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前田慶次(利益)とはどんな人物?自由奔放に生きた生涯エピソード

前田利益(まえだとします)と聞いてピンと来ない人も、「花の慶次」と聞けば「あぁ!」となる人も多いかもしれませんね。

漫画やパチンコ、ゲームなどで一躍人気者になった前田慶次(まえだけいじ)は、実在の人物ですが、その生涯は謎だらけの男です。

その割に逸話が数多く残されており、キャラクターだけはイメージしやすい人なのです。

今回は、天下御免の傾奇者と呼ばれていた、前田慶次の性格や生涯、子孫の話を紹介します。

出生も名前も父も謎、謎、謎だらけ

前田慶次という人は、生涯に亘って謎に包まれています。

文献に残されている逸話も、多くは創作と言われていますが、本人が残した旅日記などもあることから、確実に存在していたことは間違いありません。

しかし慶次の生涯は、生まれ年も、天文元年(1532年)~天文10年(1541年)と幅広く説があり、実父も実母も不明です。

父は織田信長の家臣である、滝川一益(たきがわかずます)の従兄説、甥っ子説もあり、

はっきりしている事は慶次が、前田利久(まえだとしひさ)の家に養子に入ったことだけです。

前田利久は、織田家臣である林秀貞(はやしひでさだ)の与力の家として、信長に仕えていた前田家の長男で、

父前田利春亡き後、跡を継いで尾張荒子城(おわりあらこじょう)の城主となっていました。

この前田利久が結婚した女の連れ子が慶次という説と、やはり甥っ子説があり謎だらけなのです。

ちなみに、この前田利久は、大河ドラマ「利家とまつ」でお馴染み、後に加賀藩100万石の大名となる、前田利家(としいえ)の兄に当たります。

慶次は利久の弟である、安勝(やすかつ)の娘と結婚し、利久の養子となって前田利益と名を改めますが、名前も沢山あるのです。

残されている正式な名前だけで、利太(としたか)、利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)と4つもあり、

その他別名も宗兵衛(そうべい)、慶次郎(けいじろう)、啓次郎(けいじろう)などなど多くの名前があるのです。

もし生まれ年が天文元年であれば、信長より1歳年上であり、後に叔父になる前田利家よりも6~7歳上となります。

大河ドラマ「利家とまつ」での慶次は、利家の妻である「まつ」より年下の子供で描かれていましたが、まつは利家より10歳程年下なので、全然イメージが変わってしまいますね。

流浪の人生から前田家家臣へ

慶次が35歳前後の頃、義父になった前田利久は、織田信長より突然隠居を命じられます。

理由としては、利久の実子がいない上に、本人が病弱で武士としては使えないというようなことです。

このことが無ければ、慶次が前田家の跡取りになって、荒子城主になるはずでした。

しかし信長はこれを許さず、利久を隠居させて、利久の弟である利家に跡を継がせることしました。

この頃の信長は、すでに今川を桶狭間で討ち、のちの徳川家康である松平元康と同盟を組み、美濃の斎藤龍興を倒しています。

信長は尾張、美濃を手に入れ、この翌年から天下布武を目指し上洛戦が始まるという、織田家が非常に勢いに乗っている頃なのです。

天下布武を目指す為にも、それなりに信頼でき、武力の強い者達を要所に付けたいと思案するのは、不思議なことでは無いでしょう。

慶次の叔父である利家は、信長に仕えてすぐに信長のお気に入りであった男を切り、浪人生活をしていましたが、

この斎藤との戦いにて武功を上げ、同じ頃にようやく帰参を許されていたのです。

織田家が勢いに乗っているとは言っても、信長はまだ尾張と美濃の地を手に入れただけなので、武功を立てた利家に渡す領地もありません。

その為適当な理由をつけて、利久を隠居させたのではないかとも考えられています。

利家も信長のお気に入りで、衆道関係だったとも伝わっているので、城や配下の者くらい付けてあげたかったのかもしれません。

ともかく、前田利久は隠居を告げられ、弟である前田利家が荒子城の城主となりました。

その時から利久と慶次達は、荒子城を出て放浪の身となってしまうのです。

慶次が放浪している間、一体何処で何をしていたかは全く不明です。

京にいたとも、元上役の林秀貞の元へ身を寄せていたとも言われていますが、残念ながら慶次がどのような生活をしていたのかが、全く分からないのです。

しかし、利家が能登を貰った時、利久と慶次はふらりと能登に現れ、利家に仕えることになりました。

利家43頃、慶次はすでに50歳近くになっていますが、彼の逸話はこの辺りから晩年までの物が多く、

人生50年と言われる時代に、とても元気なおっさんだったことを伺わせるのです。

天下御免の傾奇者

大河ドラマや、マンガ、ゲームなどに登場する前田慶次のキャラクターは、数多く残された逸話からイメージされたものが多いです。

不明な事が多いわりに、逸話が多いということからも、慶次は破天荒な言動で目立つ上、あまり憎めぬ、愛される人だったのではないか?と推察されます。

利家に仕えていた慶次は、義父利久が亡くなった後、前田家に妻も子も残したまま突然出奔します。

その時有名なエピソードとしては、利家に風呂が沸いたと言い、利家を冷たい水風呂に騙して入れ、

激怒した利家が気付いた時には、すでに利家の愛馬に乗って逃げていたという話です。

盗んだバイクで走りだすのではなく、盗んだ馬で走り出した慶次は、そのまま姿を消してしまいます。15の夜ならぬ、58歳の夜です。

この出奔少し前にも、信長が京都で馬揃えをした際、慶次は50近くのおっさんの所業とは、とても思えない行動をしています。

馬揃え(うまぞろえ)とは、信長が京に入ってから、天皇を招待しての盛大な軍事パレードのことですが、

信長始め織田家の家臣達が皆馬に乗り、それぞれが鎧、馬具など派手に着飾っての観兵式を開催しました。

その中で慶次は、一人地味な着物を着て、牛に乗ってきたという逸話が残されています。

しかも、何故馬では無く牛だ?と皆が責める中、慶次は「禄も少ないので馬を飼う余裕は無い、馬でも牛でも役に立つなら変わりない」

と言って、あちこちを駆け回る牛を乗りこなしたというのです。

せっかく目立とうと、装飾に拘ってきた他の武将より、誰よりも目立ち話題をさらう慶次。

マンガやドラマであれば、若々しいイメージの慶次なので、このようなシーンも爽快な想像しやすいのですが、年代が50近いと考えると、ちょい悪おじさんどころではありませんね。

そんなちょい悪おじさんこと慶次は、出奔した後、しばらく京都でぶらぶらしていました。

その京での逸話として伝わっている逸話もあります。

ある日京の街をうろうろしていた慶次は、とある呉服屋に目を止めました。

その呉服屋の店主は、足を道に投げ出した上に、山のように積んである反物の間にあって、道行く人にも、買い物客にしても、その足が邪魔をしていたのです。

慶次は店主に「この足も売り物か?」と尋ね、店主も「はい、百貫文です」とふざけて答えたところ、慶次は買った!と言うなり、足を切ろうとして、大騒ぎになりました。

最終的に、町奉行なども駆け付けて、ようやく事は収まったのですが、この時から京では「足を投げ出すべからず」という禁止令が出されたと伝わっています。

このような、とんでもエピソードが山のようにある慶次ですが、まだ利家に仕えていた頃、

ついに天下を取った豊臣秀吉に呼び出された時に、髷を後ろではなく横に結って挨拶に行き、顔を横に向けたまま秀吉に頭を下げたのです。

その事で、髷は正面に向く為、「曲がっているから髷」と言ってのけ、大ウケした秀吉に褒美をもらったと同時に、

「これからもどこでもかぶけ」とお墨付きを貰うことになるのです。

このことから、慶次は「天下御免の傾奇者」と呼ばれるようになり、この後も晩年までかぶいていくのです。

ちなみに、傾奇者(かぶきもの)とは、世間常識に縛られず、変わった身なりをして、常軌を逸した行動を取る者のことです。

傾奇者で数奇者?

傾奇者は変わった奴ですが、数奇者(すきしゃ・すきもの)とは、芸事に長けている趣味を持つ文化人の事です。

慶次は、武勇も優れていたと言われていますが、文化人としても素晴らしい教養の持ち主だったと言われています。

茶道、連歌、源氏物語などの古典にも通じており、出奔中は公家や茶人などとも交流を持っていたと伝わっています。

戦国時代の半ば、信長が台頭してきた頃には、茶道など文化的趣味も武士の嗜みになってきていました。

「へうげもの」というマンガで名前を知った人も多い、古田織部(ふるたおりべ)は千利休の弟子ですが、慶次はこの人に茶を習っています。

連歌は里村紹巴(さとむらじょうは)の弟子になっていますが、慶次以外にも信長、秀吉始め、細川幽斎(ほそかわゆうさい)や、

最上義光(もがみよしあき)など、有名な戦国武将達も里村に弟子入りしています。その為か、慶次はとても交友関係が広いのです。

本人が残した日記はわずかにありますが、彼の衝撃な逸話の数々は、本人以外の御家史や、

地方の昔話などに残されていることからも、様々な武将達と知り合いであったことが伺えます。

慶次は連歌が好きだったようで、よく連歌会を開いていましたが、その時の逸話にも面白いものがあります。

ちなみに連歌とは、上の句を誰かが読み、下の句を次の人が読みながら、次々と歌を繋げていくものです。

とある伏見での連歌会の時、慶次は珍しく良い句が浮かばずに悩んでいました。隣には、連歌の同門であり、歌がとても上手な細川幽斎がいました。

困った慶次が思いついたことは、隣の幽玄にいい句のヒントを貰うことでした。

「歌の得意なあなたなら、私が次に何を読むかもう分かっていますね?」と、慶次はさも歌は出来ているけど、当ててみてよと聞いたのです。

悪戯好きでもある慶次は、幽斎を困らせてみたいという気持ちもあったことでしょう。

しかし幽斎は、あっさりと「能のわき、名乗るよりはや、打ち忘れ」と答えて、慶次をかわしてしまうのです。

どういうことかと言えば、能の脇役は主役の相手役のことで、脇役が登場前にお囃子が始まります。その中脇役が登場し、名乗りを上げる時にお囃子は止むのです。

しかし、最初からお囃子が演奏されていなければ、脇役も舞台に上がることが出来ませんという句を、幽斎は詠んだのです。

その句を詠んで、「私なりには作れるけど、あなたがお囃子のように前句を詠んでくれなければ、私にあなたの歌を作れる訳がありません」と、

慶次の悪戯に幽斎もさらりと切り返したという話です。

慶次の逸話には、このようなとんちめいた物も多く、慶次の教養の高さを伺うことが出来るのです。

しかし、その慶次に合わせることが出来る幽斎もまた、文化に長けた人物だったという訳ですね。

幾多のスカウトを断り続けた慶次が最期に選んだ男

京都で放浪しつつ、遊蕩生活を続けていた慶次ですが、前田家に残して来た、慶次の息子である前田正虎は、

あちらこちらに、必死で父の居場所を尋ねていたり、帰ってきてと懇願していたという逸話も残っています。

慶次の子も正確には不明ですが、この正虎以外に娘が3~5人程はいたと言われています。

正虎は、前田に仕えていたようですが、このような破天荒な親父を持つ息子は、前田家にいても何となく居心地が悪かった気がしますね。

しかし、この息子が「前田家之記」という史料を残してくれたおかげで、慶次の武勇伝が残されているのです。

一体この父に対して、どのような気持ちを持って、正虎は父の所業を書き綴ったのでしょう?

そのような息子に対して、「息子が呼び戻すがのしつこく、面倒で縁を切った」と慶次が言ったという話も残っているので、

自由が本当に好きだったのでしょうが、正虎が不憫でなりません。

呼び戻す息子もいましたが、その他にも多くの武家から、慶次に好条件で仕官のお誘いが来ていたのですが、彼は全て断っています。

しかしそんな自由人慶次が、何故か66歳くらいになってから、急にある人に仕官するのです。

その人は、越後の戦国大名である、上杉景勝(うえすぎかげかつ)です。彼はいち早く、秀吉の配下に付いた人で、秀吉の五大老の一人でもありました。

景勝と、その忠臣である「愛」の兜でお馴染みの直江兼続(なおえかねつぐ)とも、慶次は京の連歌会や、茶会で出逢ったようで、直江とはとても仲が良かったようです。

もちろん直江も慶次に一緒に上杉で働こう!とラブコールを続けていました。

そんな慶次は男として景勝に惚れ込み、景勝が会津に領地替えされた辺りで、上杉景勝の組外衆筆頭として召し抱えられました。

景勝は笑わない男として有名なのですが、秀吉が招いた大名達が集まり、伏見城での宴会中に、

呼ばれてもいないのに慶次は猿の面を付けて、ふざけた踊りをしながらいきなり登場したことがあります。

猿のマネをしながら、各大名達の膝に乗ったり、顔を伺ったりしていた慶次は、景勝のあまりの迫力に驚き、

さすがの慶次も唯一景勝の膝には乗らなかったというエピソードがあります。この時、男として惚れたとも伝わっているのです。

上杉家に来てからのエピソードも多いのですが、慶次が会津に到着した際、景勝と直江が出迎えてくれるのですが、土の付いた大根を3本持って登城します。

「見た目は汚いが、噛めば噛むほど味の出る男です」と自己紹介する慶次。

その他にも、慶次が景勝に逢った時正装して来るのですが、正装のわりに紋付では無いことに景勝が気が付きます。

しかし慶次はすましたまま、「紋は付いています」と答えるので、景勝も周りの家臣達も目を凝らして見てみると、小さな虱(しらみ)の紋が付いていたのです。

家臣達も大爆笑しましたが、なんと笑わない景勝もこの時ばかりは笑ったとか、笑わなかったとかというエピソードもあります。

60代の爺さんが、毎回何かしら奇抜な発想が出来る事はとても面白いですが、慶次としては、どうしても景勝を笑わせてみたかったという、チャレンジ精神が感じられますね。

親父なだけに親父ギャグ?大ふへん者

上杉家に仕えた慶次は、老齢にも係わらず戦にも出ています。

慶次が会津に来てわりとすぐに、豊臣VS徳川の戦いとなった、天下分け目の関ケ原が始まることになるのです。

そのきっかけは、石田三成など豊臣派が五大老の上杉を担ぎ上げ、同じく五大老の一人であった徳川家康を潰そうとする計画が立ち上げたことでした。

何かと難癖をつけてくる徳川に、上杉は豊臣の恩に報いる為、のちに直江状と呼ばれる徳川批判の文で、直江兼続が徳川にケンカを売ったことが始まりです。

怒った家康は上杉討伐をする為に、徳川側に付いた武将達が会津へと集まって、戦となってしまいます。

関ケ原の前哨戦となる上杉討伐の前に、北の関ケ原と呼ばれる、上杉VS最上・伊達の決戦、長谷堂の戦いが始まり、慶次はこの戦に出陣しています。

慶次の鎧は朱色で大変目立つ色をしています。漫画などでは、190cm超えの大男に描かれていますが、残されている鎧からは、普通の大きさの身体です。

しかし、槍も朱色で3m超えの大物。この槍を振り回して戦っているとは、どんな体力をしていたのか不思議でなりません。

慶次はこの時すでに、68歳前後のご老人なのですが、関ケ原で徳川勝利との報告を聞いて撤退する際、殿(しんがり)を買って出ているのです。

殿とは、撤退する際大将を逃がす為に、追う敵と戦いながら逃げるという、命懸けのお役目なのですが、この時の撤退の様子を敵方の最上が記録したものが残されています。

慶次はこの目立つ朱色の鎧で、長い朱色の槍を振り回し、背中には「大ふへん者」と書いた旗を指して勇敢に戦っていたとあります。

この旗指物にはエピソードがあり、すでに高齢ではありますが、新参者である慶次が上杉に仕官した頃、慶次はこの朱色の槍と大ふへん者の旗指物をしてやってきました。

朱色の槍は、特に武力に優れた者しか持てず、武将達の憧れの物でした。どちらかと言えば、上から功績を称えて与えられるような物です。

そのようなことから、新参者が持っていると妬まれる物なのです。

更に「大ふへん者」とは、漢字で書くと「大武辺者(だいぶべんもの)」となり、武勇に優れた者と言う意味なのですが、

こちらも新参者が指して来ては、上杉の家中は面白くありません。

上杉の新人お爺ちゃん慶次は、当然家臣達に絡まれました。

しかし慶次は、「大武辺者ではなく、嫁もいない浪人生活が長かったので、大不便者という意味です」と、答えています。

見事な親父ギャグでかわす慶次。さすが年の功です。

元々こういう人をからかいたい慶次なので、新参者でも舐められないようにと、会津に行くまで色々考えていたのでしょうか?

謙遜しているようで、相手をぐぬぬ…とさせるスキルは、相当高い人だったと感じますね。

老後は米沢で悠々自適に

徳川が天下を取った時、上杉景勝は配下に付きましたが、会津を取り上げられ、米沢に移されました。

石高も120万石から30万石に減り、上杉家の生活は苦しくなっていますが、慶次は景勝の側から離れませんでした。

上杉家に残った家臣達の教養を高める為、慶次は源氏物語などの古典講義をしたり、教育係になったとも伝わっていますが、本当かどうかは分かりません。

前田家に残されている文献からは、70代に近い慶次のことを、「悪戯が過ぎるので隠居を命じた」と残されていますし、

米沢に残されている文献では、堂森という場所に「無苦庵(むくあん)」と呼ぶ庵を建て、歌や茶などを近隣の人達と楽しむ、悠々自適な生活を過ごしたとも残されています。

前田家からすると、慶次は一応身内ですから、恥ずかしいという気持ちも理解できますし、

米沢は晩年過ごした場所なので、そちらも信憑性が高いのですが、何れにせよ慶次は上杉に仕官したとは言っても、自由気ままな暮らしが好きだったのでしょうね。

生まれ年も死んだとされる年も、多々説があるので、はっきりと何歳で亡くなったのか分かりませんが、73~80歳の間に慶次はこの世を去っています。

戦国の世では、相当長生きしたと言えます。

慶次は晩年、病に掛かってからは、髷を結うのが面倒で坊主にし、自分の事を「龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)」と名乗り、無苦庵記を残しています。

簡単にまとめれば、「もう親孝行する親もいないし、可愛がる子供もいない、身体は動くし、

歌を詠んだり好きな時に寝て起きる生活を楽しむ。もっと生きたいという欲も無いし、

地獄に行くほど悪いことはしていない。後は死ぬまで生きるだけ」という言葉を残しています。

最期の最後まで、自由気ままに人生を楽しもうとする慶次の姿が見えてきますね。

穀蔵院忽之斎(こくぞういんひょっとさい)

慶次の別名に、穀蔵院忽之斎(こくぞういんひょっとさい)という名があります。

放浪時代の多かった慶次は神出鬼没、ひょっと現れるという意味や、飄々とした男のような意味もあります。

慶次は米沢の無苦庵で死んだ後、一花院という寺に埋葬されたと伝わっていますが、

寺は廃寺となっており、どこに眠っているのかもはっきり分かっていません。

供養塔は作られていますが、残念ながら後年作られた物です。

自由を愛した慶次は、この世にも縛られたくなかったのかもしれませんね。

強い者でも理不尽な者には従わず、傾奇者でも己の筋はしっかり通し、自由奔放に生きた慶次は、何かと息苦しい時代を生きる現代の人々にとっても、憧れてしまう男なのかもしれません。