戦国武将なのに、麿眉に白塗りの間抜けな顔。更に小太りで蹴鞠しているという、何ともひどいビジュアルににされた男、今川義元(いまがわよしもと)を知っていますか?
ビジュアルを聞いて、戦国ゲーム好きの人は「あ!」と、気が付いた人もいるでしょう。
具体的に何をした人かは知らないけど、戦国時代が舞台の大河ドラマなどでは、大抵ドラマの序盤「桶狭間の戦い」で、
戦国時代の風雲児、「織田信長」に毎度瞬殺される男としても、認知している人も多いかもしれませんね。
しかし今川義元は、案外出来る男だったのです!今回は、そんな案外素性を知られていない、今川義元の性格や生涯を、首の行方も含めて紹介します。
由緒正しき家系の今川家
義元が生まれた今川家は、元を辿れば清和源氏にまで通じます。清和源氏とは、第56代清和天皇のお子達が賜った姓の事です。
その流れである河内源氏家に通じるのが、室町幕府を開いた足利将軍家で、その将軍の親族である吉良家の分家が、今川家に当たります。
今川家は鎌倉時代から名を起こし、元は三河(愛知県)に荘園を与えられていましたが、鎌倉時代が滅び、
紆余曲折あって、足利尊氏が室町幕府の初代将軍となった頃に、今川家は駿河(静岡県)の守護大名となりました。
そんな名門の家に、今川義元が生まれたのは、1519(永正16)年のこと。既に父の、氏親(うじちか)の代では、
守護大名から戦国大名と化しており、駿河、遠江も手に入れて領土を拡大していました。
ちなみに守護大名を簡単に言えば、鎌倉幕府が地方に置いた武家の事で、その地方(当時は国)を守る為の行政や、軍事的組織のトップに当たります。
元は幕府から任命される職務の一つでしたが、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が朝廷主導の政治に切り替えた後、武家の不満が高まり戦に、
その後足利尊氏が室町幕府を開きますが、朝廷は北と南の二つに分かれます。
足利8代将軍義政の頃から、京では応仁の乱が始まり、これがきっかけで下が上を狙う、下剋上の戦国時代に入っていきます。
朝廷や幕府の権威は弱まり、各武将達が血で血を洗う紛争が、日本各地で始まっていくのですが、守護大名からその権力争いに参加していった家が、戦国大名と呼ばれてます。
今川家もそのうちの一つで、義元が生まれた頃は、守護大名の役目として各地の紛争を抑えつつ、領土を拡大し、
京から逃げ出してきた公家達を保護したりと、すでに相当な力を持っている家でした。
仏門から突如戦国武将へ躍り出た義元
義元は今川家の五男としてこの世に誕生しました。跡取りはすでにいるので、彼は4歳の時に仏門に出されてしまいます。
下剋上の戦国時代では、親子、兄弟が争っていますので、男兄弟が多い場合は家督争いの火種になりかねません。
武家の習いとして兄弟が多い場合、子の一人や二人が仏門へと出されるのは普通の事。
今川家も長男、次男を残して、三男から皆仏門へと入っています。
義元もこれに習い、善得寺の太原雪斎(たいげんせっさい)という禅僧に預けられ、学問や修行に励むことになります。
その後、義元は修行に励み、京都の建仁寺にて出家し、名を「梅岳承芳(せんがくしょうほう)」と改め、
僧侶として雪斎と共に、同じく京にある妙心寺で更に学問や修行に励んでいくのです。
戦乱の世とは無縁なお坊さんとなった義元の人生を大きく変えたのは、今川家の長男が突如亡くなった事から始まります。
義元が仏門に入って7歳になった頃、父の氏親が亡くなり、今川家の長男である氏輝(うじてる)が家督を継ぎました。
その後、義元が何歳の時かは不明ですが、その後の歴史を見るにおよそ16~17歳頃、兄氏輝に駿府へと呼び戻されています。
義元が駿府に呼び戻されてからわりとすぐに、突如として兄氏輝が死亡します。
そして何とも不可解に、次の継承権のあった今川家の次男彦五郎も、兄氏輝と同日に死亡。
理由は不明ですが、一説には毒殺とも言われ、この日から今川家にも動乱が訪れるのです。
僧侶だった義元に、突如として回ってきた今川家の家督。しかし平和な時ならいざ知らず、やはり今川家も家督争いの御家騒動が始まってしまいます。
戦国大名 今川義元誕生
義元が17歳頃、突如として2人の兄がこの世を去りました。一体今川家に何が起きたのでしょうか?2人同時に息子を亡くしましたが、今川家にはまだ息子が3人おりました。
幸いなことに、長男、次男、五男の義元は母親は同じで、言うなれば同腹の兄弟。しかも正室の子達です。
側室が当たり前の時代に、母親が同じな上、正室の子というのは安定感がありますよね。
その母の名は、寿佳尼(じゅけいに)。女だてらに、夫氏親の代わりに今川家の実権を握り、息子氏輝の後継人として国政を取り仕切っていました。
義元はその寿佳尼の後押しもあり、将軍家より義の通字を頂き、還俗して義元と名を改め、スムーズに今川家の跡取りになるはずでした。
ちなみに、還俗(げんぞく)とは、出家した身から世俗に戻る…これでは、いまいち分かりにくいですね。もっと簡単に言えば、お坊さんを辞めて一般人に戻るということです。
そのような訳で還俗した義元が、今川家の当主となることに特段問題は無いはずですが、やはりそこは下剋上の時代。
有力家臣の一人が、自分の家から出た側室が産んだ、義元の異母腹の兄を当主にしようと画策します。
義元と同じように、僧侶となっていた玄広恵探(げんこうえたん)を還俗させ、謀反を起こしたのです。
のちに今川家の御家騒動と呼ばれる、花倉の乱(はなくらのらん)が起き、義元は世俗の世知辛さをのっけから味わうことになりました。
始めは苦戦した義元でしたが、後に色々と因果のある後北条家に協力を願い、約2ケ月程続いた騒動は玄広恵探の自害により終了し、義元はようやく、今川家の当主となるのです。
海道一の弓取りと呼ばれた男
無事に今川家の当主となった義元ですが、彼が当主になった時の周辺国は、相当荒くれ者が揃っています。
甲斐に武田信玄の父信虎。相模に北条氏康、そして尾張では織田信長の父、信秀が、更に三河では徳川家康の祖父や父が、暴れておりました。
まさに群雄割拠の戦国時代、日本各地で、猛者たちが争っている時代です。
まだ17歳の若き当主、義元は家を継いだ翌年に、甲斐国の武田信虎の娘を嫁に貰い、甲斐と同盟を結びました。
しかしこれが仇となり、花倉の乱の時に後ろ盾になってくれた北条家の怒りを買い、北条家と戦になってしまいます。
まだ家臣達もまとまっていないこの年、突如駿河の河東に攻めてきた北条に、義元はあっけなく領土を取られてしまいました。
更に、その流れから遠江にて、家臣達の謀反が起きたり、その隣国である三河へと織田が攻めてきたりと、戦に次ぐ戦となったのです。
北条との戦いや、三河への援軍、更に信濃侵攻を開始していた武田家への援軍など、義元が当主に着いてからは、気が休まる暇もなかったのではないでしょうか?
そうこうしている内に、義理の父にも当たる武田信虎は息子に追放され、今川家が預かることに。
相次ぐ戦の中で、義元26歳の時に関東管領であった上杉と同盟を結び、ついに河東から北条を追い出すことに成功します。
その時、追い詰められた北条氏康は、武田信玄に仲介を求めたと言われています。
同じ頃、織田に侵攻されつつあった三河にも、義元は援軍を送ったりなど懐柔作戦を開始しており、この頃三河の岡崎城城主であった、のちの徳川家康の父を家臣に加えます。
恭順の証に、息子である家康(当時竹千代)を人質に迎えることになるのですが、なんと織田に奪われてしまうというハプニングがありました。
最後に天下を取った家康も、この後から数奇な運命をたどることになります。
義元が30歳になった頃、三河の武士達を支配下に置き、ようやく織田家との戦にも勝ち、人質であった竹千代も取り返すことに成功します。
こうして、三河、遠江、駿河の三国を手に入れた義元は、当時の幹線道路である東海道周辺を抑えたことから、「海道一の弓取り」と称される、大大名となりました。
白塗りも伊達じゃない、義元の功績
現代人にとって白塗りの代表と言えば、志村けんのバカ殿でしょうか?どうもそのイメージから、映画やドラマなどに登場する公家衆も、無能に見られてしまう風潮がありますよね。
義元も白塗り、麿眉ビジュアルで表現されているので、やはり無能に見えてしまうのですが、海道一の弓取りと呼ばれた男は、案外優秀な領主でありました。
父親の代からすでに実質戦国大名化していましたが、室町幕府の支配を受けず、今川で領地を直接運営するという宣言をしたのは義元です。
父である氏親は、「今川仮名目録」という国の法律を作りますが、義元は新たに21カ条を追加しました。そこには守護不入地の廃止とあります。
守護不入地(しゅごふにゅうち)とは、室町幕府が定めた特定の土地に、守護は勝手に入ってはいけないという法律ですが、義元はそれを拒否した訳です。
これにより、今川家は幕府から離れたことになるのです。義元は更に家臣達をまとめる為に、寄親寄子制度を制定します。
戦国時代は戦の度に農民が駆り出されますが、強制的に兵に連れていかれることを農民が面白く思う訳がありません。
義元は自分の家臣を親、その土地の農民を子とし、戦に出る褒美として年貢の免除や、新たな土地を与えるなどして兵をまとめていきました。
これにより、効率よく兵を集めることも出来た訳です。
また、冒頭で父親の代から公家を保護したと述べましたが、義元の母である寿佳尼も公家の出である為、多くの公家が駿河へとやってきました。
そのおかげか、戦国時代にも関わらず、駿河では今川文化と呼ばれる程の雅な文化が花開くのです。
義元もかつて京の寺で修業していたこともあり、京の文化に精通していたので、駿府の街は「東国の都」と呼ばれる程の華やかさでした。
今川家では、公家と共に毎月歌会を開催したり、その他にもお茶や蹴鞠などの優雅な遊びを楽しんでいたのです。
しかし義元は、歌はあまり得意ではなかったようで、駿府にいた公家の一人、冷泉為和(れいぜいためかず)に添削され、厳しく指導をされたという記録も残されています。
元々今川家自体が名門の家であり、このように公家文化にも通じていたことから、高貴な身分しか許されていない化粧を義元は施していたので、
白塗り、麿眉、お歯黒という出で立ちなのです。かつて化粧は、高貴な身分の証だったのですね。
太って足も短く馬に乗れないので、輿(こし)に乗っていたとも言われていますが、あれは後世に創作されたもので、
輿も身分が高い者しか乗れないので、義元もやはり、高貴な男としてのプライドがあったのかもしれませんね。
最後に見せた武士の意地!首の行方は?
義元35歳の頃に、甲斐の武田、相模の北条と互いに息子や、娘との婚姻を交わし、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結び、背後の憂いを断ちました。
このことで安心したのか、義元は39歳の頃に隠居し、息子氏真(うじざね)に家督を譲ると、新しく手に入れた三河の鎮圧と、
経営に力を入れていくのですが、このことが彼の命運を決めたのかもしれません。
三河を巡り、尾張の織田家との小競り合いは続いていましたが、義元が三国同盟を結ぶ2年前、ついに乱世の風雲児、織田信長が家督を継ぎ登場しているのです。
更に、常に義元の力になっていた家臣、太原雪斎が三国同盟の翌年死亡したことも、大きく関係しているかもしれません。
彼は義元が仏門に入ってからずっと義元の側にいて、家督争いの時から今川家の軍事、政治、外交に手腕を発揮していたのです。
そのような中、尾張を責める為に義元自ら出陣して、織田との戦が始まります。
まず義元は尾張にある、那古野城(なごやじょう)を責める為に、約2万とも言われる軍勢を引き連れ、尾張へと向かいました。
元は父氏親が築城したと言われる那古野城は、今川の物でしたが、織田に取られており、信長が生まれた城でもあります。
近くにある、大高城では今川軍が織田に動きを止められており、義元はその周辺の織田方の砦を次々落としていきました。この時、活躍していたのが、のちの徳川家康です。
この時はまだ今川の人質で、松平元康と名乗っていました。彼は義元にとても気に入られており、家臣として働いていたのです。
義元は、この前哨戦の勝利に気分を良くしたのか、それとも今川軍の士気を高める為なのか、
沓掛城(くつかけじょう)にて待機していた、自らも含む全軍で、大高城を救う為に出陣してしまいます。
こうして移動中の休憩場所に選んだ桶狭間で、突如信長率いるわずか2000の織田軍に襲撃され、義元はその場で討ち死にしてしまいました。
あっけなく死んだように言われていますが、実は義元も戦国武将としての気合いを最後まで見せています。
義元の首を取ったのは、織田軍の毛利良勝という男ですが、その前にも何人かと刀を合わせていますし、
首を取ろうとした毛利の指を食いちぎって絶命したと言われており、義元も最後まで諦めずに戦うという、武将の意地を持ち合わせた男だったのでしょう。
名門今川家の崩壊
桶狭間の戦いにて、義元は41歳という若さでこの世を去りました。義元の死は、今まで無名であった織田信長の知名度を一気に広めることとなります。
最後まで必死の抵抗を試みた義元でしたが、毛利良勝に打ち取られ、義元の首と愛刀であった左文字の太刀を奪われてしまいます。
今川家臣達は、せめて義元の首を取り戻そうと、今川軍がまだ残っていた鳴海城と引き換えに、織田軍と交渉し、義元の首は今川へと取り戻すことができ、
駿府へと帰ることができました。しかし、胴体はあまりに腐敗が早く、三河の地に埋葬されてしまいました。
義元の突然の死に、若くして家督を継いだ氏真は大河ドラマなどでは、現実逃避をして蹴鞠に興じ、祖母になる寿佳尼に叱られているボンクラ息子に描かれることが多いです。
しかし、まだ20歳くらいの若い当主にとって、この窮地を乗り越えられる男というのは、そうそう滅多に登場するものでもありませんよね。
彼は政治にはあまり向いていませんが、文化人としてはある意味優秀で、今川家が滅びた後も、結果図太く生き延びていくので、本当にボンクラだった訳でもないのでしょう。
それはともかく、義元亡き後は家臣がまとまらず、この隙に人質であったのちの徳川家康が離反し、元は自分の城であった岡崎城に入り、今川家より独立の動きを取り始めます。
人質とは言っても、家康は今川家にとても大切に育てられており、氏真とも年が近く、頼りにしていた男に裏切られて、氏真の怒りは相当あったのではないでしょうか?
これにより、あちこちで今川から離反しようとする国衆達が増え、氏真は謀反を起こした者などを粛正したり、威圧的政策を取ってしまい、逆に家臣達も次々に離反してしまいました。
義元の死後9年目、同盟を組んでいた信玄と、逃げられた元人質家康が反旗を翻し、駿河侵攻を始め、
氏真は駿河を追放されて、鎌倉時代より300年以上続いた名門今川家は、これにて滅亡してしまいます。
仏門から乱世の武将となり、約20年余り。早々に滅亡する家も多かったこの戦国の世で、領土を広げ、文化を残した義元は、
短い人生ながらも、相当出来る男であったと言ってもいいでしょう。
現代でもそうですが、父が優秀であると、その息子は次代を築くまでの教育をされ切っていないことが多いです。
ボンクラ息子が家を潰すということは、真逆の意味で義元も、相当出来る領主であったという証でもありますね。
巡り合わせという時の歯車の中で、義元がついていないとすれば、織田信長という彗星のように突如現れた、
戦国時代のニューフェイスの登場が、ただ義元の運命を変えることになってしまっただけなのです。
再注目される今川義元
駿府の街を東国の都と呼ばれる程発展させ、海道一の弓取りとまで呼ばれた義元ですが、所詮滅びた家。
悲しいことに地元静岡でも長い間、あまり注目されていませんでした。
しかし、今年(2019年)は、義元生誕500周年を迎えるということで、2年程前から地元静岡では、様々な準備やイベントが企画され、
今川義元の知名度を上げるべく、ついに地元が動き出しました。
ゆるキャラ「今川さん」も登場し、500年ぶりに注目を集める義元。再評価も最近は高まっており、再び駿河の国を盛り立てる男になるかもしれません。