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明智光慶とはどんな人物?謎に包まれた最期や子孫について

明智、という姓を聞くと、まず思い浮かぶのは明智光秀だと思います。すぐに光慶を思い浮かべる人は、まあほぼいないと思います。それほど存在が薄い光慶です。

それは歴史的な資料の上でもうかがえます。今回はそんな明智光慶について、わかる限りの範囲でお話していきたいと思います。

明智光秀を父に持つ光慶

光慶はあの本能寺の変を起こした光秀の息子と言われています。

正直なところ、光秀に息子がいたのは確かなのですが、その息子の名前が光慶だったのかどうかも、今ではまだ確定されていないようですね。

この光慶の幼名・十五郎という名もまた、一説には十兵衛だったりと、定かではありません。

ただ、光秀の子、である事には違いないと思うのですが……。あくまで、光慶という名で呼ばれていたのかどうかが、今のところ謎のようです。

光慶は一説には1569年に生まれたとされています。これも正確ではありません。母は妻木煕子。光秀の正室ですね。

光秀は煕子が昔自分の窮地を救ったってくれた事に感謝して、煕子存命中は側室を持たなかったという話が有名です。

しかし、一説には側室がいたという説もあります。なので、光秀の子とされている3男4女、もしくは6男7女が全員煕子の子であったという説は、定かではありません。

ですが、どうやら細川ガラシャ夫人となった珠は、光慶の実姉ではなかったのかと思います。

このように、とにかく圧倒的にこれだという資料があまりにも少ない光慶。

歴史上に不本意な形ではあるけれども、その名を遺した父の影に、隠れすぎてしまっているのかもしれませんね。

その父のおかげで、光慶は幼いまま壮絶な人生を歩む事になってしまうのです。

明智光慶は本当に居たのか

光秀の子は数多くいるという話があります。その中で確実に存在が確定されているのは、実は珠という女児と、光慶、そして数名のみです。

珠は後に細川家に嫁ぎ、細川ガラシャ夫人となりました。光慶はといいますと、『連歌目録』という資料から、津田宗久の茶会記で実在が確認されているとされています。

また、父・光秀の書状などからも、存在が確認されているそうです。

書状は珠が嫁いだ細川家にあてたもので、その中に、「近畿を平定したあとは、十五郎に家督を譲って隠居したい」とありました。この十五郎が光慶だとされています。

でも、圧倒的に資料が少ないですね。なので、光慶という人物がいる事は確かなのですが、やはりまだ不安定感が残ります。

というのも、とにかく光秀の家族には、様々な異説がありすぎて謎だらけなのです。例えば、光秀自身にもそんな異説が残ります。

本当は本能寺の変の後、秀吉から逃れて、江戸時代、徳川家康の傍で家康のために働いていた南光坊天海として生き延びたという説があったりします。

そんな風に、光慶にもまた様々な異説があるのです。

光慶だけではありません、光秀の子らにはこうした異説が多々ありすぎて、どれが本当なのか未だに解明されていない点が多く、今後の研究に頼むしかない状況なのです。

ただはっきり言えるのは、珠と光慶は確実に存在した、という事。ただ光慶という名で存在したかはあいまいですが、とにかく長男がいたのは間違いなさそうです。

明智光慶の最期、死因

光慶の最期にも、またまた異説が多々あります。その中で今のところ有力視されている話が二つあります。最初にお話ししておきますと、死亡時期はほぼ同じです。

本能寺の変の直後と考えていてください。光慶の生年が正しいものであれば、まだ15にもなっていなかったと推測されます。

最初の説は、本能寺の変の際、光慶は亀山城というところにいました。そこで父が主君、信長を討ったと知ります。この事に、光慶は大きなショックを受けました。

あまりにも不義理な事をしでかした父に悶死したとされています(病気になって死んだという事ですね)。幼心に、衝撃が強すぎたのでしょうね。

もう一つの説は、本能寺の変の際、光慶が坂本城にいたという説です。

こちらでは山崎の戦いで父が討たれた後、逃げ帰ってきた城主・明智秀満らと共に、攻めてきた中川清秀、高山右近らの攻撃に合いながら自害したという説です。

どちらの説が正しいのかまだわかっていないようですね。他にも、光慶には生存説も多々残っています。

妙心寺の住職となった僧の玄琳が、実は光慶だという説や、明智光秀の唯一と言われる肖像画が存在する本徳寺の僧、南国梵桂が光慶ではないのか、という説。

光秀の他の子にも同じような説が多々ありますので、本当に混乱してわからなくなっているのではないかと思いますね。

どの話も本当に聞こえますし、信ぴょう性がないので嘘のような気もしますし。謎が謎を呼ぶ感じです。

光慶の子孫は?

光慶が亡くなったのは、生年が正しいとすれば13歳前後となります。果たして、子孫は残せたのでしょうか。戦国時代、この歳で婚姻を結んでいる男子は少なくありません。

子を遺している男子も多々いる事でしょう。しかし、いろいろ調べてみましたが、光慶自身に子があったという説は耳に入りませんでした。

もしかしたら、生存説が正しいと子もいたかもしれません。本来の死亡説の通りだとすれば、やはり子を作る暇もなかったのではないでしょうか。

そもそも、まだ嫁も娶っていない状況だったように思いますので、やはり光慶からの子孫が残っている可能性は少ないと思います。

ただ父・光秀からの血を受け継ぐ子孫は今でもいらっしゃるようですね。嫡子であった光慶がいなくとも、明智の血はとりあえず守られていたようです。

例えば、細川ガラシャ夫人からの子孫とか。しかし、それらを考えますと、ますます光慶が不憫でなりません。亡くなった頃は、まだわずか10歳と少し。

死亡説の一つ目が正解であれば、幼心にも信長に対する畏怖なりなんなりを感じていて、それを討ってしまった父に驚愕しショックで病気になったのも納得できます。とても優しい子だったのでしょう。

また、死亡説の二つ目が正解だとすれば、この説、一説には、もう無理だと悟った明智秀満が、明智光秀の妻子を刺殺し、自分の妻も刺殺した後、自らも自害したという説があります。

10歳と少しの子にすれば、これももはや恐怖に彩られた結末だったとしか考えれません。

考えれば考えるだけ不憫でなりませんので、せめて生存説のどれかが正解であったらな、と思わずにいられません。

とても気品のある美少年だった

当時の戦国時代にやってきたフロイスという外国人がいます。彼は信長の事も、事細かに記していた人物です。そんな彼が、光慶の事をこう書いていたそうです。

「長子は十三歳で、欧州の王侯とも見える優美な人であった」この事、光慶はとても気品のある雰囲気を持っていた美少年だったと思われます。

今後、明智家を支えていくに十分たる素質も持っていたのでしょうに、あまりにも早すぎる死は残念でなりません。

もう少し光秀が信長からの仕打ちに耐えていれば、明智家はまた違う形で名を遺していったのかもしれませんね。