「鬼の権六」「鬼柴田」という言葉を聞いた事がありませんか? 織田家の武将、柴田勝家のあだ名です。
勇猛果敢な戦い姿からつけられた名前でした。その名の如く、容姿も鬼に近かったようなのですが、それは真実か否か……。
確かに銅像の柴田勝家は鬼のような顔をしているようです。そんな柴田勝家は、果たしてどんな生涯を過ごしたのでしょうか。
柴田勝家という人
柴田勝家の出生ですが、実は不明なのです。一応1522年という事なのですが、本当は謎です。
実は、両親についても謎が多く、先祖についても不明です。とにかく歴史上、わっと出てきた武将という事はわかります。
それまで柴田一族は、歴史に名を連ねる程の地位にいなかったのか、それに見合う働きをしていなかったのか、
とにかく何もかもが不明なのに「柴田勝家」という名前だけはしっきりと歴史に刻まれています。
もともと、柴田勝家は信長の父である信秀に仕えていました。義理に厚く、情にも熱い。前田利家に最後まで「おやじ」と呼ばれて慕われていたように、懐も広い武将でした。
信秀の死後、勝家は嫡子であった信長ではなく、弟の信行に宿老として仕えました。
当時、信長はまだまだ「尾張のうつけ者」としての評判しかなく、まっすぐな生き方、そして考え方しかできない(いい意味で)勝家は、信長よりも信行を次の後継者にと思っていました。
そのころにはすでに、勝家は数々の戦場で功績を挙げている武将で、その勢いを持って信長の親衛隊と戦ったのですが、少しずつ信行は形成不利となっていきました。
もうだめだと悟ると、勝家は頭を坊主にして信長に許しを請うたという話があります。この時、信長は勝家に免じて信行を許します。この時、勝家は信長に恩義を感じたのでしょう。
次にまた信行が謀反を起こす気配を見せた時には、信長にそれを報告する勝家がいました。助けてくれた恩を忘れて再び無謀な戦をしようとする信行を見限ったのかもしれませんね。
とにかく義理を厚く重んじる勝家は、こうして織田家筆頭家老への道を進んでいくのです。
瓶割り柴田、鬼柴田
柴田勝家のあだ名として有名なのは、「鬼柴田」というものです。
先ほどもちらりとお話したように、その戦いぶりが勇猛果敢で、まるで鬼のような勢いだった事からこの名前がつけられました。
もう一つ、勝家にはあだ名があります。それが「瓶割り柴田」です。信行から信長へ奉公を移した勝家は、様々な戦場で功績を挙げ、織田家の中で筆頭になる道を固めてきました。
そんな時、信長と朝倉家との戦いが始まりました。この頃には信長の信頼も取り戻していた勝家は、戦の最前線にある近江八幡の長光寺に陣を構えていました。
ほどなくして味方をしてくれるだろうと思っていた、信長の妹・お市の方の嫁ぎ先、浅井家が裏切ります。
すると、最前線にいた勝家のいる長光寺は浅井・朝倉家の兵に取り囲まれて、断水させられてしまいました。
この時、勝家は城中から残っている水を集めて大きな瓶に入れ、場内にいた兵に一杯ずつ飲ませてやります。
水を断たれているので、とても貴重な飲み水です。余った水は大切にとっておかなければなりません。
しかし、勝家はあろうことか、全員が水を一杯ずつ飲み干すと、いきなりその瓶を割ってしまったのでした。
これには兵たちもびっくりした事でしょう。水がなければ生きていけないからです。驚く兵たちに、勝家はこう言いました。
「死中に活を得るには突撃のみ」。どういう意味かと言いますと、
「ほぼ助からない状況の中、それでも生きたいのなら、もはや突撃しかない」という意味です。
こうして勝家と兵たちは城を飛び出して突撃し、包囲軍を打ち破って逃げる事ができたのでした。この事があり、「瓶割り柴田」というあだ名がつけられたのです。
それにしても、勝家だからこそ成功した戦法だったのではないでしょうか。常に戦場にいた勝家は戦の達人といってもいいでしょう。
加えて力もあります。だからこそ成功したのでしょうね。
対・豊臣秀吉
織田家の筆頭家老としての地位をゆるぎなくしていた勝家ですが、1582年・本能寺の変が起こります。
明智光秀の裏切りにより、主君・織田信長が亡くなってしまったのです。運命の6月2日。
勝家は信長の命令により、越中の魚津城・松倉城を攻めていました。今でいう富山県魚津市のあたりです。
翌日の3日に、勝家は城を攻め落とすのですが、その時はまだ信長の死を知りませんでした。勝家が信長の死を知ったのは3日後で、知ってすぐに全軍撤退し北ノ庄城へ戻ります。
そしてそのまま信長の敵討ちのため兵を出そうとしたのですが、越後の上杉に何かあると悟られ、邪魔をされてしまいます。
ようやく動けたのが18日。信長の死後10日ほども経った後でした。
ちなみに、この時にはもう秀吉によって裏切者の明智光秀は討たれており、勝家は一歩も二歩も出遅れてしまうのでした。
さて、その後、有名な清須会議が開かれました。今後の織田家をどうしますか、という会議です。
この時、秀吉は信長の嫡孫、つまり信忠の息子の三法師を連れてきました。それに対抗して、勝家は信長の三男である信孝を推しました。
しかし、やはり敵討ちをしたという大義名分を持ってしまった秀吉の立場は強く、後継ぎは三法師と決まりました。
秀吉は勝家よりも、かなり年下になります。仮にも、織田家の筆頭家老として力を持っていた勝家だったのですが、ここで立場が逆転。秀吉の天下となっていくのです。
この清須会議では、信長の妹であるお市の方の処遇も決まりました。
その結果、お市の方は勝家に嫁ぐ事になったのです。一説にはお市の方が元夫である浅井長政を殺した秀吉が嫌いだったから……という説もあります。
それも嘘ではないのでしょう。ですが、やはり政治的な面も絡んでいたようですね。
この婚姻には秀吉も賛成していたというのです。もっとも、秀吉の考えとしては、自らの立場の方が上になり、自らが推した三法師が継ぎの跡取りとなりました。
この事で勝家には不満と不服がたまりにたまっていると考えたのです。そこへお市の方との結婚をプレゼントすれば、鬼柴田も大人しくなると考えたのかもしれませんね。
愚直という言葉がぴったり合ってしまう勝家は、小賢しい秀吉に、いいように転がされていたのでした。
お市の方と結婚
お市の方が勝家の元に嫁いだ時、二人の年齢差は25歳もありました。まるで父と子と年齢差です。
しかも、お市の方には三人の子がいました。有名な浅井三姉妹です。勝家は三姉妹の父親にもなったのです。
さて。勝家とお市の方。二人の結婚はお互いにどう思っていたのでしょうか。
勝家にとってお市の方は、ずっと仄かな恋心を抱いていた相手でした。
娘ほど年の離れた女性に、と思われてしまうかもれしませんが、それほどにお市の方は美しかったという話です。
それに、勝家はもしかしたら初婚だったという説もあります。
いろいろと調べてみても、勝家に妻がいて病死した、とか、お市の方と結婚するまでずっと結婚していなかった、という資料がどこにもないのだそうです。
ですから、妻がいたのかどうか、初婚なのかどうか、わからないままという話です。
ですが、子供も養子ばかりでしたし、やはり正室がいれば何かしらに資料が残っていると思いますし、個人的には初婚であってほしいな、と思います。
とにかく若い頃からずっと戦ばかり。宣教師フロイスに言わせれば、「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」だそうで。
それほどいつも戦場に出ていた勝家です。女性と向き合う時間などなかったのかもしれませんね。
家柄的にも、とにかく謎の多い人物ですので、本当に初婚だったのかもしれません。
寒い寒い北国の城に主君の妹だったお市の方を招く時、きっととても緊張したのではないでしょうか。
お市の方が風邪をひいてはいけないと、暖を集めていたかもしれません。
無骨で不器用な男ならではのもてなしに、お市の方はきっとその奥の優しさに気づき心を許していったのではないでしょうか。そうであってほしいな、と思います。
しかし、二人の結婚生活は一年で終わってしまいます。二人の結婚を認めた秀吉が攻めてきたのです。
この秀吉の行動は、目の上のたん瘤だった勝家を早く消してしまいたい気持ちと、秀吉も惚れていたお市の方を奪還するため、とも取れます。
勝家はかなり頑張って戦ったのですが、自分を「おやじ」と慕っていた前田利家にまで裏切られ、いよいよ最後の時を迎えるでした。
柴田勝家の最期、その子孫たち
1583年3月。雪解けを待って秀吉との戦いが始まりました。賤ヶ岳の戦いです。勝家なりに事前にいろいろと手を回してはいたのですが、時代はもはや秀吉の時代。
結局何もかもがうまくいかず、結局北ノ庄城へと戻った勝家は、お市の方と共に自害します。その時の様子を記した文書が残されていました。
「毛利家文書」と言います。それには秀吉からの書状もあり、くわしく勝家の最期が書かれていました。
それによると、勝家はギリギリまで戦ったのですが、総勢80人ほどの味方と一緒に天守閣にまで追い詰められてしまいます。
その中には娘を逃した後のお市の方もいました。小谷の城で落城を経験していたお市の方。その時には最愛の夫と別れた経験があります。
もう二度と、あんな風な悲しい経験をしたくないと、お市の方は勝家との自害の道を選んだのでした。
いよいよの時、勝家はお市の方に何を語りかけたのでしょうか。自分についてきたばかりに、申し訳ない事になったと詫びたのでしょうか。
義理人情に厚く、とても優しい勝家ですから、そうやって頭を下げたかもれしません。
そんな勝家に、きっとお市の方は微笑んで頭を上げて欲しいと願ったのではないでしょうか。これは自分が決めた道なのだから、と。
そんな二人が読んだ辞世の句があります。
柴田勝家
『夏の夜の、夢路儚き、後の名を、雲井にあげよ、山ほととぎす』
お市の方
『さらぬだに、打ちぬるほども、夏の夜の、別れを誘ふ、ほととぎすかな』
二人の句には同じような言葉が多く入っています。夫婦とはいえ、この様に同じ単語を多く使っている辞世の句はあまり見かけません。
二人ともが同じ言葉を使っているのもまた、二人の仲がとても良かった事を示しているような気がします。
ちなみにこの時、勝家に殉死した兵は80名ほど。勝家がいかに愛されていたのか、よくわかります。
さて、勝家の子孫についでですが。勝家には養子と実子がいたようですね。実子といっても、どうやら庶子のようですので、正室から……という流れではないようです。
養子は男五人と女一人がいました。全部で八人の子供たちという事になります。
ただ残念ながら、血がつながっていたとされる二人の子は、賤ヶ岳の戦いのあと秀吉に捕まり、処刑されたという事です。
残念ながらここで勝家の血は途絶えてしまいました。ですが、養子であった柴田勝政の子が柴田家の名を継ぎました。
血は繋がっておらずとも、柴田の名はこうして江戸時代にも流れていったのでした。
義理人情がありまっすぐな柴田勝家
もし、柴田勝家が愚直ではなく秀吉と同じように頭が巡る人であったなら、きっと秀吉の天下にはならなかったかもしれません。
とてもまっすぐで義理人情に厚く、かけられた恩は決して忘れない勝家だからこそ、そのまっすぐな性格に自分自身が飲み込まれてしまったのもしれません。