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織田信雄とはどんな人物?無能と言われるようになった理由や生涯

戦国時代、織田家と聞いてまず思い浮かべるのは、必ずといっていいほど「織田信長」ではないでしょうか。

彼以上に有名な戦国武将はほぼいません。漫画にしろアニメにしろ、ゲームにしろなんにしろ。彼はいつも主役級、そしてボス級の扱いを受けています。

そんな織田家の中で、「無能」と呼ばれながらも一番大きな功績を後世にまで残した武将がいます。それが織田信雄です。

織田信雄という武将

織田信雄は「おだのぶかつ」と呼ばれています。「のぶお」という呼び方もあったそうですが、「のぶかつ」という響きが圧倒的に多いようです。

信雄は1558年、あの織田信長の次男として生まれます。この次男というのも怪しいもので、本当は三男の信孝よりも後に生まれていた説があります。

しかしながら、母親の身分などを考えて、信雄が次男になったというのです。本当か嘘かはわかりませんが、戦国時代には時にあった話でした。

1569年、父である信長が北畠一族に勝利した事で、信雄は北畠一族に養子に出されてしまいます。まだ11歳から13歳でした。

養子となったのは北畠具房。そしてその頃に妻を迎えますが、妻は北畠具教の娘になります。

ちなみに具房も具教の息子になります。ややこしいのですが、具房の息子となり、本来なら叔母に当たる女性を妻にしたわけです。

果たして妻となった雪姫(千代御前)は、叔母と言う年齢だったのか、それとも、具房とは年の離れた妹だったのかは謎ですが、

とにかく信雄は北畠を抑えるための重要な役割を果たす事になったのです。

1572年に元服した信雄は、「北畠具豊」と名乗るようになります。そして1575年、北畠家の家督を相続しました。まだ18歳頃の話です。

こうして、信雄は北畠家の家中を少しずつ掌握していったのでした。

北畠のっとり事件

家督を継いだ信雄は、次に「北畠信意」と名を改めました。そして迎えた1576年。信雄は大きな事件を起こします。

それが、「三瀬の変」です。これは信雄と、そして信長親子が企てた変でした。

これにより、北畠具教、その息子二人。家臣が14名。そして同時に起こった田丸城での変においても、息子二人、他7名が殺されています。

これにて、北畠一族は信雄の義父、具房を残して全滅しました。

この時に、具房の妹であり、具教の娘でもあった信雄の正室、千代御前が自害したとありますが、のちの研究などにより、実は自害していなかったのでは、という説もあります。

まだ不確かな形でしかわかっていないので、謎に包まれたままになっています。

この「三瀬の変」により、信雄は完全に北畠家を掌握しました。義父である具房ですが、彼はその後、信長家臣である滝川一益に預けられ、幽閉されていたそうです。

しかし、こうしてみても、信長親子はとんでもない事件を起こしていますね。というか、この頃の信雄はまだ「無能」とは程遠い活躍を見せていると思います。

果たして、どうして信雄が「無能」と呼ばれる武将になってしまったのか。それはまだ少し先の話になります。

「無能」という忌々しいあだ名

北畠家の実権を握った信雄は、その翌年に兄・信忠と共に石山本願寺に攻め入りました。

信長の悪行の一つと言われている本願寺攻めです。しかしながら、本当に悪行だったのでしょうか。

当時の石山本願寺の坊さんたちは、「坊さん」とは決して呼べないほど乱れていたそうです。

本来坊主というものは欲を捨てている者たちの事を言うのですが、ここの坊主たちは欲にまみれていました。

酒を飲む、肉も食らう。そして、色欲にも耽り、苦しんでいる民のことはそっちのけ。

これでは確かに誰かが成敗せねば、という感じだったのではないでしょうか。もっとも憶測にすぎませんので、本当はどうだったかはわかりません。

信長の性格からしても、「気に入らなかったから」の一言で済ませてしまっても不思議ではありませんし、

もともとそういうものをあまり信じていなかったところもあったようなので、「坊主」という立場を利用して好き勝手やっている連中を成敗しただけかもしれません。

真意は謎です。ともあれ、信雄はその征伐にも参加し、兄に劣らずの武将に成長していました。が、何を思ったのか……。

その二年後。1579年、信雄は突然、伊賀の国に攻め入ります。目的は伊賀惣国一揆を治めるためだったのでしょうが、これを信長に無断でやってしまったのです。

しかも、見事に大敗。殿を務めたのは柘植保重。彼は信雄が北畠の家に入った頃から信雄についていた家老でした。

とにかくこれで信雄は信長が大目玉をくらい、あわや親子の縁まで切られそうになったのです。

このこともあり、この頃からまことしやかに「信雄殿は無能」というイメージが定着していったのです。

素晴らしきかな、信雄の華麗なる生涯

その後の信雄ですが、なんとも理解に苦しむ人生を送っていたようです。何と言いますか、一貫性がないと言いますか……。

まず、本能寺の変が起こります。信長と兄である信忠が討たれました。

信雄はすぐさま兵を挙げて光秀を討とうと甲賀まで兵を進めたのですが、光秀が秀吉に討たれると知ると、すぐに引き返してしまいます。

それだけならまだしも、信長が一生懸命作った安土城を燃やしてしまったというのです。

しかし、この放火に関しては、後の研究で明智側がやったものではないかと言われています。そうであってほしいです。

そうじゃなければ、本当に信雄さん、何やってるんですか???になってしまうので。

その後の家督争いにおいて、信雄は次男ですから、信忠の跡を継いで織田家を継ぐ気まんまんでした。

しかし、柴田勝家は織田信孝を推薦し、豊臣秀吉は信忠の嫡男、三法師を推薦しました。信雄の名前は誰も出してくれなかったのです。

結局信雄は三法師の後見役となったのでした。

さて。信雄の奇行はまだまだ続きます。秀吉と柴田勝家&織田信孝が戦った賤ヶ岳の戦いにおいて、信雄は最初秀吉についていました。

しかし、どうにも秀吉と折り合いが悪く、それならと家康に寝返ります。これには秀吉もびっくりした事でしょう。

しかし、さらなる驚きの事件がぼっ発します。なんと、家康側の戦況が悪くなるとわかると、またまた信雄は寝返りをするのです。

元の秀吉側に。これには家康も驚愕したに違いありません。

家康にしてみれば、「こっちには信雄様がいらっしゃるんだぞ。信雄様がお怒りだから、我々は信雄様を助けて……」

という大義名分があったにも関わらず、当の信雄が寝返ったのですから。驚きを通り越して唖然としていたかもしれませんね。

これだけではありません。まだまだ続きます、信雄様の奇行。

いよいよ時代は関ケ原。信雄は大阪城内で、一応大阪側にはいたものの、どちら付かずの状態をキープしていました。

ここでもまた、何か分の悪い事が起こったら、すぐに徳川へ寝返ろうと考えていたのかもしれません。

しかし、考えている最中に戦いが始まり、気づけば西軍の負け。

慌てても時遅し、大阪城にいたのだから西軍だと決めつけられ、信雄は領地を取り上げられてしまったのでした。

なんとも情けないばかりですが、これでもまだ終わりません。まだ続きます。

次は大阪の陣です。性懲りもなくまだ大阪側にいて、うだうだやっていた信雄ですが、なんと大阪冬の陣直前に徳川へ寝返りました。

一説にはもともと徳川の間者だったという説が濃厚なのですが、果たして真実でしょうか。現に、大阪の陣のあと、信雄は厚遇され大名になっています。

これはスパイとして働いてくれた感謝の気持ちと言われていますが、真実はわかりません。

いつもすぐにころころと態度を変える信雄の事ですらか、冬の陣直前の寝返りも思いつきだった可能性が高いですね。

それでも寝返ってくれて情報をもたらしてくれたから、厚遇されたのかもしれません。とにかく、家康にしてみれば、大恩ある信長公の血は受け継いでいる信雄ですからね。

信雄が残した子孫

とにかく、すべてにおいて一貫性がない事と、やることなす事がよろしくないという事で、信雄はすっかり「無能」としてのイメージが定着してしまいました。

しかし、信雄はそれだけではないのです。賤ヶ岳の戦いにて両親を失った浅井三姉妹の面倒を見ていたのは、この信雄だったと言われています。

屋敷をあてがってやり、贅沢な暮らしをさせてやっていたと言われています。信雄からすると浅井三姉妹は姪っこ。姪には弱かったのかもしれませんね。

浅井三姉妹はその後、歴史に名を残していきますが、信雄の子孫はどうだったのでしょうか。

実は、織田信長の子としての血を長く残したのは、この信雄だったりします。

浅井三姉妹も織田の血は流れていますが、信長の妹が浅井家に嫁いだ後に受け継がれた血になります。

ですが、信雄の場合は直接信長からの血になります。その血は江戸時代、転封だのなんだのあったにもかかわらず、生き続けました。

大名だったり旗本だったりしながらも、明治時代まで続いたそうです。

そして、驚くことに今もその血筋は途絶えていません。現在は丹波柏原織田家18代織田家当主という方がいらっしゃるそうです。

少し前に、彼が息子二人に代々受け継がれた「信」の字を使わなかったということで、少しだけ話題になりました。

ご本人も語っていましたが、確かに「織田」に「信」がつくと、それだけで織田信長の子孫では? と思われてしまいますよね。

それが当人はイヤだったそうです。天下統一を目指したのは信長であって、自分はただの子孫で手伝ったわけではないと。

だからすごくもなんともないのだと。息子二人にはその思いをさせたくなくて、「信」の字を入れなかったそうです。

しかし、信雄、すごいです。無能だなんだ言われながらも、彼は73歳まで生きました。

晩年は養蚕の産業にも力を入れたりと、自分の領地のために力を尽くしました。

隠居してからは鷹狩りなどを楽しんだりと、なんとものんびりした余生を過ごしたようです。

それでもなんだかんだで「織田信長」の血を残していったのですから、本当に凄い事ですね。

織田家の血を残した人物

「のぼうの城」という映画がありました。「でくのぼう」と呼ばれた領主・成田氏一門の成田長親が、城を守るためにあれこれとする映画です。

その中に「信雄」が出てきます。妻夫木聡さんの名演技が光っていました。みるからに「無能」な信雄がそこにいました。

ですが、信雄は本当に無能だったのでしょうか。父と跡取りである兄を一気に失い、織田家の次男としてその血を残さなければならない状況に、

実は四苦八苦していた結果がこれだったのではないかと思わずにいられません。

とにかく、結果は見事に織田家の血を絶やすことなく残しました。その偉業には拍手を送らざるを得ません。