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前田利家の妻、まつ(芳春院)とは?生涯エピソードや逸話

「利家とまつ」という大河ドラマがありました。2002年に放映されています。

高視聴率を記録したこのドラマは、加賀百万石を成し遂げた、前田利家とその妻、まつの物語です。

このように、前田利家の妻、まつは歴史上、有名な女性と言っても過言ではありません。そんなまつの逸話どを紹介していきたいと思います。

わずか12歳で結婚

まつ(芳春院)は1547年篠原一計の子として生まれました。しかし、まつが生まれてすぐに父が死んでしまい、まつは母によって母の妹が嫁いでいた前田家に預けられてしまいます。

わずか四歳でした。そのあと、母は尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉氏と再婚してしまいます。まつはそのまま、前田家で育てられる事になりました。

この前田家というのが、将来夫となる前田利家の実家で、利家とは八つ違いますが、共に暮らしていた兄のような存在だったのです。

幼いまつにとって、他の兄弟たちとはちょっと違う、少々風変りな(俗にいう傾奇者)な利家は不思議な存在で、だからこそ目が離せなかったのかもしれませんね。

きっと、まつの初恋は利家だったのではないかと思うのです。大河ドラマでも、どちらかといえばまつが積極的にアピールしていましたしね。

しかし、驚くことなかれ。まつはそんな願いが叶ってか、なんと12歳で利家のもとに嫁ぎます。この12歳というのはかぞえです。ですので、満11歳で結婚した事になります。

さらに驚くことに、まつはその翌年に長女・幸姫を出産しました。今でいうなら、まだランドセルを背負っているような女の子が出産したということです。

戦国時代って、怖いですね! また、10代前半で結婚する女性は、当時当たり前のようにいました。まつもそうですし、利家とまつの親友でもあった秀吉とねねも似たような者です。

ねねは14、もしくは13歳で秀吉の正室となっています。ほかにも、徳川家康の側室などにもちらほら見受けられますし、これも驚く事なかれ。

前田利家の側室には、10代前半で出産した女性が多くいたりするのです。もしかして……利家はロリコンだったのでしょうか……。

しかし、低年齢での出産は危険も伴います。今ほど医療も整っていない時代です。出産と同時に母子共に亡くなってしまうケースも多々ありました。

それでも早期結婚が多くあり、早期出産が多くあったのは何故なのか。それは今よりもぐっと平均寿命が短かったせいもあります。

人生の長さが違いますから、若いうちに結婚して子供を成すのは自然の摂理だったのかもしれませんね。

まつ(芳春院)の持つ『力』

さて。まつが利家と結婚してすぐに、前田家では大事件が勃発します。それは、夫である利家が主君・信長お気に入りの茶坊主を切り殺してしまったのです。

原因はこの茶坊主にあります。一説には、まつが利家に送った笄(こうがい)を盗んだりしていたのだとか。

ほかにも他の家臣に対しても無礼な態度を取り続けていたこの茶坊主を、利家はあろうことか信長の目の前で切り殺してしまうのです。

これには信長も大激怒。そのまま利家は死に至っても仕方がないところでしたが、ここは柴田勝家などの尽力により命だけは助けられました。

しかし、織田家から追放され、るろうの身になってしまうのです。それは食い扶持がなくなるという事。新婚だったまつにしてみれば、とんでもない話です。

すでに長女も出産しており、なんともしがたいので離縁してもよかったのですが、まつは利家を信じて、利家についていきました。

その後、利家は織田家に許しを得る事ができ、再び信長に仕えます。そこまでの苦労を考えると、本当に大変だったと思います。

なんせ、この頃まつはまだ10代半ば。しかし、苦労は若いうちに買ってでもしておけと言うように、こんなことがあったからこそ、

まつは気丈で豪胆な女性へと成長していったのかもしれません。

そう、まつという女性は、とにかく強かったのです。それは力持ちというわけではありません。

否、武芸にも秀でていたので、そういった力もあったのかもれしませんが、まつの持つ力というのは、男勝りの気丈と言えます。

前田利家といえば、信長の近くに仕える身でもありましたし、秀吉の時代では秀吉の側近中の側近でした。

秀吉の死後も、利家が存命中は徳川家康も手を出せなかったほどです。そんな武将を、まつは気丈に叱ったりもしていました。

もちろん、夫をたてる事も忘れません。しかし、きっと前田家はまつがいなければ、百万石にはならなかったと考えています。

まつの強さあってこその、加賀百万石なのです。

まつ(芳春院)の末森城の戦に関する逸話

実は、まつの記録としては、末森の戦いまでの記録があまりありません。利家と結婚してから末森まで、ゆうに30年近くありますが、何をどうしていたのか詳しい記録がないのです。

これは戦国時代の女性ですから仕方がないのかもれしません。あくまで、戦国時代の主役は武将たちですからね。

さて、末森の戦いにおいて、まつの力がいかんなく発揮される事件が起きました。末森の戦いとはなんなのか。

これは本能寺の変の後、秀吉と徳川・織田連合軍との戦いの一つです。末森城に、秀吉と同じく親友であった佐々成政が攻めてきました。

しかし、利家は援軍をなかなか送らなかったのです。なぜなら、利家はこの頃、北陸方面の守備を委ねられていました。

それも理由ですが、もう一つの理由は……どうやら金銀を渋るあまり、兵力があまりなかった、というものがあるようです。

つまり、兵を雇うにもお金がかかる。それを渋ったので、末森に送る兵が足りなかったのでしょう。それを見かねたまつが、利家に言いました。

「常日頃からそうやって金銀を大切になさるあなた様。しかし、私は前から兵を育成する事に重きをおくべきだと忠言いたしておりました。

それを怠ったがゆえの、このざま。いっそ、金銀に槍を持たせて出兵させたらいかがですか」と。なかなかに痛烈な嫌味ですね。

また、利家とまつが頻繁に出てくる漫画『花の慶次』の中での一説では、なかなか動こうとしない利家にしびれを切らしたまつが、白装束に長刀を持ち馬に飛び乗りました。

それにならい、城の中の女たちも同じかっこうで長刀を手にしました。そして、まつは利家にこう言ったのです。

「主人が動かないと言うのでしたら、我々女が動かねばなりません。あなた様は大人しく、城でも守っていてください」と。

これにはさすがの利家も慌てふためいてまつを引き留め、出陣したという話です。

どちらの話も後世で作られた話という見解がありますが、こんな話が出てくるぐらいまつは凛として強い女性だったという事です。

利家との間に11人の子

さて。利家とまつは、本当に仲が良くておしどり夫婦でした。その仲の良さは、二人の間に出来た子供の数でも見て取れます。

まつは利家との間に、二男九女を設けます。すごいですね。長女と末っ子の間は21歳も離れています。

この数は伊達晴宗の正室、久保姫と並んでの数だそうです。やはり夫婦仲がよろしくないとこうはいきませんね。

それぞれの子の行く末ですが、末っ子の千世姫からの血脈が、現代の天皇家にも続いているようです。すごい事ですね。

また長男の利長から初代の加賀藩主となり、前田家は江戸時代も続いていきました。

さて、この利長の養子であり、異母弟でもある利常という人物がいます。こちらは二代目の加賀藩主になりますが、この男も「傾奇者」だったそうで。

前田利家といい、前田利家の兄、利久の義息・前田慶次といい、利常といい。どうも前田家というのは「傾奇者」の多い家柄だったように思えます。

それぐらい度胸があり、強い男が多かったという事でしょう。

ちなみに、先ほどもちらりと出てきましたが、漫画などで有名な「花の慶次」の主人公、前田慶次郎は利家の義理の甥になります。

利家の兄、利久が娶った妻の連れ子でした。慶次は前田家を出奔し、最後は上杉家に仕えています。

名だたる武将の妻と、親密な関係だった

まつのすごいところは、そのコミュニケーション能力もあると思います。まつは幼い頃からの知り合いだったねねと大の仲良しでした。

ねねは将来天下人となる豊臣秀吉の正室です。北政所ですね。また、秀吉の母とも大変仲良くしていたそうです。

ほかにも、佐々成政の妻や、名だたる武将の妻とのやりとりがありましたが、やはり一番仲が良かったのはねねのようですね。

この二組の夫婦は、まだ若いころ、隣同士に住んでいたほどです。また、まつが利家の事が好きな気持ちを知っていたねねが、二人の仲を取り持ったという話もあります。

本当かどうかはわかりませんが、なんともほほえましいエピソードですね。

さらに、お互いに所帯を持つようになってからも交流が続きます。ご存知の通り、秀吉には子がずっといませんでした。

淀殿が懐妊するまで、正室のねねにも子はできませんでした。そんな秀吉夫婦に、利家とまつは自分の娘である豪姫を養子に出します。生まれてすぐの事です。

十月十日も腹に宿していた子をやっと出産したばかり。すぐに引き離されてしまったわけですが、まつはかまわないと思ったのでしょう。

きっと秀吉夫妻なら、豪姫をかわいがってくれると確信があったからかもしれません。その思いの通り、秀吉夫婦は豪を目に入れてもいたくないほどの可愛がりでした。

秀吉にいたっては、もし豪姫が男なら、迷わず関白にするのに、と話していたぐらいです。

また、まつは秀吉の時代にも大活躍をしていました。それは秀吉が晩年に開いた醍醐の花見という盛大な宴の席で、秀吉の側室が盃の順番をめぐって争ってしまったのです。

その側室とは、京極竜子(松の丸殿)と淀の方。淀殿は秀吉の子を成したからと、竜子はそもそも淀殿の出身である浅井家は京極家の家臣だった家柄なのに、という……

なんともな理由で争っていたのてした。そんな火花ばちばちの争いの中、その間に割って入ったのがまつでした。

まつは悠々と二人の間に入り「歳の順からいえば、この私が一番最初ですね」と、一番最初に盃を受け取ったのでした。

これでなぜ二人が争いをやめたのかというと……なんとこの花見。秀吉は正室の北の政所、そして側室のみにしか女性は呼んでいなかったのです。

しかし、その中に臣下の妻であるまつがいました。これは北政所と特別仲がいいという理由もありましたし、秀吉も一目置いている女性であったからです。

とにかく臣下の中ではたった一人だけ、まつは身内外であり客人でもあったわけです。その客人をさしおいて身内で順番争いなどみっともないと反省したのでしょうね。

まつの機転の利いた行動で、その場がおさまったという逸話でした。

人質として過ごした徳川時代、そして……

1599年。長年連れ添った利家が病に倒れ、亡くなってしまいました。秀吉が没してすぐの事でした。世の中はまた乱れていきます。

利家の死後、息子の利長が前田家を継いだのですが、あろうことか家康から謀反の疑いをかけられてしまいます。

ようするに、家康にとって前田家は目の上のたん瘤だったわけですから、早々に取り壊してしまいたいと考えていたのでしょう。

その状況を組みしてか、前田家の家臣たちは意気揚々として家康と戦う構えになっていました。しかし、ここでまつが動きます。

自ら徳川の人質となるから、戦はしなくてもいい。もし、その後母の身を案ずることがあったとして、それが前田家に重大な重荷になるのであれば、

容赦なく自分を切り捨てる気持ちを忘れるな。と利長に告げました。まつは利家が亡くなったあとも、こうやって前田家を守り抜いたのです。

おかげで、前田家は江戸時代も栄え、その名を遺しました。その後14年も徳川の人質として過ごしたのち、まつは長男の利長の死後、ようやく金沢へ帰る事ができました。

そして、1617年、その生涯を閉じます。死因は定かではありませんが、享年71歳。静かに老衰で亡くなったのではないかと思われます。

最期まで前田家の柱として生きたまつ。戦国武将の妻の鑑のような女性でした。