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徳川家康の性格や生涯エピソード

徳川家康

日本史上における、戦国時代のもっとも有名な武将といえば、

「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」の徳川家康ではないでしょうか。

今回は、この徳川家康の生涯、エピソード(逸話)についていろいろお話したいと思います。

徳川家康という人物は、本当に「鳴くまで待とう」のように辛抱強い性格をしていたのでしょうか。

徳川家康の不幸な幼少時代

1542年12月26日。徳川家康は三河岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に生まれました。

父は松平広忠。母は於大の方と言います。家康は広忠の長男にして、正室の子となるので跡取りでした。そんな家康の幼名は「竹千代」と言います。

家康が三歳の頃、一番最初の不幸が家康を襲います。父、広忠はそのころ、今川義元の庇護にある立場でしたので、「今川側」でした。

しかし、母の兄が織田側についてしまったのです。これを知った広忠は、於大の方を離縁させて実家に帰したのでした。家康は母親を失ってしまうのです。

まだ三歳と幼かった家康は、どれほど寂しい思いをした事でしょう。しかし、不幸はそれだけにとどまりませんでした。

家康が数えの六歳の時(今で言うなら五歳ぐらいでしょうか)、家康は今川義元へ人質として預けられる事になったのです。

五歳、六歳といえば、まだまだ子供。母親の次に父親とも離れなければならなくなり、考えただけでも胸が締め付けられてしまう話です。

しかしながら、世は戦国。それも大名の家に生まれてしまった家康です。幼いながらもそれなりの心構えはあったのかもしれませんね。

今川義元の元へ送られるさなか、一つの事件が起きます。家康の義母の父にあたる人物が裏切り行為を働いて、なんと家康の身柄を今川ではなく織田に届けてしまったのです。

対立している織田家に送られてしまった家康。またもや心細い状況に陥りました。

しかも、父の広忠が断固として今川側についていたため、なんと家康はそのまま二年間も織田家で人質として過ごす事になったのです。

一説にはこの頃すでに信長と面識があったのでは? とされていますが、確固たる証拠がないためわからないそうです。

個人的には、この頃に顔見知りであってほしいな、とは思います。その二年後。さらなる不幸が! なんと実父・広忠が家臣の謀反により殺害されてしまったのです。

とうとう両親がいなくなってしまいました。広忠が亡くなってしまうと家康の価値は織田家で下がったのでしょうか。

すぐに今川義元との取引(人質交換)が始まり、家康の身柄はようやく今川の元へと送られたのでした。それにしても。十歳にならないまでに、本当にいろいろな不幸に襲われた家康。

しかし、後々、とても辛抱強くいられたり、大成したりしたのは、この頃の逆境に耐え抜く精神力があったからかもしれませんね。

信長、秀吉との関係性

戦国時代の終幕を見事に飾ったのが、この徳川家康です。こんな言葉があります。

「織田がつき羽柴(豊臣)がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」

これは、織田信長が発起して進めた天下統一。

その志を受け継いで見事に天下を統一したのが豊臣秀吉。二人が苦労してようやく成し得た天下統一後の日本を、家康がそのまま何もせずに受け継いだ、という意味です。

ざっと歴史を見れば確かにそうなのかもしれませんが、家康が何もしなかったわけではありません。

この三人の中では人一倍の忍耐と努力があってこその、天下餅を平らげる結果となったのだと思います。

家康は最初、信長と敵対する今川の陣にいました。しかし、いろいろありまして信長側につく事になります。

この頃には旧知の仲だったようですので、やはり幼い頃、織田側に人質として囚われていた時に、顔見知り程度にはなっていた可能性がありますね。

織田側についても、当たられる役目は損な役回りばかり。家来などは、とっとと織田から離れましょう、と進言するほどです。

しかし、家康は耐えました。その時、どう考えても天下は織田に傾いていたのです。今織田から離れるのは愚か者だと考えたのでしょう。

そのかいあってか、家康の立場は少しずつ価値のあるものへと変化していきます。

信長が亡くなった頃には、随分と頼もしい立場になっていました。だからこそ、秀吉と対立する形も取れたのでしょう。

ただ、秀吉の方が小賢しく、誰よりも先に明智光秀を討ったものですから、ここでも立場が変わることがありませんでした。

仕方なく、家康は秀吉の傘下に下ります。ここでも、忍耐忍耐、また忍耐の日々が続きます。

それでも、やはりしたたかさでは一番ではないかと言われている徳川家康。大人しく従順している間も、様々な画策をしていたのではないでしょうか。

秀吉は亡くなる時、家康に今後の事を強く頼むと告げました。特に、自分の愛息子の事を。この時はもちろん、家康は強くうなずいた事でしょう。

しかし、それから家康は瞬く間に力をつけました。それもそうです。もう怖かった織田信長もいない。

目の上のたん瘤だった豊臣秀吉もいない。周りを見回せば、自分よりも力のある大名もいない。

長年待ち続けたかいあって、ようやく家康は天下を手中に収める事に成功したのです。

こんな家康の一連の行動などから、よくタヌキ親父と称される事があります。タヌキ親父とは「世辞に長けた悪賢い男の事」を言うのだそうです。

または「ずるがしこい年老いた男」の事を言うそうです。

ずっと潜伏していて、ここぞとばかりに力を見せつけた家康は確かにそのようにみられるかもれしませんが、これもまた戦国の世のならい。

忍耐力が勝ったという事なのでしょう。

意外な徳川家康の一面、性格

先にお話ししたようなことから、徳川家康という人物はとても物静かで我慢強い性格で、どんな事にも耐え忍んできたどっしりとしたイメージがありますが……果たしてどうでしょうか。

実は、若い頃はそれなりにヤンチャ坊主だったようなのです。今川家で人質だった頃、周りの家臣などから「三河の厄介者」と呼ばれていたそうです。

十歳を迎えた正月の宴の席での事。家康は人質という身の上もありますから、目立たないように部屋の隅にいました。

物静かに過ごしているものの、誰かが家康の存在に気づいてしまいます。すると、三河の厄介者、という言葉が家康の耳に飛び込んできたのです。

最初こそ我慢していた家康ですが、十歳の子供に対して大の大人が大人げなく陰口をたたいているのにいい加減腹がたち、家康はガバッと立ち上がりました。

普通なら、「気分が悪い」と部屋を出て帰るところです。しかし、家康はまだ十歳。立ち上がってからすぐに、うわああん、と泣き出……すわけがありません。

十歳といえども、松平家の跡取りとしての自覚があります。今の十歳前後の子供では考えられないほどの責任などを感じてもいたのでしょう。

立ち上がった家康が何をしたかと言うと、そのまま縁側に向かい、もそもそと袴をたくしあげて、いきなり小便をしたのです。

これには周りの大人たちもびっくり。目を丸くしてその様子を見ていました。その間、おそらくその座敷では、おそろしいほどの静けさが漂っていたに違いありません。

家康も一言もしゃべらずいたのですから。そして用が終わると、家康はそのまますたすたと元の場所に戻り、すとんと腰を下ろしたのでした。

十歳の子供であるのに、あまりにも肝が据わっていると、このことは家臣の間で話題になりました。

ともあれ、そんな事ができるのは度胸がある証拠。その行動も含めて、どこか信長に繋がるヤンチャな面を感じられますね。

徳川家康という人は、とても心が強い人だったのでしょう。だからこその、徳川の世を作り上げられたのでしょうね。

薬マニアな健康オタク

さて。徳川家康が没したのは、1616年4月17日。家康が満73歳の時です。当時にしてはおそろしく長命でした。

死因はこれまで、食中毒説が根強くあったのですが、今は胃がん説が強くなっているようです。

死に近い頃の家康の症状が、胃がんの症状とそっくりなのだそうです。それにしても、そこまでの年齢をあの時代に生き抜いてきたのは素晴らしい事です。

家康はとても健康にうるさかったようで、自分で薬なども作っていました。なるべく長生きをしたいという思いも強くあったのではないでしょうか。

また家康には大勢の子供がいました。自分の血をできるだけしっかりと残していきたいという思いがあったようです。

そのため、若い頃は子持ちの未亡人に狙いを定めていたとか。というにも、子持ちであるのなら子が産めるという証拠ですからね。

確実に妊娠できると考えたのです。そんなところまで考えての行動だと思うと、もはやあっぱれです。

余談ですが、天下を手中に収めた後は、盤石な徳川を確信し、子持ちとかなど関係なく若い女性にも興味を向けたのだとか。

ともあれ、なんにしろ体力や精力がなければ、何事も始まりません。そのために、家康は自分で薬を作っていたとも言われています。

家康が作っていた薬には、今の世の中では考えられないものもありました。ヒ素と水銀を混ぜた「銀液丹」もその一つです。

ヒ素も水銀も毒です。体にいいわけがありません。しかし、こんな薬を作っていました。それは何故なのか。

後付けになってしまうのかもしれませんが、あえて毒を毎日飲む事で、毒物による暗殺などを回避しようとしていたのではないかと思われています。

耐性を作っていたわけですね。とにかく長寿である事を望んでいた家康ですから、それぐらいの事はやりそうです。

徳川家康の最期

荒くれていた戦国の世が終わり、徳川の長き繁栄の楚を築いた家康は、老いてからも尚精力的でした。

息子たちがあまりにもふがいないと思っていて、隠居はしたものの陰の実力者として死ぬまで君臨していたのです。苦労が絶えなかった、というのもありそうですね。

しかしながら、三代将軍家光が「余は生まれながらして将軍である」と言い占めたように、徳川の世は盤石のものとなりました。

家康をそれを見届けてから亡くなったのです。家康が残した辞世の句は二つあるそうです。

「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

ざっくり説明しますと、「嬉やと」から始まる辞世の句は、

「嬉しくて思わずまた目が覚めてしまった。しかし、もうひと眠りしよう。この世で見る夢は、まだ夜明け前のようだから」

つまり、まだ徳川の世は盤石ではないけれど、そうなっていくのだろうという道は見えていて、だからこそ、もうひと眠りしてみたら、

目を覚ました時にはしっかりとした徳川の世になっているのだろう、という事だと思います。個人的な見解ではありますが……。

しかし、信長や秀吉の辞世の句に比べて、なんともすっきりした感じがしますね。ほのぼのとも取れます。

信長や秀吉は、この世に未練たっぷり残していますよ、といったような内容でしたが、家康の場合はやる事はすべてやったから、これからが楽しみでしかない、と言った感じなのですから。

もう一つの「先にゆき」から始まる句ですが、こちらは「先に天国へいってしまうのも、残った者がもうしばらく生きるのも、最後はどうせ同じなのだから、

自分の後を追って殉死する必要はない」と告げているのだと思います。当時はまだまだ戦国の名残があった時代ですから、主君が亡くなると殉死する家来が大勢いたのです。

それを諫めているんですね。徳川の世を盤石のものにするためには、優秀な家来が必要です。

自分を追ってそれらをいなくしてしまうのは、後々のためにならないと考えたのでしょうか。

神にまでなった男

家康は死後、東照大権現と呼ばれました。神様になってしまったのです。祀られているのは有名な日光東照宮。

死んでからも家康は、この東照宮から徳川の時代を見守っていたのでしょう。

時代劇などを見ていると、折に触れて様々な人が東照宮へお参りに向かいます。

江戸時代の人々にとって、徳川家康という人物はまさに神のような人だったのでしょう。