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前田利久とはどんな人物?何をした人?性格などについて

前田利久

戦国時代、前田家と聞いて思いまず最初に出てくるのが、漫画などで有名になった「前田慶次」だと思います。

もしくは、信長の家来として、そして秀吉の親友として有名な加賀百万石の武将、前田利家などもいます。

そんな中、ひっそりと、それでいてしっかりと確かにこの戦国を生き抜いたもう一人の前田がいました。その名を前田利久。利家の兄であり、慶次の義父にあたります。

前田利久ってどんな人?

前田利久が生まれたのは、いったい何年だったのか。これは今もまだわかっていないようですが、利家が前田家の四男だとすると、1539年より3年前くらいだと思われます。

1560年、利久、利家の父、利春が亡くなると、利久は長男ですから前田家の跡を継ぎました。

しかし、利久には子がいませんでしたので、弟の安勝の娘を養女にしました。利家のすぐ上の兄になるのが安勝(前田家の三男)です。

そして、その娘に婿として取らせたのが、あの有名な天下無双のかぶき者、前田利益(前田慶次郎)です。

もっとも、慶次が前田家にやってきた理由としては、慶次の実父が滝川一族だったため、滝川家との縁を深めたいという理由というのもありますが、

もう一つは利久が娶った妻が再婚であり、その連れ子が慶次だったという説もあります。

どちらにしろ、慶次と利久の関係はとても良好で、本当の親子のようであったと伝えられています。

そんな小さな幸せに恵まれていた利久なのですが、1569年、主君である織田信長の命により、家督を四男の利家に譲る事になってしまいました。

理由としては、利久に実子がいないから、という理由が挙げられています。

本来なら義理の息子である慶次に家督が譲られるものなのでしょうが、実の弟が三人もいるのに養子に譲る必要はない、というのが信長の考えただったようですね。

ほかにも諸説たくさんあります。どれが本当かわかりません。ただ言えるのは、信長にとって利家は一番懐いている前田家の人間です。

しかも、利家は信長の衆道であったとも言われていますので、利家可愛さに、という説もぬぐい切れません。

とにもかくにも、利久は不本意な形で家督を利家に譲る事になったのでした。

利久の性格って?

どうにも納得がいかない形で家督を四男である利家に譲った利久。

利玄(次男)、(安勝)三男もいるのに、なぜ利家(四男)、という点からも、やはり信長が利家をかわいがっていたからという説が拭えません。

では、こんな形で家督を奪われた利久は、たいそう利家を憎んでいたのではないでしょうか。と、思われがちですが、どうもそうではないようです。

確かに、家督を奪われる時、いっとき抵抗していた時もあったようですが、これも主に、妻である滝川一族の娘が強く反発したからにすぎないと思われます。

一説には、この娘。城を離れる際に腹いせに、すべての家宝や調度品に呪いをかけていったと言われているぐらいですから、かなり気が強かったように思われます。

ただ、利久はもともとあまり体が丈夫ではなかったという話があります。

ですから、利久自身はこれを機に隠居して静かな生活が送れると、内心ホッとした部分もあったのではないでしょうか。

武に長けている利家に譲る事で、前田家が生き延びるのなら、それも仕方なし、と。

その後、利家との関係が修復すると、利家が城を長く留守にする際は、利久が名代を務めていたりしますので、関係は良好だったと言えます。

それらを考えると、利久という人物はとても温厚で争いごとを好まず、懐の広い人物だったのではないでしょうか。

先にも述べましたように、養子である慶次との仲も良好でした。当時は戦国時代。養子という言葉は全く珍しいものではなかったにしろ、血の繋がらない息子です。

それでも仲良くやっていたのは、利久の懐の広さでしょう。かぶき者で有名な慶次も、利久には頭が上がらなかったようです。

武では到底他の武将にかなわなかった利久だったのでしょうが、人としての生き方は誰もが感服せざるを得ない……

つまり、とても人徳がある人物だったのではないかと推測します。

忠義の部下・奥村永福

漫画「花の慶次」にして、慶次の大親友、奥村助右衛門という武将をご存知でしょうか。

「生に涯あれど名に涯はなし!!」の名言を残し武将です。

今ではすっかり、この助右衛門という名前が定着してしまいましたが、彼の名前は「奥村助右衛門永福」といい、歴史上では「奥村永福」の名が有名です。

彼は前田家代々に仕えた前田家筆頭の家老でした。利久に仕えていた頃、利久が家督を譲らなければならなくなった時、荒子城の城代を務めていました。

その時、利家が荒子城を明け渡せと赴いたのですが、永福は頑として譲りません。というのも、主君である利久からそんな話を聞いていなかったからです。

当時は情報の伝達もなかなか難しいものがあり、こういった時差は生じてしかるべきだったのかもしれません。

そういう理由もありますが、家督を譲るにしても何故に四男の利家なのか。次男、三男はどうしたのか。

そこも疑問だと言い、永福は徹底抗戦の姿勢を見せたのでした。これは利久に対する忠義の現れですね。

利家はそんな永福と争いごとを起こしたくなく、利久に文を送って事の次第を告げ、永福に当てた利久からの文を用意させたのでした。

それを見た永福はすぐに城を明け渡したそうです。そして、この騒動を起こした責任を取るとして、牢人となりました。

本当に律儀な武将です。後に、牢人を解かれた永福は、今度は利家に仕え、良き右腕として活躍したのでした。

前田利久・最後の大仕事

歴史上でも、本当に目立たず、前田慶次の存在がなければその名を知る人はもっと少なかったのではないかと思われている前田利久ですが、

実はとても大きな仕事を最後の最後にやり遂げていました。

それは、世の中が豊臣の時代になった頃の話です。利家と、そして秀吉の右腕、石田三成は、秀吉より越後の上杉景勝攻略を任されていました。

しかし、上杉景勝といえば、あまりにも眉を寄せ過ぎていたせいで、眉間の皺が取れなくなったと言われているほどの堅物です。

しかも義の心で生きているためなのかどうか、とにかく秀吉に賛同しようとしなかったわけです。なにをどうしてもまとまらない交渉でしたが、ここで出てきたのが利久でした。

無骨でぴたりとも笑わない事で有名だった景勝ですが、利久のもてなしを受け、そして利久との時間の中で笑顔を見せていたというのです。

これには景勝の周りにいた誰もが驚きだったとか。なんといいますか、利久にはそれほどの魅力があり、人徳があり、そして、人の心を穏やかにさせる何かがあったのでしょう。

こうして見事に景勝の攻略に成功した利家と石田三成でした。

さすがにこの時ばかりは利家も、兄の頼もしさのようなものを感じたと同時に、武力だけではどうにもならない事もあると悟ったのではないでしょうか。

この交渉からしばらく経った1587年、利久は永眠してしまいます。

もともと病弱でしたので、おそらくは何かしらの病気が原因だとは思いますが、その要因は判明していないようです。

漫画「花の慶次」では、義理の息子である慶次が最後にかぶき、利久を看取ったとあります。創作かどうかはわかりませんが、そうであってほしいと思いますね。

懐が広い、前田利久

戦国時代には多くの武将が存在しました。今でも名前が残っている武将は、本当にその中のほんの一握りです。

その一握りからこぼれてしまっている武将の中にも、それぞれにドラマがあると思うのです。

前田利久もまた、一握りからこぼれ落ちてしまっているのでしょうが、それでもしっかりと戦国の世を生きてきた立派な武将だったのでした。