚儀を行う代わりにもう攻め込まないという約束を信長に取り付け、一件落着です(と、結婚当時は信じていました)。

結婚後、長政とお市の方は、互いに惹かれあい尊敬しあい、稀にみる仲良しな夫婦となりました。

実は、お市の方。戦国時代の女性の平均身長が150センチほどだったところ、なんと165センチもあったそうです。

今でこそ珍しくありませんが、当時はかなり珍しかった事と思います。そんな長身で美形、まるでモデルのような体系のお市の方と長政は体系的に釣り合っていたのでしょうか。

当時、男性の平均身長は160センチでした(お市の方はこれも抜いてます)。長身であるお市の方の兄、信長は170センチあったと言われています。かなり大きいですね。

しかし、なんと長政は180センチあったというのです。今の世でも、180センチもあると高い印象がありますが、当時は驚くほどの高さだったのではないでしょうか。

どうやら浅井家は恰幅の良い血筋らしく、のちに長政の孫にあたる豊臣秀頼も、身長190センチ越えの、体重160キロ越えしていたようです。

母親の淀君(長政の長女)も、母親のお市の方よりも高く170センチ近くあったそうですから、完全に浅井・織田の家系ですね。

高身長で恰幅の良い長政でしたが、決して威圧的な雰囲気はなかったようです。

一度戦場に出れば、織田信長も一目置くほどの猛将ぶりを見せる長政ですが、とても義理堅く実直で清廉潔白な人物だったようです。

女性にも優しく子煩悩なイメージもありますね。それも本当のことだと思います。ただ、その義理堅く潔白な性格ゆえに、悲劇的な最後を遂げてしまったといっても、過言ではないでしょう。

長政の妻や子の辿った道

信長と同盟を結んでしばらくは良かったのですが、なんとあれだけ約束をしたのに、信長が朝倉家を攻めはじめたのです。

お市の方と結婚して、つまり、同盟を結んでわずか数年後の話でした。この時、長政は苦渋の決断を強いられます。

長政自身、自分の名前に「長」という漢字を入れるほど、信長を尊敬していました。義理の兄と弟としても仲が良かったと聞きます。つまり関係はとても良好だったのです。

ですが、突然の信長の裏切り……。長政は決断を強いられます。愛しい妻の兄でもあり、尊敬する信長側につくか、古くからの付き合いがあり、義理がある朝倉家につくか……。

長政が選んだのは、朝倉につくことでした。正直なところ、長政本人は信長に味方したかったことでしょう。

しかし、家臣の反対もあり、義理堅い性格の長政は朝倉家を見放すことができなかったのです。

これには信長が大激怒。一番の秘蔵っ子であったお市の方を嫁に出し、なんだかんだとかわいがってきた長政が自分を裏切ったと、かなりな大激怒だったようです。

そもそも、最初に約束を違えたのは信長なのですが……。ここに、織田家との同盟は決裂。

この時、長政はお市の方と子供たちを織田家に帰す、つまり離縁の道も考えたそうなのですが、お市の方が反対。

長政もまた、政略結婚であったけれど互いに惹かれあっているお市の方と離れる事ができず、お市の方はそのまま浅井に残りました。

この時、お市の方は織田陣営に両端を結んだ小豆の入った袋を陣中見舞いとして届けます。

通常は片方だけ結んであるものなのに、なぜか両方……。これにピンときた信長勢は、すぐさま退却します。

まさかの長政の裏切りを知り、朝倉と挟み込まれると察したからです。

これが世に言う「袋のネズミ」の語源になったエピソードなのですが、本当は作り話だという説もあるようですよ。

しかし、愛する夫と愛する兄、どちらも大切に思うお市の方の痛々しい気持ちを表すエピソードとして、よく語られています。

さて、軍を整えなおした信長が長政を攻め込んできました。姉川の戦いです。

姉川という川を挟んでの戦いでしたが、この川が死んでしまった兵たちの血で赤く染まったという説があります。

それほど凄惨な戦いだったようです。この戦いで勝利を収めたのは織田側でした。

その後、一時的に休戦状態になるのですが、二年後、再び信長が攻めてきます。長政とお市の方、そして子供たちが暮らす小谷城が炎に包まれました。

長政はここで自害しようと決めていたのですが、お市の方と子供たちは逃がす事に決めました。

お市の方は嫌がりましたが、まだ幼かった娘たちのためにとの長政の強い願いにより、しぶしぶ小谷の城を後にします。

この時、小谷の城を真っ先に攻めていたのが後の豊臣秀吉で、だからこそお市の方はその後、秀吉にだけはきつくあたっていたという逸話があります。

さて、小谷の城から逃げた……というよりは、織田家に帰されたお市の方は、三人の娘たちとしばらくは織田家で暮らす事になります。

敵陣からの出戻りではありますが、とても厚待遇で子供たちも何不自由なく暮らせたそうです。

ただ、お市の方の実子ではありませんが、男子が二人、もしくは四人いたとされています。長男・万福丸は後に秀吉に捕らえられ、磔にされ殺されます。

次男の万寿丸は命こそ助けられますが、出家させられてしまったという話です。戦国の世らしく、やはり直系の男子には厳しかったのです。お市の方と織田家に引き取られた三姉妹。

彼女たちはそれぞれ歴史に名を残す生き方を歩みます。

長女・茶々は後に豊臣秀吉の側室となり、淀殿と呼ばれました。息子の秀頼と共に徳川に攻められ大阪夏の陣にて、息子と共に自害したとされています。

次女・お初は、のちに京極家に嫁ぎ京極家を支えていきます。秀吉の死後、徳川と豊臣がもめた時双方の橋渡しとして活躍したのも有名な話です。

三女・お江は、数年前に大河ドラマの主人公にもなりましたね。彼女は数度の結婚を繰り返した後二代将軍・徳川秀忠の妻となり、三代将軍家光の実母となります。

秀忠の妻となる前に結婚していた秀吉の甥との間に完子という娘がいましたが、秀忠と結婚する際姉の淀君に預ける事となりました。

この完子の子孫が今上天皇の先祖にあたります。つまり、今の皇族には、織田、浅井、豊臣、徳川の血が流れている事になります。すごい事ですね。

まとめ

浅井長政という武将。確かにアニメやゲームの中の長政のように美男子ではなかったかもしれませんが、その生き様はとても美しいものだと思います。

裏切りが横行する戦国時代の中、いつも実直に正直に生きてきた長政こそ、本当に美しい男だったのではないでしょうか。年齢29歳という若さで自害した戦国の若き虎。

義理に殉じた悲劇の武将としても有名ですが、その人生はどの武将よりも濃く、暖かなものだったのかもしれません。

浅井家は長政で滅亡しましたが、彼の血は今も尊敬していた信長の血と共に、今の世にも生きているのですから。