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武田勝頼の生涯エピソードや最後、首の行方について

武田信玄の息子である、勝頼。この名前を知らないという人は多いでしょう。

そんな彼が突如クローズアップされ、歴女の心をがっちりキャッチしたのは、大河ドラマ「真田丸」でした。

勝頼演じた、平岳大さんは真田丸スタートの1話、2話だけの登場でしたが、このたった2話分だけで多くの人の涙を誘う名演技で、ちまたにも武田勝頼の名が広まりました。

偉大なる父、信玄の影に惑い、父のツケを払わされ、最後は自害で終焉を迎えた勝頼の人生は悲哀に満ちています。

今回は無能と評されていた武田勝頼の本当の人物像と、武田家の命運を左右した長篠の戦いや、勝頼の悲しい最後と、首の行方など彼の生涯をご紹介します。

父の信玄は、敵の大将?

勝頼の父となる信玄は甲斐の虎と呼ばれていました。甲斐の地方を治めていた守護大名家の武田家が戦国武将になったのは何故でしょうか?

甲府から周辺に戦を仕掛けていき、その戦の猛々しさから周辺大名達に畏れられていた信玄。

そもそも何故武田家が領土を広げようとしていたかと言えば、甲斐の国(現在の山梨県)は、険しい山々に囲まれ、田畑を作る広い土地が無かったことと、

盆地の上、複合扇状地という土地柄、大洪水が頻発する土地だったのです。自然環境の他に、この地には地方病と言われる奇病があり、農民は苦しんでいました。

日本住血吸中という寄生虫が原因だったのですが、当時は原因不明で田畑に入ると農民ばかりがその地方病に掛かり、「掛かると必ず死ぬ」と言われた恐ろしい病でした。

そのような土地なので、米の収穫高が低かったのです。

ちなみにこの地方病は、この地方でかなり長い間人々を苦しめており、原因究明と解決策が発見され、山梨県が終息宣言を出したのはなんと、平成8年になってからなのです。

更に、最強の家臣団と呼ばれる武田の家臣達というのは、実は案外まとまりが悪く、信玄も晩年まで悩んでいました。

そこで彼は、地元で採れる金と、功績を与えたものには領地を与えるという方法で、荒くれ者達の家臣団をまとめようとしていたことや、

生きていく為に必要な塩を得る為、海が欲しかったなどの様々な要因で、まずは信濃侵攻を開始します。

信玄は信濃侵攻の為に、かつて同盟を結んでいた諏訪を攻め滅ぼし、諏訪の惣領であった諏訪頼隆は捉えられ自刃し、諏訪家は滅びました。

しかし、何故か信玄は、この諏訪の娘を側室にしてしまうのです。その諏訪の娘との間に生まれたのが、勝頼です。

信玄の四男として誕生した勝頼は、幼名も出生地も記録が残されていないので、不明ですが、勝頼は16歳の時に諏訪家の跡目として、諏訪四郎勝頼と名を改めました。

勝頼が元服した頃にようやく、川中島の戦いも終結して信玄は信濃を手に入れたのですが、真田昌幸などの信濃州はご存知の通り、荒くれ者だらけの土地。

信濃を落ち着かせるために、信玄は息子や娘たちを養子や、結婚などで入れていますが、勝頼もその流れで諏訪の名を継ぐことになりました。

そもそも武田の跡継ぎではなかった勝頼

名を見ても分かるように、彼は信玄の跡目になる可能性は最初から無く、信玄もそのつもりは無かったと思われるのは、

武田家の通字である「信」を与えられなかったことからも想像できます。勝頼の名は、信玄の幼名から勝を貰っていますが、頼は諏訪家の通字です。

滅ぼした家の通字を入れていることからも、信玄は勝頼に跡を継がせる気など、考えてもみなかったのでしょう。そもそも諏訪の娘を側室にすることですら、家臣達は猛反対。

滅ぼした相手の娘なのですから当然です。子でも産まれた日には、家の敵とばかりにいつ反旗を翻してくるか分からない状況を、

わざわざ作る必要性がないのですから、家臣団の反対には頷けますよね。

大河ドラマの人気を復活させたと言われている、二大大河ドラマは、「独眼竜政宗」と、中井貴一さん主演の「武田信玄」なのですが、

このドラマ内では勝頼の母である、諏訪の娘を南野陽子さんが演じていました。

ドラマ内の設定では、信玄の殺された初恋相手に瓜二つの諏訪の姫に恋をして、わりと無理やり側室にしていた印象ですが、

2007年大河の「風林火山」では、家臣団猛反発の中、軍師山本勘助だけがこの姫を側室にするべく奮闘してました。

何れにせよ、諏訪御料人と呼ばれた勝頼の母が美しい姫だったとは言われているので、信玄が一目惚れしたとしても不思議ではないですよね。

そんな過酷な命運を背負ってこの世に誕生した勝頼。祖父諏訪氏を殺した相手が、父親と知っていたとすれば、とても複雑な思いを抱えていたことでしょう。

ちなみに大河ドラマ「武田信玄」にて、信玄の父親役を演じていたのは、故平幹二朗さんでしたが、「真田丸」の時に、勝頼を演じていた、平岳大さんは息子さんです。

彼がカリスマ父信玄を越えられない、息子勝頼の苦労を上手く表現できたのは、この親子関係があったかもしれませんね。

勝頼の命運を決めた事件

彼の出生場所も、幼少期にどこで過ごしていたのかも不明ですが、彼は信玄の一家臣として信濃の高遠城を与えられ、翌年18歳頃、初陣を飾り功績を残しています。

20歳の時に、当時破竹の勢いで勢力を伸ばしていた、織田信長との同盟関係を結ぶべく、信長の養女が勝頼の嫁に迎えられます。その2年後、勝頼に息子が誕生しました。

信玄の長男であった義信に息子がいなかったせいか、勝頼の子には武田の通字の信と、信玄の幼名から勝も与え、信勝と命名されました。

ここで信玄の勝頼に対する思いがよく分からないのは、信玄には他にも養子に出した息子や、その子達の孫もいましたが、

全て男子は「信」の通字を与えているのに、勝頼にのみ通字を与えなかったのは何故なのか?ということです。

確かに敵の娘の子ではありますし、家臣団の反対もあったので理解できますが、勝頼としては自分だけ他人と見られているようで、辛かったのではないでしょうか?

信玄から見た勝頼は、家臣の強固な反対を押しのけてまで、側室に向かい入れた人との息子なのに、少しも可愛く思う気持ちは無かったのかと疑問を感じます。

実は信玄も、心のどこかではいつか敵を取られるのではないか?との疑念もあったかもしれません。何故なら彼もまた、父親である信虎を追放しているからです。

勝頼としては、敵と思えば憎しみも多少感じるのでしょうが、息子としては父に愛して欲しかったという気持ちも必ずあったはずです。

勝頼を思う時、悲哀を感じるのはこの出生に理由があると考えられます。

さて、そんな不憫な勝頼の命運を決める事件が起きました。戦国時代の流れを変えた、桶狭間の戦いです。

これにより、信玄にとって邪魔であった今川義元があっけなく討ち死に。義元の死をきっかけに、信玄は北の海を諦め、海がある駿府を狙います。

その布石か、信玄の長男である義信が謀反の疑いで寺に幽閉されてしまうのです。これにより、義信は後継者から降ろされ、最終的に義信は死にました。

病死とも憤死とも、自刃とも言われています。義信の嫁が今川義元の娘であったこともあり、信玄は離縁させ里に帰し、今川との同盟も破棄してしまいます。

義信の他に次男の息子がいましたが、盲目で僧侶となっており、三男は幼き頃亡くなっていたので、これにより急遽、

勝頼が跡目の候補として踊りでたのですが、結局は最後まで正式な跡取りにはなれませんでした。

そして甲府へ!ついに表舞台に登場した勝頼

義信が死んでから4年目、ついに勝頼は父信玄に甲府に呼び戻されます。

勝頼25歳、父信玄は、50歳。信玄が死ぬまでの2年間という短い期間、勝頼はようやく父と過ごすことができたのです。

しかし、やはり跡取りにはされず、信玄は勝頼の息子である信勝を跡継ぎとし、幼い信勝の後見人を勝頼に命じました。

やはり、信玄の気持ちが分かりません。現在言われている理由としては、諏訪の跡取りであることや、

家臣団に気を使ったという説など諸説ありますが、勝頼としてはいつか父に認めて欲しいという気持ちが、多分にあったのではないでしょうか。

この時の武田は、信長に貶められていた将軍足利義昭が、近隣諸国の大名に助けを求め、信長討伐を命じていました。

それを口実に、信玄はいよいよ京を目指し始めます。勝頼も共に従軍しています。

勝頼の戦ぶりは初陣の時からも、猪突猛進型であったと伝わっています。

家臣達はその命知らずな出陣ぶりを認めていますが、すぐさま討ち死にしてしまうのではないか?と、その気性を危惧されてもいました。

信玄も遺言で、勝頼の気性の荒さを気を付けるようにと残していることから、相当血気盛んな猪武者であったのではないでしょうか。

徳川の城、遠江の二俣城を落とし、何より後の天下人となる家康があまりの恐怖に脱糞して逃げ帰ったと言われる、伝説の戦い、

三方ヶ原の戦いで勝頼は戦っているのですから、強かったのは間違いないでしょう。

父が落とせなかった高天神城を粘り強く攻撃し、城を落とせたことからも、彼が父に負けたくないという必死さが伺えます。

しかし、外交や根回しなどは得意ではなかったようで、父である信玄が全方位にケンカを売ってまわったこともあり、そのツケを返す人生がこれから始まります。

父の残したツケ

晩年の信玄は何をしたかったのか、周辺国全方位にケンカを売っています。

今川、北条、上杉、斎藤、そして勢力を伸ばしてきた織田、そして徳川。

戦略があったのか、無かったのか分かりませんが、同盟を結んでは破棄し、また同盟を結んだりと落ち着きがありません。

金山の金も掘り尽くし、冒頭で説明したように米も十分に取れない。そして、度重なる戦とそれに伴う戦死者多数。

しかし、武田の家臣をまとめていくには、領土拡大しかなかったのでしょう。

最強軍団と呼ばれていた武田の家臣達は、確かに有能なのですが、それぞれが個人商店の店主みたいなもので、わりと勝手に動いてしまう人々の集まりでした。

信濃などは、真田は信玄に心酔はしていましたが、元は戦に巻き込まれた地。まとまりは更に悪かったのです。

信玄自体、商店連盟の会長のようなものなので、愚痴をこぼすほどまとまりの悪い団体でした。

それをまとめる為に、功績を上げたものにはすぐさま恩賞を与え、なんとかまとまっていたのです。

そんな中、正式に後継者と任命されていない勝頼が現れ、家臣達はまた割れます。勝頼派か、その子信勝か。

そして、それをはっきりさせないまま、信玄は京を目指し家康がいる三河侵攻の最中、あっさり死んでしまったのです。

信玄は数年前から書き残していた遺言で、自分の死は3年隠し、その間甲斐の国を立て直すよう書かれていました。

更に、跡継ぎは孫の信勝に継がせること。信勝16歳まで勝頼が代理を務めること。

信玄の軍旗であった「風林火山」は使わせないなど、書き残されておりましたが、家臣の前で正式に宣言された訳でもないですし、何よりまだ戦の最中です。

後に残された勝頼としては相当立場の弱い状態のまま、信玄はこの世を去ってしまったのです。

息子として、どんな気持ちでそれを受け止めたのかは分かりませんが、この後の勝頼の動きを見ていくと辛かったのではないかと思います。

そこからは、父を見返してやりたい、父を越えたいと言う勝頼の気持ちが見えてくるようです。

長篠の戦い

信玄死後、勝頼は家臣達が止めるのも聞かず、遺言を無視し3年待たずに、徳川を討つため長篠へと侵攻します。

先ほど紹介した、父も落とせなかった高天神城を落としたのは、この前年。

これに自信を得て、徳川には勝てると思ったのでしょうか、それともいち早く徳川、織田を滅ぼし、家臣達に己を認めさせたかったのかもしれません。

長篠を守っていた奥平軍は、わずか500。対して勝頼率いる武田軍は、1万5000。城さえ落とせれば、まずは勝頼の勝ちでした。

家康は、三方ヶ原の戦いの恐怖もありますし、高天神城も落とされているので、織田に援軍を頼みます。

高天神城の時には織田は援軍に来なかったので、勝頼も油断していたのでしょう。勝頼は城を落とすべく猛攻撃を加えます。

しかし、長篠城の位置は川に囲まれていたこともあり、敵も中々好戦して勝頼は予想外に苦戦するのです。

結局、勝頼の読みは外れ城が落ちる前に、徳川が織田の援軍を連れてきてしまいました。その数、3万8000。

長篠の戦いと言えば、信長の大量の鉄砲隊が3段撃ちをして、武田の騎馬隊を倒したという説が長く語られていましたが、最近の研究では、そのような事実はなかったようです。

信長の到着を知り、古参の家臣は撤退を勝頼に進言しますが、勝頼は撤退を許しませんでした。そのおかげで、この戦で武田の重鎮とも言われていた多くの家臣を失ってしまいました。

ちなみにこの戦い中に、真田丸でお馴染みの真田家長男、次男が戦死しており、その結果三男の昌幸が真田の当主になりました。

結果、多くの家臣を失い勝頼は敗走しますが、その3か月後改めて、1万3千の兵を集めて進軍を続けていた徳川軍を追い払い、ようやく甲府へと戻ります。

勝頼の最後と首の行方

長篠の戦いの後も、徳川との攻防は続きますが、その間勝頼は領地の立て直しの為色々動くのですが、全て裏目に出ています。

まず、北条ともう一度同盟を組み、上杉とも手を結びますが、謙信亡き後勃発した上杉家の跡目争いに巻き込まれ、北条との仲はまた壊れてしまいます。

北条が押す景虎と、上杉家が押す景勝との仲立ちに入ったという話もありますが、結局どちらとも上手くいかなくなってしまいました。

その他勝頼は、甲府から新府に城を建てる為に税を上げてしまいます。戦でもお金が掛かるのに、築城にもお金が掛かり、家臣や領内の人々の反感を買ってしまいます。

この辺りから、織田や徳川は内通者を探っており、勝頼無能説は織田が各領内の人々に、

勝頼はひどい領主だと思わせる為に流した噂話という話もありますが、勝頼の評判は下がっていきました。

第二回高天神城の戦いで徳川と再決戦した際は、負けが込んでいるのに援軍を送らずに城を落とされ、家臣達も見捨てていることで、勝頼は更に評価を下げています。

こうして、最終的には家臣に内通者や寝返る者を増やし、兵達も隙を見ては逃げ出していくので戦の中、勝頼はどんどん孤立していきます。

譜代の家臣であった、穴山梅雪や木曾義昌、小山田信茂などの裏切りで、勝頼は窮地に追い込まれてしまいます。

ついに織田軍に追い詰められた勝頼一行は、天目山の戦いで自害してこの世を去ります。

側にいた家臣も少なく、妻子もその場で果てたので、ついに武田家は滅んでしまうことになりました。

息子の信勝はこの時16歳。一説には元服の儀を済ませてから親子で自刃したとも伝わっています。

首は信長自らが確認し、罵倒を浴びせたとも、哀れな奴と声を掛けたなどの逸話も残されており、京都に送られ一条河原にて晒され、

向嶽寺という寺の庭に埋められていましたが、その後家康が掘り返し丁寧に供養しました。

首は甲府の菅田天神社に納められたと伝わっており、家康はのちに景徳院を建て、武田家の菩提寺としました。今も、勝頼は甲府の地で静かに眠っているのです。

武田勝頼の性格

勝頼の性格は調べていくに連れ、どちらかと言えば、負けず嫌いなようにも見えます。

彼が父に認めて欲しかったのか、それとも親父を越えて、力を見せつけたかったのかは今となっては、勝頼の本音は誰にもわかりません。

真田丸にて、平岳大さんの名演技によって涙を誘う悲哀の人のような、再評価をする人も増えてきていますが、実際は父信玄とよく性格も似ており、

信玄が父信虎を追放したように、勝頼もまた自分の力を誇示していきたいタイプだったのかもしれませんね。

勝頼が優れた武将と認めていた武将も多いですが、特に家康は随分評価をしていることに注目すると、後に天下人となった家康ですから、

あまりに無能な息子に脱糞するほどの恐怖を味わされ、戦にも負けたと言われるのは嫌だったのではないでしょうか。

それにより、評価を高くしたということも考えられています。

逆に、無能説は武田を裏切った家臣達の多くが、自分たちが悪かった訳ではないと、勝頼を無能だったと呼び、武田家滅亡の要因という罪をなすりつける為とも言われています。

勝頼がトップになってからは、信玄ですら悩ませた家臣達が口うるさく、面倒だったこともあり、

自分から遠ざけたという話も残っているので、後々見限られた原因も作ってしまったということもありますね。

ただ亡くなる時に側にいたのは諏訪方の家臣で、彼は勝頼に冷遇されていたとも伝わっているのにも関わらず、

最後まで勝頼の側から離れなかったという記録から、実は家臣に優しい面もあったのではないかと考えられます。

父を越えられなかった勝頼

偉大な父を持った2代目息子というのは、いつの時代も父と比べられ辛いものです。

特に同性の親というのは、やはり一人前の男になる為、必ず父を越えなくてはならない日があり、ある意味大人になる試練でもあります。

勝頼も立派な戦国時代の男です。下剋上のまかり通っていた時代の男子としては、彼もまた自分の力で名を遺すと野望を持ち、父を越えたいと思っても不思議なことではありませんね。

その苦境を乗り越え、がむしゃらに働き非業の最後を遂げた勝頼に、今も尚、涙を流し感動する人も多いのです。