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督姫とはどんな人物?生涯エピソードについて

督姫という名前をご存知の方は、どれぐらいいるでしょうか。名前を聞いて、「ああ、徳川家康の娘ね」と答えた人は、かなりの歴史通ではないかと思われます。

歴史上、とくに、池田家にとってはかなりの働きをした督姫ですが、なかなか認知度が低いところがありますね。

今回はそんな督姫について、深く掘り下げていこうと思います。

徳川家康の次女・督姫

督姫は徳川家康の次女になります。母親は側室の西郡局。まだ家康が24歳の頃に生まれた子になります。

産まれたのは1565年とも、1575年とも言われていますが、一般的には1565年説が強いようですね。

1582年、本能寺の変が起きると、父である徳川家康と北条家の戦いが激しくなりました。

理由は、信長の死後、旧武田領に主がいない状況になり、そこを狙って争いが激しくなったという話です。

軍の数では圧倒的に北条家が強かったのですが、徳川も負けてはいません。知恵と策略を持ってして徳川家が有利とも見られていました。

ただ言えるのは、このまま争いを続けていたら、双方が共に大きな痛手を被ってしまう、という事。その事をお互いに感じたのでしょう。

北条家と徳川家は和睦する事にしました。争っていた土地はうまく二つにわけて、それぞれが治める事としたのです。

この時の和睦の条件として、督姫は北条の世継ぎ、北条氏直に嫁ぎました。督姫はこの時、19歳。氏直は22歳。政略結婚で結ばれた二人は、娘を二人設けたそうです。

一説には男子も一名いた、とされる場合もありますが、あまり信ぴょう性はなさそうです。氏直との夫婦仲も悪いものではありませんでした。

この時督姫はきっと、一生氏直と共に生きる、と心の中で夢見ていた事でしょう。しかし、運命とは残酷なものなのです。

北条家でつつがなく過ごしていた督姫ですが、時代は豊臣の時代へと移っていきました。

すると、豊臣秀吉は北条氏直とその父、氏政に対して京都へやってこいという命令を出したのです。

しかし、北条家といえば戦国の大名門。京都へ上洛するという事は、秀吉に膝をつくという事。秀吉の生まれは誰もが知っている通り、ただの百姓です。

そんな成り上がりものに膝などつけられるものかと、氏政は断固として上洛を拒否していました。

時には督姫の父である徳川家康が間に入り、なんとか氏政を説得しようとします。これ以上動こうとしないのなら、嫁に出した督姫を返してもらう、とまで言いました。

しかしそれでも、氏政は動こうとしなかったのです。すると、秀吉はいよいよ小田原征伐に乗り出しました。自ら出陣し北条家を滅ぼしてしまおうとしたのです。

運命の小田原征伐

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まりました。名門北条家を武力を持ってして跪かせようとしたのです。この時、督姫はまだ氏直と共にいました。

家康は督姫は連れて帰ると宣言したはずなのですが、まだ氏直の傍にいたのです。父の言葉を拒否したのかもしれませんね。

北条に嫁いだ時から、督は北条の女なのです、とかなんとか言ったりして。小田原城に篭城していた北条家ですが、それはとても厳しいものでした。

やがて、どうにもならなくなり北条家は降参。この時、率先してみんなが生き延びる道を模索していたのが、氏直でした。

氏直は単身豊臣側へ赴いて、自分は腹を切って死ぬ。そのかわり、将兵たちの命だけは助けてやってほしいと嘆願しにきたのです。

この出来事を聞いた秀吉は酷く感銘し、氏直の命を助ける事にしたのでした。もちろん、これには娘婿のためにと徳川家康の力が働いたのもあります。

氏直はその後、高野山への謹慎を命じられ、切腹した父・氏政や弟・氏照以外に残った家臣などを連れて高野山へと向かいました。

この時督姫は、一時的に父親である徳川家康のもとに戻っていたという説があります。

小田原は水攻めだなんだと大変な事になっていて、住む場所がなかったから仕方なく、なのかもしれませんね。

しかし翌年、父の力もあり氏直は無罪となって放免されました。高野山から降りてこられたのです。

それを聞いた督姫は、再び氏直の元へと向かいます。こういったエピソードを考えますと、やはり夫婦仲は良かったのではないかと思います。

再び二人の生活が始まると思った矢先、なんと氏直が病に倒れ旅立ってしまったのでした。まさにこれから、という時に。督姫の絶望は深いものでした。

こうして仕方なく再び徳川へ戻った督姫に、さらなる不幸が押し寄せます。娘のうちの一人が、氏直を亡くした二年後に亡くしてしまったのです。

続けざまの不幸に、督姫は自分の運命を呪ったに違いありません。

人生の再出発

愛しい夫と娘を立て続けに亡くしてしまった督姫は、それでも残されたもう一人の娘と、徳川の屋敷で静かに暮らしていました。

この頃、督姫はまだ三十路前。戦国時代の三十路前は、もうかなりな年齢です。とくに女性は……。なんせ人生五十年ほどの時代でしたからね。

ですから、このまま娘と二人で静かに暮らしていくのも悪くない。

そう思っていた時でした。豊臣秀吉が督姫に縁談を持ってきたのです。相手は池田輝政。織田信長の重臣・池田恒興の次男になります。

池田家は本能寺の変のあと、豊臣家に仕えました。様々な功績を残し、秀吉からの信頼も厚いものがありました。その息子の輝政もまた、豊臣家によく仕えていたのです。

そんな輝政を秀吉も気に入っていて、産後に体を壊してしまった正室と離縁し独り者になっていた彼に新たな縁談を持ってきたのでした。

……という流れと、実は、輝政にはその頃まだ正室がちゃんといましたが、秀吉の命令によって徳川の娘が継いでくるのならばと、その時に離縁したという説もあります。

確か、真田家の長男、真田信之もその流れで、本多忠勝の娘と結婚する際に正室と離縁した経緯がありますね。戦国時代では当たり前の事だったのかもしれません。

ともあれ、督姫はこうして再び結婚する事になりました。さて、この結婚。実はこの結婚も若干政略結婚であったかな、と思います。

もともと池田家と徳川家は少々しこりのある関係でした。というのも、本能寺の変の後、小牧・長久手の戦いがありました。

こちらは織田信雄と徳川家康の軍が、羽柴秀吉の軍と争った戦いです。

実はこの戦いで、輝政の父、恒興(後に信輝)と、嫡子・之介(恒興の跡取りで輝政の兄)、そして恒興の娘婿である森長可が討ち死にしてしまったのです。

つまり、輝政にとって徳川家は親と兄弟の仇というわけです。そこで秀吉が、両家のしこりをなくそうと企んだのが徳川家と池田家の婚姻でした。

では、この婚姻話に輝政はどう思ったのでしょうか。仮にも親の仇の娘との結婚です。普通はよく思うはずがありません。しかし、輝政は大喜びで受け入れたのです。

それは、世の中は大きく激変を繰り返し、この頃には徳川家の力がとても強くなっていた事を知っていたからでした。

長い物には巻かれろ、ではないですが、徳川家との繋がりはとてもありがたい申し出だったわけです。

池田家の繁栄は督姫のおかげ?

結婚後、二人の仲は大変睦まじかったそうです。輝政との間には、五男次女が生まれました。

先の北条氏直との間にできていた二人目の娘は、督姫が池田家に嫁いで数年後に亡くなってしまいました。

ここに、督姫の子は池田家との間にできた子だけになってしまいます。

さて、この婚姻の後、世の中はまた進み、天下分け目の関ヶ原がやってきます。この時、輝政は督姫の実家である徳川方につきました。

豊臣家にも大恩ありますが、やはり舅の圧力にはかなわなかったのではないでしょうか。しかし、徳川についた事で池田家はさらになる発展を授かります。

関ケ原の戦いではその前哨戦となる岐阜城の戦いに参戦しました。ここで武功をあげます。

しかし本線では西軍の抑えの役目をはたしていたので、たいした武功はあげていません。

それでも、戦いの後、娘婿は岐阜城の戦いの功績として姫路藩の藩主となりました。52万石も与えてもらったのだそうです。

さらには、輝政の息子たちにもさまざまな恩賞が与えられ、合計で百万石を越えたとか。これにより、輝政は西国将軍と呼ばれるようになります。

それほどの権力と地位を与えられたという事です。そんな輝政に、とある日、徳川から督姫に付き添ってきた老女が、督姫と輝政の前でこんな事を言いました。

「池田家がここまで栄えたのも、督姫様が池田家に嫁いでこられたからにほかなりません」と。

すると、輝政は即座に怒り「そんなことはない。そもそも督姫を妻として娶る事ができたのは、この輝政の武功があったからこそ。よって、池田家の栄は輝政の力によるものだ」と反論したのだそうです。

まあ、確かにそうかもしれませんが、少々大人げない反論ですよね。しかし、督姫がいなくなった後、輝政はもう一度老女を呼び寄せて、こんな事を言いました。

「本当の事を言うならば、そなたの言う通りじゃ。池田家が栄えたのは督姫のおかげに他ならない。しかし、女の前でそんな事を言うと、女はつけあがる生き物だ。督姫がそうなってしまわないためにも、督姫の前であんな事を言うてくれるな」と話したとか。

なんだかちょっぴりほっこりするお話ですね。でも、輝政もちゃんと理解していたという事です。

今の自分があるのは督姫のおかげであるという事を。だからこそ、夫婦仲がこじれずに仲良く過ごしてこられたのかもしれませんね。

督姫は毒まんじゅうで死んだって本当?

督姫が輝政に嫁いだ時、輝政には息子がすでにいました。それは前妻との子で、利隆と言います。

督姫が産んだ最初の男子が生まれた頃には、15歳となっていて、池田家の嫡子・跡取りとして存在していました。

督姫の子、忠継が五歳で岡山28万石の城主になりましたが、たった五歳の子が取り締まれるわけもなく、すでに姫路城城主だった利隆が執政代理人として岡山城に向かいました。

かわりに、忠継が姫路城に残ったのだそうです。それから数年たち、父の輝政が亡くなり忠継が16歳になると、いよいよ岡山城主として岡山に入りました。

この時、父からの……いわば、遺産として10万石を加算され、38万石の大名となったのです。

その後に始まった大阪の陣では義兄の利隆と共に戦いましたが、戦の後に病を発症してしまいます。

そして岡山城で17歳の若さで息を引き取ったのでした。あまりにも早い死です。この死があまりにも早かったので、こんな話が生まれてしまいました。

腹違いの兄、利隆が岡山城を訪ねた際、忠継は丁寧に迎えました。そして二人で向き合って話をしていた時、侍女がまんじゅうを持ってきます。

忠継の母、督姫からのものだという事でした。この時、持ってきた侍女がそっと掌を利隆に見せます。そこには「どく」とだけ書かれていました。

つまり、このまんじゅうには毒が入っていますよ、と教えたのです。これに気づいた利隆はまんじゅうに手をつけません。

さて、この場に督姫がいたのかどうかは定かでありませんが、忠継は気づいたしまいました。

どうやら自分の母が池田家の正当の跡取りで有能な義兄を殺そうとしていると。

あまりにも悲しくて、あまりにも腹立だしくて、忠継はさっと利隆のまんじゅうを手にとりそのまま食べてしまったのです。

自らの死をもってして、母の目を覚まそうとしたのかもしれませんね。

その事をしった督姫はあまりにも悲しんで、おなじ毒まんじゅうを食べて死んでしまった、という話です。

なんとも悲劇なのですが、どうやらこの話は後々に作られた悲劇のようでして。というのも、まず忠継と督姫の亡くなった日が違います。

それも、督姫の方が早いのです。1615年3月3日。督姫は徳川家康に会うために入っていた二条城で亡くなりました。疱瘡が原因だそうです。

そして忠継が亡くなったのは、同じく1615年。しかし、亡くなったのは督姫の死から数日後の3月22日でした。場所は岡山城内です。

こんな風に死んだ日も死んだ場所も違う二人なのですが、亡くなった日があまりにも近かった事、しかも同じ年に亡くなってしまった事が、

先ほどのようなとんでもないエピソードを生んでしまったのでしょう。

ちなみにこの話が本当の事なのか検証するために、1978年、忠継廟を移動する際、忠継の遺体を発掘して調べたんだそうです。

結果、体内から毒物は検出されなかったとか。これにより、悲劇のエピソードは後世に作られたものという事になったのでした。

督姫が繁栄させた池田家のその後

池田氏、と呼ばれる家系は日本にいくつもあります。督姫が嫁いだ池田氏の家系は、「美濃池田氏」と呼ばれています。

この美濃池田氏は、実は明治時代まで続きました。明治時代になると、子孫は侯爵になったそうですよ。すごいですね。