「春日局」と聞いてピン!とくるのは「大奥」ですよね。
大河ドラマや映画など、どの作品も殆どが「大奥総取締役」が取巻く波瀾の大奥物語が描かれています。
ですが、実はこの「大奥総取締役」という職名の存在は無く、春日局が「将軍様御局」という立場で大奥の万事差配を任されていました。
実際には、「御年寄」と呼ばれる階級で大奥の万事を取り仕切る最高権力者に当たるポジションでした。
そんな「春日局」、女でありながらも日本の歴史に深く名を刻み、女として咲き乱れた人生にスポットを当ててみましょう。
春日局になる前のエピソード
春日局、本名「斉藤 福(さいとう ふく)」。
1579年、明智光秀の家臣として有名な斉藤利三と稲葉良通の娘・安のあいだに誕生し、4歳までは姫として暮らしていました。
福4歳の時、「本能寺の変」で父・斎藤利三は明智光秀と共に織田信長を討ったため、父の処刑されるところを目の当りにします。
その後、裏切り者の娘として流浪人生を余儀なくされていましたが、母方の親類である三条西(さんじょうにし)家に養育され様々な作法教養を身に付けました。
年頃の17歳になった福は、稲葉正成の後妻として嫁ぎ三人の男児を授かり、一般的な女としての幸せを掴めて本当に良かったよかった!チャンチャン!とは、いかなかったようです。
斎藤福は×1だった?
不幸な生い立ちと疱瘡の跡が残ったアバタフェイスの福には、贅沢と思えるほど夫婦仲も良く三人の男の子にも恵まれ幸せに暮らしていました。
ところが、夫の正成には浮気癖があり、度重なる女遊びの果てには愛人まで囲う有様でした。
正成は、次々に愛人を作っては家に同居させるの繰り返しでしたが福は、悔しいながらも我慢して耐え忍んでいました。
昔は、当たり前のように女が辛抱する時代だったんですね。現代ではこういう女性は、なかなかいないですよね。そしてある時、事件は起こります。
関ヶ原の合戦の二年後、正成の主君である「小早川秀秋」が亡くなりお家は断絶し、正成は浪人の身になってしまうのですが、やはり「癖」というものは恐ろしいものです。
浪人=無職の分際でふざけんな~!冗談じゃない!と、我慢の限界で激怒した福は、離縁状を叩きつけ長男と京にでました。
この離婚騒動での説は様々で、どれが真実かは明確にされていません。
・正成が当時囲っていた愛人を殺害し離縁状を叩き付け京にでた。
・乳母の採用が決まってから離縁状を叩き付け、長男を連れて江戸に向かった。
・離縁状は、正成の方から叩き付けた。
・お互い同意の上での離婚
などとされており、シングルマザーになったのかも不明です。でもバツイチは紛れもなく事実です。
斎藤福のターニングポイント!
幼少期の4歳~26歳まで、苦難の人生が一変したのは一体何が起きたからでしょうか?誰もが想像もできないくらい劇的に変化する福の第二の人生に迫ってみましょう。
徳川秀忠の嫡男「竹千代」後の三代将軍「徳川家光」の乳母募集の立札が目に留まり応募したところ見事に抜擢された福にとってまさに、この時が「福の転機」到来です!
どのようにして乳母に選ばれたのか?の説も曖昧で定かではありませんが、乳母になってから、竹千代に対してのこの上ない愛情と教養を捧げました。
また、秀忠とお江与の方は病弱な竹千代には見向きもせず、竹千代の弟・国松(忠長)ばかりを可愛がっていたためか、福の竹千代に対する愛情はかなりの溺愛振りでした。
竹千代もまた、福を実母のように慕っていたのでお江与の方にとっては、余計に腹立だしくもあり国松の方ばかりになってしまったのかもしれませんね。
この頃の竹千代と国松は、体型や性格などハッキリと表面に現れていたため、どちらが世継ぎに相応しいか今後、三代将軍を巡る争いになっていきます。
福⇒春日局に異例の大出世?
竹千代(家光)は、病弱な上に内気で人前に出ることを好まずどちらかと言えば引きこもり型でした。
一方、弟の国松(忠長)は全くの正反対で元気で活発、社交性もあり秀忠とお江与の方が国松ばかりに目を向けていたこともあり、城内では跡継ぎは国松(忠長)ではとの噂でもちきりでした。
そこで福は、家光を跡継ぎにするために大胆な行動に出たのです。お伊勢参りと称して、大御所家康の隠居地である駿府城へ後継ぎは家光だと公表するように願い出をします。
家康は、内情はどうあれ世継ぎは長男が相続するものとの考えを徹底させるため秩序として前例をあげて、家光を次期将軍するお墨付きを出しました。
そのお墨付きを手に江戸城に戻り家光は無事、次期将軍の命を受けました。
やがて福は、家光の成長と共に大奥だけではなく江戸城内までを取り仕切るようになり、実の息子である稲葉正勝は家光の家来に、更に前夫の稲葉正成の出世にも関わりました。
そして、お江与の方が亡くなってからはより一層の権力を増し取り巻きも増え福の立場は絶大なものになっていきます。
1629年、福が51歳になった時、朝廷より「春日局」の称号とかなり高い階位「従二位」を与えらました。謀反人の娘として苦難の少女時代を送った福が、まさに女としての天下を手中に収めた瞬間でした。
このとき、福は春日局に異例の大出世を成し遂げたキャリヤウーマンとなったわけです。ここから、「春日局」としての新たな人生の始まりと「大奥」波瀾の幕開けとなるのです。
春日局、大奥奮闘記
跡継ぎ問題に安堵を覚えたのも束の間、今度は成人を迎えた家光自身の問題に悩まされ奮闘することになります。
実は、家光は幼き頃から男色で女性に興味がなく、今で言う「ゲイ(同性愛者)」だったのです。
将軍様がゲイ?そのことが他に漏れないように配慮しながらも、天下の一大事を解決しなければならない、一難去ってまた一難。
さて、春日局はどうやってこの課題をクリアしていくのでしょうか?家光は鷹司孝子を正室に迎えるも全く見向きもせず会うことすらもなく、春日局は頭を悩ますばかり・・・。
徳川家の世継ぎを残さなければという使命を果たすため様々な試行錯誤を展開させます。
様々なジャンルの娘達を集め家光に男としての性欲を目覚めさせることに成功し、無事に世継ぎを授かることができました。
尼や町娘など身分問わずに集めた大奥内では、毎度毎度の側室同士のいざこざが絶えない日々だったことはドラマでも取り上げられていましたよね。
今世が、一夫多妻ではなくてよかった・・・と思います。
家光への想いとは?
家光にとって春日局の存在は、乳母として育ててくれた実の親以上にどんな時も傍にいて守ってくれた本当の母親のような存在。
春日局も同様に本当の息子のように愛情を注ぎ育てました。
家光が天然痘にかかった時「生涯、薬は飲まない!」と願掛けをして徹夜で看病するも、自身が病に伏せて家光が薬を飲ませますが飲んだふりをして密かに吐き出し誓いを守りました。
春日局にとっては、自分の命をも惜しまない掛け替えのない存在だったのでしょう。
母親になった人が、誰にでも真似できることではありませんよね・・・感動で胸が痛み、頭が下がる思いです。
春日局の性格は?
先述を踏まえて春日局の性格を分析すると、どんな逆境にも毅然と立ち向かい一心不乱に自身の有様は、
すべて家光そして徳川幕府のためだったとするとかなり肝の据わったお方ですね。
ドラマの中の春日局は、厳しくて怖いというイメージが強いようですが、実際は姉御肌で人前では決して弱音を吐いたり涙を見せたりしない芯の強い賢い女性だと思います。
そして、間違いなく、あ・げ・ま・ん!ですね。
名前の通り「福」をもたらす「あげまん」の要素を兼ね揃えているようで、めっちゃ羨ましい~~なんとなく春日局に憧れちゃいます!
春日局の子孫、最期は?
春日局は3人の子供を授かってます。男の子3人兄弟です。春日局の子孫や最期について紹介します。
長男 稲葉正勝
春日局が異例の大出世を遂げたことから稲葉家の家督を継ぎ、家光にも好まれ将軍直属の書院番、20代で老中に任命というエリートコースを辿りますが、38歳の若さで病死。
正勝の長男の稲葉正則は、母親も亡くしていたので祖母である春日局が引取り育てました。
そして、明治時代まで山城淀城主として続きました。
次男 稲葉正定
正定は、家康の九男、御三家の一つ尾張徳川の祖と言われる徳川義直に仕えていましたが、正定の孫の代で子供に恵まれなかったため途絶えてしまいます。
三男 稲葉正利
家光の弟・徳川忠長に仕えていましたが、忠長の度重なる奇行により改易、忠長は自害を命ぜられそして家臣も連座して処分を受けました。
病魔に犯されていた兄・正勝の最期の願いとして処分を逃れ、肥後藩の細川忠利に預けられました。
命拾いをしましたが、40年近く預けられ幕府からは許されることもなく長い軟禁状態が続き74歳で亡くなりました。
子供もいたようですが、若くして亡くなっています。
最期
1634年、長男・正勝が亡くなった時に正勝の息子・正則を引取り育てます。
1635年、堀田正俊を養子に迎え、孫たちの世話をしながらの余生を送り、1643年64歳の時に病に伏せ、徳川幕府に捧げた人生にピリオドを打ちました。
苦難を乗り越え、大奥を取り締まることのできた春日局
春日局について、様々な角度から迫ってみましたがドラマや映画などの印象と違った春日局を発見できたでしょうか?
女性の品格とクールな性格は、女性だけではなく男性からも一歩引くオーラの持ち主だったように感じますね。
少女時代から苦難の連続で辛い経験をしてきた春日局だからこそ、逆境にめげず常に凛とした態度で大奥を取り締まることができたのでしょう。
女性人からすると春日局から、学び得ることがたくさんありそうですね。
因みに、知っていると思いますが、会社で長く勤める女性社員のことを「お局様」と、からかう言葉がありますが、由来は、「春日局」からです。
どちらかと言うとあまり良いイメージで使われることは多くはないようです。