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妻木煕子とはどんな人物?生涯エピソードや最期について

妻木煕子という女性について、パッと思い浮かぶ逸話はなんでしょうか。

よほど歴史好きでなければなかなか思い浮かばないのではないでしょうか。彼女は有名な武将の妻でありながらも、さほど名が知られていない人なのであります。

ただ、その生涯は愛に満ち溢れ、戦国時代の女性としては、幸せだった生涯を送ったのではないでしょうか。

明智光秀の妻

妻木煕子は、「つまきひろき」と読みます。

ただ、戦国時代、このように女性に姓をつけて呼ぶことはほぼありませんでしたので、おそらく「ひろこ」と呼ばれていたのではないでしょうか。

煕子の生年は不詳です。嫁いだのは明智光秀。光秀の生年も不詳とされる事が多いので、この夫婦の正確な年齢はわからないままになっています。

ただ、煕子にいたっては、一説には1530年に生まれた説もあるようですね。父は妻木広忠。明智光秀の家臣になります。

これもまた定かではないよなので、あくまでかもしれない、という感じですね。そんな煕子が15歳ぐらいの頃、明智光秀との婚約が調います。

しかし、婚約直後、煕子は疱瘡を患い、顔に醜い痕が残ってしまいました。これには父もびっくり。かなり焦ったと思います。

ほかならぬ主君へ嫁がせる娘だったのですから。ですので急遽、煕子の妹、芳子を光秀のもとに送りました。

というのも、芳子は煕子とうり二つだったからです。しかし、光秀は芳子が煕子ではない事を見破りました。これはすごい事だと思います。

戦国時代、嫁とりというのはほとんど政略結婚が多かったと思います。

ですから、相手の女性に対しては、自分にとって有利かそうでないか、だけが重要であり、顔や姿などどうでもよかったと思いますから。

そう書くと言葉が悪いですが、要するに同じ妻木の娘なら問題ないと思う時代だったという事です。しかし、光秀は芳子を丁重に送り返します。

自分が婚約したのは煕子である。だから煕子と結婚する、と告げたのです。しかし、煕子には疱瘡の痕が。ですが、光秀はそんな事、まったく気にしなかったのでした。

もしかすると、光秀は煕子の人となりをきちんと見極めていたのかもしれません。それは今後の煕子の活躍に十分現れてきます。

もっとも、この逸話も後世の人間が作り出した話だという説があります。本当にそうなのかもれしません。

しかし、戦の最中、光秀は身重だった煕子を背負い逃げて逃したという話があります。

このように、この夫婦には他の夫婦とは違い、確かで深い絆があったと思わざるをえません。それはつまり、「愛」ですね。

光秀が煕子を溺愛したわけ

煕子が光秀に嫁いでから、光秀は主君である斎藤一族の争いに巻き込まれます。光秀は父親である斎藤道三に付きました。しかし、なんと戦いに勝利したのは息子の斎藤義龍。

これにより、光秀は斎藤家から離れることになり、流浪の人となってしまいます。それはつまり、食い扶持がなくなるという事。

そんな時、なんと光秀が参加していた茶会を主催する順番が回ってきてしまいました。これにはほとほと困った光秀。なんせお金がありません。

ということは満足な茶会など開けるはずもありません。このままだと、茶会のメンバーに恥じを晒すこととなってしまいます。

そこで立ち上がったのが煕子でした。煕子はその長く美しい髪を戸惑いなく切り、売り飛ばしたのです。この頃、髪は貴重な資源になりました。

髪の毛は強度が強く、一説には健康的な人の髪ですと、一人分で10トンもの荷物が吊り上げられるとか。それほど強度ですので、ロープなどに使われていたようです。

また、当時からかつらもあったようですのでそれに使用されたり、男性の付け髭にも利用されていました。

当時の男性は髭がないと格好がつかなかった事もあるようです。このように重宝されていた髪ですし、長く丈夫な女性な髪は高額で買われていたのではないかと推測されます。

そのおかげで、光秀は誰もが満足するような茶会を開く事ができました。

この行為は光秀のプライドを守っただけではありませんでした。この茶会には朝倉家の人間も来ていました。当時の朝倉といえば名門中の名門です。

その後、光秀は朝倉家に10年仕えたそうですので、この茶会がきっかけとなり召し抱えられた可能性も否定できません。

つまり煕子は夫のメンツを守っただけでなく、仕事先まで見つけた事になります。とても素晴らしい内助の功ですね。

この事に大感謝した光秀は、生涯煕子ただ一人を愛し抜くと誓い、側室を持たなかったという話があります。美談です。

もっとも、これも後世に他人が作った話ではないかという説も否定できません。

しかし、戦国という殺伐とした時代の中、こういった夫婦がいてもいいのではないかと思います。その方が、夢がありますよね。

光秀との間に授かった子供たち

煕子と最愛の夫であり、相思相愛の仲でもあった光秀との間に出来た子は、七人いたとされています(三男四女)。

一説には実は光秀には側室がいて、光秀の子は六男七女だったという話もあります。ですが、煕子は確かに多くの子を成したという事実は残ります。

煕子の子で一番有名なのは、細川忠興に輿入れした珠でしょう。後に細川ガラシャと名乗る女の子です。

彼女はとても美しく、美しすぎたあまり夫から愛されすぎて、悲運な生涯を遂げる事になります。

その美貌は疱瘡の痕はあったにしろ美しいと称された煕子から譲り受けたものかと思います。

もっと光秀も美男子だったと言われていますから、美しい両親から美しい娘が生まれて当然ですね。

もう一人、歴史上に名が残っているのは長男の光慶です。ただ光慶には異説が多すぎて、本当に光慶という名で呼ばれていたのか、それは謎とされています。

しかし、長男がいたことは確実だと思われます。彼は嫡ととして明智家の跡取りとなりました。

彼もまた、当時日本にやってきていた外国宣教師フロイスによれば、「長子は十三歳で、欧州の王侯とも見える優美な人であった」とされています。

姉に負けずと劣らずの美少年だったようですね。残念ながらこの光慶もまた、不運な運命に流されて、齢13前後で死すことになります。

ただ、煕子の血はガラシャより受け継がれ長く残っていたようですね。美しい血筋で生まれた子孫たちもまた、美しい顔立ちをしていたのかもしれません。

煕子の最期

最愛の夫に愛されて暮らした日々は、煕子にとってかけがえのないものだったかもしれません。

戦国時代に、煕子ほど満たされた生涯を送った女性も、きっと少ないと思います。

そんな時、石山本願寺などを攻めていた光秀が病で倒れます。かなり思い病だったようで、煕子は心配して付きっ切りで看病をしました。

しかし、光秀が完治するとほっとしたのかどうか、煕子は看病疲れから寝込んでしまい、そのまま亡くなってしまうのです。

この時の光秀の悲しみを考えると、胸が痛いですね。またしても妻は自分のために力を注いでくれて、今回はまさに命果てるまで助けてくれていたのですから。

この時、煕子は46歳だった可能性が高そうですね。36歳、42歳という説もあります。

もし、この頃に煕子が亡くなっていたのだとすれば、この後に起こる明智家の悲運を見ずに済んだのですから、良かったのかもしれません。

幸福のうちに命を落とす事になったのですから。ただ、煕子が亡くなった説はこれだけではありませんでした。ほかにも異説があるのです。

それは、本能寺の変のあと、坂本城で命を落としたという説です。

こちらは坂本城で城主だった明智秀満が最後、明智光秀の『妻子』を刺殺し、自らの妻も刺殺した後、自害したという記録があるからです。

これが正しいものでしたら、煕子はここで自らの子、光慶と共に亡くなった事になります。

この場合だと、夫の起こした謀反に心を痛めたか、もしくは、事前にそれを打ち明けられていて、覚悟を決めていたかになりますね。

できれば前述の最期が個人的に望ましいな、と思います。煕子という人物は、とにかく光秀を愛し、夫のためなら自分の大切なものを売り飛ばしてしまうほどの思い入れです。

心が広く優しいのだと思います。ですから、愛に満たされたまま、幸福のまま亡くなったいた方がいいなと思うのです。

もっとも、光秀が謀反を起こした頃も、きっと煕子は光秀に愛されていた事でしょう。それを思うと、どちらも煕子の中ではなっとくのいく最期だったのかもしれません。

煕子と光秀は今も……

煕子は亡くなった後、戒名は福月真祐大姉となりました。墓所は滋賀県大津市の明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺。

こちらには他の明智一族も眠っており、最愛の夫光秀もいます。今でも二人は仲睦まじく共にあるのです。

光秀は残念ながら歴史上では逆賊という汚名を背負うことになりましたが、煕子の逸話は後世にも語り継がれ、好まれました。

有名な江戸時代の俳諧人、松尾芭蕉もよく好んだとされ「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」という句を遺しています。