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最上義光とはどんな人物?故郷、山形を思い生きた男の生涯エピソード

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一世を風靡した大河ドラマ「独眼竜政宗」の登場で、長い間、卑劣で凶悪な武将として認知されてしまった戦国武将がいます。

その名は、最上義光(もがみよしあき)。長い間山形を代表する武将でありながら、伊達政宗と上杉景勝という東北圏の二大戦国武将のせいで、

彼は中々日の目を見ることができませんでした。

しかし最近、ネットの世界では突如注目を集め、2016年に発売された「人物叢書(じんぶつそうしょ)最上義光」は、発売日に完売、増刷という人気ぶり。

今回は何故か今、人を惹きつける最上義光の人物像と生涯エピソードを紹介します。

羽州探題としての最上家

かつて姓(かばね)という現代の名字に当たる物は、天皇の子や孫が家臣に下る際に、親族などの身分を表す為、天皇から賜るものでした。

戦国時代の武将を調べていると、第56代清和天皇(せいわてんのう)の子供達が源(みなもと)という姓を賜り、

その流れを汲むと言われる武家が数多く存在していることに気が付きます。

その流れを汲む一族を清和源氏(せいわげんじ)と呼びますが、そこから分流して室町幕府を開いた足利家、

更にそこから分流した斯波氏(しばし)の分家に当たるのが、今回主役になる最上家になります。

その他有名なところでは、武田家、今川家など多くの武家も、清和源氏の流れを汲んでいます。

何ともややこしいですが、教科書で学ぶ歴史だと登場人物や出来事はぶつ切りで、いきなり色々な出来事があったように思えてつまらなく感じてしまいますよね?

しかし、実は全てが繋がっていたということに気が付くと、歴史はとても面白くなるのです。

話が逸れてしまいましたが、今回主役の最上義光(もがみよしあき)も、清和源氏の流れを汲む名門の出で、羽州探題(うしゅうたんだい)を室町幕府に任ぜられている家でした。

羽州探題とは、奥州(現在の東北地方)を統括する役職の一つで、出羽国(でわのくに:現在の秋田県、山形県)を最上家が、

同じく斯波氏の分家に当たる大崎家が、奥州探題(青森、岩手、宮城、福島)を担っていました。

この探題の職務は、世襲制を許された家柄でしたが、義光の祖父に当たる最上家第9代当主、最上義定(もがみよしさだ)も、

探題として周辺諸国のいざこざや、家督争いなどの戦に介入し、羽州の統一に力を注いでいました。

最上家の運命を変える伊達家の台頭

義光の祖父である義定は、周辺のいざこざを治める為に出陣した際、陸奥(むつ)守護という任を得て力を付け、

同じくそのいざこざに介入しようと出陣した、伊達政宗の曾祖父に当たる稙宗と戦うことになりました。

長谷堂城の戦いで伊達家に敗北した最上家は、稙宗の妹を正妻にし和睦をする羽目に…。この時より、最上家に伊達家が介入できるきっかけを作ることとなりました。

その後跡継ぎがいなかった義定がこの世を去り、分家筋から2歳の義守を養子を迎えて最上家は存続しますが、実権は伊達家がしばらく握っていました。この子が義光の父になります。

しばらくは伊達に服従する形であった最上家ですが、義守が21歳の頃チャンスがやってきます。

伊達家にて父稙宗と、その子である晴宗の父子の争いである、天文の乱が始まりました。

この隙に、最上家は立ち上がります。まずは、伊達家に取られた長谷堂城を奪い返し、伊達家からの独立を図って行動を開始したのです。

その頃に最上家長男として誕生したのが、義光となります。

東北という土地は冬も長く、雪に阻まれてしまうと半年は戦が出来ないので、ある程度戦をしても、

冬が来る前には婚姻関係などを通じて適度な所で和睦するという、しがらみが出来た上に、何とも中途半端な戦で終わってしまうという所でした。

この婚姻関係などで、更に勢力を伸ばしてきたのが伊達稙宗です。

彼は21人もの子がいたので、各地に子を送りまくっていました。そのおかげで、東北各地で親戚関係が増えてしまい、たいへん面倒なことになっていくのです。

後に義光の妹も、政宗の父である輝宗の妻になりますので、この後も最上家は伊達家に何かと翻弄されていきます。

卑劣な男からシスコン?まで、幅広い義光の人物像

義光は、大河ドラマ「独眼竜政宗」にて、主人公である政宗を盛り立てる為だけに、相当な極悪非道のイメージで作られていました。

しかし原田芳雄さん演じる最上義光は、かなりな悪ではありましたが、同時にゾクゾクする程残虐で、カッコイイヒール役でもあったのは間違いありません。

このおかげで、知名度は高まりましたが、長い間とても悪い奴というイメージになってしまった義光ですが、実は領主としては優秀であり、

お茶目な所もあって、領民にとっては案外素敵な殿様だったのです。義光は生まれた時から身体も大きく、力も強かったと伝えられています。

大河ドラマではだまし討ちや、呼び出して暗殺という、ひ弱なイメージだったのですが、それを払拭するエピソードがたくさん残っているのです。

16歳の頃、何人掛かっても動かせなかった大石を一人で転がしたとか、父の共で湯治に行った時に盗賊に襲われ掛けた所を、

率先して戦い父を守ったり、武勇優れた男であったと伝えられています。

一人で領内をうろうろしているエピソードも残っており、立派な馬が繋がれているのを見た家臣が、

「これはどこぞの馬か」と眺めて歓談中、川から褌一丁の義光が出てきて驚いたという話や、戦で一人先陣を切り、家臣に諫められたという猪武者ぶりも残されています。

その他にも、川の氾濫を自ら心配し、家臣に止められるも一人で馬で駆け出した上、領民に避難を呼びかけていたりと、

羽州探題としての役目をきちんと務めようという心意気が見えてきます。

伊達に嫁に出した自分の妹である、義姫をとても可愛がっていたようで、頻繁に手紙をやり取りしていました。

実はこの義姫に出した手紙に平仮名で「よしあき」と書かれていたことから、義光という名前の呼び方が判明することが出来たのです。

身内に翻弄される義光

戦国時代は、家や領土、領民を守るという意味もあるのでしょうが、下剋上がまかり通っていたその時代では、家督を巡る親や子の争いなどが、そこかしこで起きていました。

義光もご多分に漏れず、家督を巡って父と対立することになります。

先ほど紹介したエピソードで、父の共で湯治に行った際、盗賊から父を守ったと述べましたが、

その時の褒美に、父は義光に名刀笹切を与え褒め称え、義光は感激の涙を流したと伝わっているのですが、そのような関係が、一体どこで崩れてしまったのでしょうか?

世代交代の際には、今までのやり方に若い世代が反発しやすいもの。特に父と息子は対立しやすいですよね?

不仲の原因は、親戚関係を増やしつつ周辺国とのしがらみを作るやり方に、義光が異を唱えたとも、弟の方が溺愛されていたという話もありますが、真意は分かりません。

この頃の最上の領土では、最上家などから分派した天童家を始めとする、力を持った国衆達が義光に敵対していました。

最上八楯(もがみやつたて)と呼ばれる連合軍は、伊達に付いたり、最上に付いたりする厄介な存在でありました。

義光は家督を巡って2度父との争いをしますが、ひとまず義光25歳の年に最上家の当主となるのです。

この争いでも、伊達や八楯の国衆達などが係わってきますが、その後も何かとこのメンツが義光の足を引っ張る存在となりました。

中央では既に織田信長が台頭してくる中、義光は羽州探題として最上を統一する為に動き出します。

最上家と同じ斯波氏の流れを汲む、奥州探題の大崎家から正妻とし、盟約を結んだことからも、義光が探題として奥羽を統一を目指していたことが伺えます。

同じ頃、妹の義姫が嫁いだ伊達輝宗もまた、陸奥守護として奥州統一を狙っていたことから、最上と伊達は何かと対立をしていくのですが、

この妹のおかげで二度も義光は伊達との戦を取りやめています。

1度目は兄義光と夫輝宗を止める為、2度目は兄義光と息子である政宗を止める為に、義姫は女だてらに駕籠で戦場に駆け付け、

和睦を義光に懇願しに来るのですから、早く決着を付けたい義光も伊達家も、複雑な気持ちであったでしょう。

更に甥っ子の政宗が伊達家の家督を継いでから、義光は益々翻弄されていきます。今まである程度の穏健派だった父輝宗と比べ、

甥っ子は超荒くれ者の、野望高き男であったのです。

政宗が小手森城を落とした時、伯父である義光に「村中撫で斬りしてやった!嘘じゃないよ、マジだよ!」

というお手紙を出してきているくらいですから、受け取った義光の心中は如何に…。

自分の父親を始め、妹に義理の弟(輝宗)、そして甥っ子(政宗)に振り回され、後に自分の息子達の間でも家督争いが起きて、

最上家が改易されてしまうことを思えば、義光の苦労は相当なものだったでしょう。

秀吉より家康派だった

義光が39歳の頃、ようやく八楯も従い、ようやく最上領内を統一できた頃、中央では信長が死に、既に豊臣秀吉が天下統一に動いていました。

秀吉は、羽州探題に義光を任命しましたが、同じ頃に織田家の台頭により滅亡目前であった、上杉景勝が秀吉に領地は切り取り次第という後ろ盾を貰い、

家臣に命じて庄内地方に侵攻してきました。この時の戦いで最上軍は大敗、撤退を余儀なくされてしまいました。

既に秀吉が出した、私闘はいかんよという、惣無事令(そうぶじれい)発布後の攻撃だったことを、義光は秀吉に訴えたのですが、

最終的に庄内は、上杉の領土と秀吉に決められてしまいます。

実はこの直前、秀吉が唯一従わなかった北条を討つべく、全国の武将達が参陣した小田原征伐の際、

父の死や伊達との諍いなどで遅れて参陣した義光を、手厚く出迎えてくれたのが徳川家康でした。

この時も義光は感動したようですが、庄内領土を巡る上杉の侵略は、惣無事令違反だと言う義光の訴えに、

唯一耳を傾け味方をしてくれたのも徳川家康で、義光はこの辺りから家康に対する信頼感が増していったことでしょう。

義光の次男である義親(よしちか)を誰よりも早く、家康の小姓に差出した上、家親(いえちか)と名を変えさせていることからも、

家康に対する気持ちが大きかったと言えるのではないでしょうか?しかし、豊臣にはあまり良い思いをさせられていません。

庄内は取られ、秀吉の跡取りであった豊臣秀次が義光の娘である、駒姫(こまひめ)を見初めてしまい、しつこく側室に差し出せと迫られます。

義光は、まだ年が若いという理由で、まずは三男を秀吉に仕えさせ、駒姫の側室入りを遅らせて頑張っていたのですが、

ついに秀次に差し出すという時、要の秀次は謀反の嫌疑で切腹させられ、駒姫含む側室や子ら全て処刑されてしまいました。

娘の命乞いの為に、様々な大名に助命嘆願した義光に同情し、あちらこちらから秀吉に駒姫を救って欲しいという声が届き、

秀吉も駒姫を尼にするようにと通達を出したのですが、結局間に合わず駒姫も三条河原に晒されることになりました。

その上、甥っ子政宗と共に、義光にも謀反の嫌疑が掛けられ、謹慎を言い渡されています。

駒姫を失った義光の嘆き苦しみは酷く、食事や水すらも口に出来ないほど悲しんでいたところで、

同時に駒姫の母でもある正妻大崎氏も後追い自刃してしまい、義光の秀吉に対する疑念は決定的になったことでしょう。

故郷山形を思い生きた義光

秀吉に対する不信感は日に日に募っていたようで、慶長伏見地震の際には何故か主君である秀吉の下ではなく、

家康の護衛に駆け付けていますし、秀吉が家康を招いた茶会にも、家康の身を案じて警護に来たほどです。

朝鮮出兵の際も、義光は海こそ渡りませんでしたが、名護屋にて滞在していた時、

家臣へ出した手紙には「早く帰りたい、山形の水をもう一度飲みたい」という弱音を吐いており、秀吉に対する気持ちよりも、望郷の念を募らせていることが伺えます。

更に庄内地方を巡る争いがあった、上杉景勝が会津へと送り込まれ、奥羽諸大名の監視と、家康牽制の役目を担ったことにより、義光の気持ちは完全に秀吉から離れたことでしょう。

最上と上杉に火種を残したまま、その後すぐに秀吉が死に、翌年には豊臣政権のトップであった前田利家もこの世を去り、

いよいよ天下分け目の関ケ原が起こるのですが、その直前上杉討伐に動いた家康に従い、義光も会津へと出陣します。

しかしその途中で、石田三成が挙兵したことを知った家康が引き返してしまった為、奥州の各武将達はバラバラに。

その際中に、甥っ子政宗くんは、上杉と講和を結んでいたり、一揆を扇動していたりとやりたい放題。

最上は孤立寸前でしたが、鉄砲2000挺で上杉を攻撃、その頃伊達の御家騒動で最上に帰ってきていた義姫を楯に、

政宗へ援軍を再び要請し、関ケ原の戦いの結果を知るまで、最上軍は奮闘していました。

上杉軍は関ケ原の戦報を聞いて、ついに撤退。義光は止める家臣に激を飛ばし、兜に被弾してまでも自ら上杉軍に追撃しますが、後一歩の所で上杉に逃げられてしまいます。

義光55歳の時、ようやく庄内地方を取り戻し、これによって出羽山形藩の初代藩主となり、57万石の領主となることができました。

初代山形藩の領主としての晩年

家康が天下を取り、義光は初代山形藩主としての地位を手に入れました。

義光が殿様の内は、一度も山形領内で一揆が起きなかったと伝わる程、安定した国作りに尽力していたのです。

山形城を改築し、城下町の整備も進め、商人たちの税も免除し、土地を分け与えて定期的な市を開催することにより、山形は大いに賑わいを見せていきます。

また、街道の整備や最上川の開削なども進め、酒田港からの海運も活用して、藩財政を増やしていくのです。

その上で、用水改革や、庄内平野の開発も進め、米の生産も増やしていきました。

家臣への礼状で、「鮭ありがとう」と書き残していたり、義光自身も接待や進物なので鮭を多く使っていたことから、鮭好きだったと伝わっています。

最近では義光のことを親しみを込めて、鮭様と呼ぶ人が増えています。

義光は家臣にも案外優しく、怪我をした家臣への見舞いの手紙も多く残っており、敵であった者でも降伏すれば、自分の家臣に取り立て、能力のある者は役職にも付けています。

その他にも、源氏物語や伊勢物語の古典が大好きで、家臣にも熱心に勧めたり、連歌も得意で多くの歌を残しています。

こうしてみると、大河ドラマで植え付けられた極悪非道な義光とは、全く別人のような人物像が見えてきますね。

徳川の世になり、安定したと思われた義光に、又しても不幸が襲います。

家臣達を大事にしていた義光でしたが、肝心の家臣達が一枚岩ではありませんでした。

家臣が家督争いを狙い、長男について、あることない事を義光に吹き込み、いつしか父と息子の間には深い溝が出来てしまいました。

そんな中で、突然長男である義康は何者かに暗殺され、家内に動揺が走ります。

結局、家康に預けていた次男の家親が最上家の跡継ぎとなるのですが、この家親を家康は大変気に入っており、

もしかすると義家暗殺は家康の仕業かもしれないとも伝わっていますが、本当の原因は未だに不明なのです。

もし家康の仕業だとすれば、あんなに信頼した家康に裏切られる羽目になった義光が、哀れでなりませんよね。そうではないと願いたいものです。

しかも後になって、息子義康が和解したがっていたということを不意に知ってしまい、義光は更に深い悲しみと後悔を味わうことになります。

逃れられぬ因果

義光はその後も徳川家に仕え、66歳の時に官位を授かりますが、屈強だった身体もついに病に侵されてしまいます。

そんな身体でも、家康を気遣い駿府城に新築祝いの為に訪れたり、病が重くなり自分が動けない時は、手紙を送ったり、正月の挨拶に使者を使わせたりしています。

最後に家康と逢ったのは、官位を授かってから2年後の秋で、義光は最上家の今後をお願いする為に、

弱った身体を引きずり駿府に登城し、家康と同じ杯で酒を呑み交わしたと伝わっています。

その翌年の1614年の冬に、故郷の山形へ帰還してすぐ、義光は静かにこの世を去りました。

義光の後を追うかのように、家臣4人が追い腹を切り、黄泉への旅路へと付き添ったことをみると、それなりに忠義心のあった家臣もいたことが分かりますね。

義光が亡くなってからの最上家は、跡取りになった次男の家親がわずか3年で急死し、その子が跡を継ぎましたが、このことでまたしても後継者争いが起こってしまいます。

幕府も巻き込んでの御家騒動は5年程続き、ついに最上家は領地没収と藩主の任を解かれてしまいました。

最上家はこうして、57万石から最終的には5000石にまで減らされ、領主としての地位も無くなりましたが、名前だけは残すことが出来ました。

家親の家系は旗本として、義光四男の家系は水戸藩の家老も務めています。

義光は今も故郷山形にある、光禅寺で静かに眠っていますが、この御家騒動や、

最上家の終焉、そして地元での人気も中々安定しなかったことなどを、どんな想いで見守っていたのでしょうか?

実際義光ほど、地元での人気が急変した武将は珍しいかもしれません。戦前は地元でのヒーローとして注目され、

死後300年目に執り行われた慰霊祭には、義光祭りが開催されていた程です。

しかし、戦後になって何故か地元での評価に物申す輩が現れ、山形史にも極悪人のように書かれてしまい、

大河ドラマ「独眼竜政宗」で追い打ちを掛けられて、平成に入るまでは悪の申し子のような扱いになってしまうのです。

山形の中興の祖、最上義光

最近になって、某まとめサイトに最上義光の鮭好きなどのエピソードを始め、案外お茶目な人柄である義光の逸話などが若者の間で広まり、突如人気が急上昇。

地元山形でも、やはり最上義光はおらが村の殿様だ!と、評価が見直され、好感度がアップしてきています。

山形の繁栄に尽力した義光も、ようやく極悪人の肩書を外せるようになってきました。

鮭好きで、勇猛果敢、領民に優しく、探題としてのプライドを持つ男、最上義光。

いつか彼が主人公の素敵な大河ドラマを、義光本人が誰よりも待ち望んでいるかもしれませんね。