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仁科盛信とはどんな人物?生涯エピソードや壮絶な最期について

仁科盛信という武将のお話をしたいと思います。彼は26歳という若さで亡くなっています。

その亡くなり方が壮絶! 信玄亡き後の武田家において、彼ほど勝頼のために命をかけた武将はいないでしょう。

仁科盛信という若武者の生き様には、感服せざるを得ません。

仁科盛信は武田家の五男坊

1557年。仁科盛信は武田信玄の五男として誕生します。母は側室の油川夫人。同腹の妹に、盛信とは後に因縁めいた関係になる織田信忠の婚約者だった松姫がいます。

仁科盛信は武田家に誕生しますが、幼少の頃に仁科家の跡を継ぐ形で仁科姓になります。

なんでも仁科家が謀反を起こし、当時の当主だった仁科盛政が討伐されたので、そこに信玄の言いつけで盛信が入ったそうです。

しかしこの謀反というのも、仁科盛政が川中島の戦い関係で城を留守にしていた時に、家臣が上杉家の調略に乗ってしまっただけなので、盛政自身は関係ないともうのですが……。

それでも、信玄は盛政を自害においやりました。そこで、盛信が仁科家の名跡を継ぐ事になったのです。

この方法。信玄の得意とする方法で、諏訪氏、海野氏にも実子に名跡を継がせています。

こうして仁科家の跡を継いだ盛信。仁科家の通字「盛」の字を使い、幼名五郎から盛信になりました。

この時、若干4、5歳! 右も左もわからない子供ですが、盛信はここから仁科の人間として武田家と密室な関係を作り家を盛り立てていくのです。

仁科家当主としての盛信

仁科盛信となった五郎は、懸命に働きました。父の信玄のように内政に力を注いでいたのではないかと思います。というのも、盛信は諸役免許を行いました。

どういう事かと言いますと、例えば農民などが田畑で作物を作った際、これを納めるときに税金がかかっていました。

それを免除したり、軍役、つまり、戦の時に兵として狩りだされる事も免除する、というものです。こうやって民の心をがっつり掴んでいきました。

また知行安堵も行いました。これは、自分の家臣などの土地などを保証する、といったものです。

つまり、家臣が屋敷を移動させたり、引っ越したり、そういった様々な土地や住むところに関する事を保証する、といったものです。

こうして民ばかりではなく家臣の心もがっつり掴みました。本当にまるで、父の信玄のようですね。

様々な政策で民と家臣の心を掴んだ盛信は、仁科家の当主として仁科の面々にも認められていったのでした。

もちろん、本来の働きを忘れているわけではありません。盛信が仁科家の当主になったのは、あくまで武田家との繋がりを深めるためです。

盛信は父・信玄にもよく仕え、信玄亡き後は腹違いの兄、勝頼にも大変よく仕えました。

想像するに、とても若い武将ではありますが、とても『できた』武将だったように思います。その盛信には、先代の仁科家当主、盛政の娘を娶っている記録があります。

娘からすれば父の仇のような武田家ではありますが、盛政の仁科家に対する働きを見て、心は穏やかになっていったのではないでしょうか。

それほどの魅力のある盛信だったのではないかと推測します。

織田信忠との戦い

父の信玄亡き後、腹違いの兄である勝頼にもよく仕えた盛信は、1581年、織田・徳川連合軍が再結成されたのを機に、居城である森城の他、

軍の重要拠点である高遠城の城主も任されます。この高遠城という城は、信玄の時代ですと攻めの城として重要視されていました。

ここを拠点に周りを攻めていたんですね。しかし、勝頼の時代になると、今度は守りの城と変化していました。ここで踏ん張って自国を守る。

その重要な拠点だったわけです。それはつまり、とても激戦区だということです。

ですが、盛信は大変よくこの城を守りました。信濃佐久郡内山城代の小山田昌成・大学助兄弟という強力な助っ人も得て、1582年、この城を攻めてきた織田信忠に対峙するのです。

戦いの前に、盛信は信忠と書状を交わしています。信忠が盛信に降伏するように使いを出したのです。

その手紙の内容を現代風にざっくり説明すると、

「あなたの兄の勝頼は、不義な人間なので織田家が退治する。すでに木曾も小笠原も降伏した。上飯田、大島までも自楽したというのに、なぜにそこまで高遠城を守るのか。

しかも、あなたの主君勝頼は昨日、諏訪から逃げている。ここまできて何を迷うことがあるのか。

我々はあなたが降伏し織田家に忠節を誓うのであれば、所領はあなたのいいようにするし、黄金も100枚、差し上げますよ」

といった内容でした。これを読んだ勝頼は、即座に返事をしたためたのだそうです。つまり、迷いなく、という事です。

その内容も現代風にざっくり説明します。

「父・信玄の時代より、織田信長に対してはとても深い遺恨を重ねてここまできている。兄・勝頼は諏訪を逃げたのではなく、ようやく残雪も無くなってきたから、

尾張や美濃を攻めるべく動き、父からの遺恨を晴らそうとしている。我々もそれに同行するつもりだった。しかし、それよりも先にあなた方がやってきてしまったから、

我々は仕方なくこの城で篭城しているに過ぎない。これからも私は勝頼殿への武恩に報いるために、命尽きるまで働く。臆病なあなた方と同じだと思わないでもらいたい。

さあ、すぐにでも馬で攻めてくるがいい。父・信玄の頃から鍛錬されてきた武勇、そして誉れ高き手柄を見せてくれよう」

この頃、勝頼はおそらく信忠の言う通り、諏訪から逃げている状態だったと思われます。

しかし、盛信は最後まで武田家のプライドを持って兄の動向も逃げではなく戦いに行く姿勢だったと思う事にしたのでしょう。

それを思い、守るべく、盛信は高遠城で壮絶な戦いを繰り広げます。

まずは信忠の使者としてやってきた僧侶の耳と鼻をそいで、先ほどの手紙と一緒に送り返します。これが戦いのゴングでした。

織田家の「信長公記」によると、織田軍が城の中に突入すると、諏訪勝右衛門の妻が刀を抜いて振り回し、女性とは思えない動きで敵を倒していたとあります。

また、名はわかりませんが美少年が一人、弓を持って台所の角で奮戦し、数々の織田軍の兵を討ちました。

しかし、やがて矢が尽きてしまいます。すると今度は刀を抜いて奮戦しましたが、敗れてしまいました。とあります。

女も子供もない。城の中にいたすべてが盛信に従い戦っていたということです。

とにかくひどい戦いだったようで、まさに激戦といってもおかしくない戦いでした。仁科家ならず、織田家にも相当の被害が出たのだそうです。

仁科盛信の最期

最期の力を振り絞り、仁科家は織田家に対抗しました。しかし、織田家の猛攻にはかなわず、仁科家は500人余りが亡くなります。

また織田家も仁科家の奮闘に300人あまりが亡くなりました。総勢で800人あまり。いかに壮絶だったかが伺えます。

当主である盛信は奮闘しました。しかし、最後は自害してしまいます。享年26でした。

その死に方もまた壮絶でした。通常の切腹というものは、横に一文字に切り裂いて、という形です。しかし、盛信は真横だけではなく縦にも刀を入れたのです。

そう、つまり十文字です。しかもその後、嘘か本当か、内臓を自ら引っ張り出して亡くなったと言われています。

お腹を切った後にそんな事ができるなんて、尋常ではありません。今の世で言うと、麻酔なしで腹を斬り、内臓を取り出すといった行為なのです。

ありえません。しかし、ここに盛信の気迫が感じられます。

戦では負けた。しかし、武田武士としての誇りは失わない。お前たちにこんな真似ができるか、と言いたかったのではないでしょうか。

自害をした後、盛信の首は検分されて、兄の勝頼らと共に晒し首になってしまいます。獄門ですね。

ただ、先ほどもお話しましたように、盛信はとても民に愛されていました。

勝間村から織田軍がいなくなると、勝間村の民たちは懸命に盛信の体を探しました。

戦国時代、重要なのは首であり、体は必要なかったのでその辺りに捨てられていた可能性があります。

民たちはをそれを懸命に探し出した後、荼毘にふしました。これまでの盛信の政策に助けられてきた民も多くいた事でしょう。みんな、盛信が大好きだったのです。

火葬した後、彼らは盛信の遺体、もしくは骨を村の西側にあった山に埋めました。以来、この山は盛信の幼名から「五郎山」と呼ばれるようになったらしいです。

武田家の最期の輝き

幼少の頃、盛信は仁科家の跡取りとなりました。つまり、彼は武田という姓を名乗らず生涯を全うした事になります。

ですが、彼の生き様、そして心意気は、武田家の誰よりも貴く、そして武田家の誰よりも、武田家の武将だったのではないかと思います。

そんな彼の魂は、なんと江戸後期になって高遠藩主・内藤氏により、城内の法堂院曲輪で祀られ、新城神となりました。

彼の死後、250年経っても、盛信は高遠の人々に愛されていたのですね。彼の墓所には今でも、彼を慕う人々からの献花が続いているという事です。