藤代御前という女性をご存知でしょうか。歴史マニアな方なら、「ああ!」と頷く事と思います。
しかし、教科書で学んだ歴史をちょっとかいつまんだだけでは、この女性の「凄さ」を知る事はできません。
はたして藤代御前とは何ものなのか。お話してまいりましょう。ただし、今回のお話は、眉唾物、と思える節も多々ございますので、歴史の暇つぶしにどうぞ。
絶世の美未亡人
藤代御前の出生は謎です。生まれた年も、亡くなった年も曖昧です。それでも、陸奥の国・津軽、つまり今でいう青森に存在した女性と言われています。
彼女の夫も誰だったのかわかりませんが、一つだけ言えるのは、津軽を統一した津軽為信という武将と深く関わりのある女性という事です。
たったそれだけですので、藤代御前の存在が本当にいたのかどうか、曖昧なのだと思います。
この藤代御前。住まいは為信の居城、弘前城からそれほど遠くない場所にありました。
その館が藤代館と呼ばれていたので、そこに住んでいる女主人であった彼女は藤代御前と呼ばれていたのです。
藤代御前の美貌は、近隣に鳴り響くほどでした。その噂を聞きつけたのが、津軽を統一したばかりとも、統一する寸前とも言われた為信だったのです。
実はこの為信には正室がいました。まあ、当たり前の事ですよね。この正室というのが、阿保良、もしくは戌姫と呼ばれていました。
彼女は為信の幼馴染で、共に学問を学んだ身でもありました。彼女は東北一の良妻と言われており、その逸話は数々ございます。
為信が留守の際には、城の中の士気をあげようと努力したり、飢饉が起こると町民の間で薬や食べ物を配ったりしていました。とにかくとても素晴らしい妻なのです。
どうやら子宝には恵まれなかったのですが、側室の子を自分の子のように育てた事でも有名です。
為信と戌姫の逸話は数多くあります。だからでしょうか、為信はわりかし良い武将として名を残しているようですね。
為信の出来心
津軽を統一したとして有名な為信。妻も素晴らしく、夫婦仲も仲睦まじいものでした。しかし、藤代御前の噂を聞いてから、彼の心の中に邪な思いが過るようになったのです。
どうにかして藤代御前を側室にできないものか。藤代御前の噂を聞けば聞くほど、その美しさが気になります。所詮、為信も男だったという事でしょう。
そこで、為信は藤代御前に使いを出します。単刀直入、「側室になっていただけませんか」と。しかし、なんときっぱり断られてしまうのです。
為信といえば、その辺りの土地では有名すぎるほど有名な武将だったはずです。しかも津軽を統一して平定したわけです。本当にすばらしい殿様です。
その殿様からの申し入れを、きっぱり、すっぱり断ったわけです。こうなってくると、為信も本気になっていきますね。
それから何度も何度も使いを出しました。どうしても藤代御前を側室にしたかったからです。しかし、藤代御前は「うん」と言いません。
それもそのはずです。藤代御前の亡くなった夫は、どうやら為信に殺されてしまったようなのです。夫の仇である為信の妻になど、なれるはずもありませんでした。
その事実を知っても、為信は求婚します。為信にとってそんな事は済んだ事。この戦国の世では、よくある事だと軽く受け流していたのです。
なんとしても藤代御前を我が物に!
先の見えないやりとりが繰り返されました。何度も求婚する為信ですが、藤代御前の気持ちは決まっています。絶対に妻になどならない。
その一点です。すると、なんと為信は実力行使に出たのです。なぜ為信はここまでするのか。その本気度を示す逸話が一つ残されていました。
一説によると、為信は藤代御前を我が物にするために、なんと糟糠の妻である戌姫を側室に落とし、藤代御前を正室として迎え入れようとしていたというのです。
その案は息子たちによってなんとか制されましたが、それほど本気で藤代御前の事を狙っていたというのです。
この話が本当かどうかはわかりませんが、いつの時代でも、その美しさに惑わされて破滅への道を歩く人間はいるものです。
極端な例だと、エジプト最期の女王、クレオパトラに惑わされたカエサルのように。
話がそれましたが、それほどの偉力ある美女だったという事でしょう、藤代御前が。
この時、戌姫はなんと思ったのでしょうか。戌姫の耳に入らないよう、息子たちが手を回した可能性もあります。
血の繋がりはなくとも、自分たちを育ててくれた母親ですからね。それにしても酷い話です。
「為信の妻にだけはなるものか!」
さて。為信と藤代御前の攻防は続きます。攻防というよりは、押し問答と言いますか、なんと言いますか。
さすがに業を煮やした為信は、いよいよ実力行使に出る事になりました。藤代御前の住まう藤代館を武力で包囲したのです。
自分の妻にならぬのなら、殺してしまうぞ、と脅したのかもしれません。しかし、それでも藤代御前はひるみませんでした。
妹と共に館に立てこもり、武装したという事です。なんと藤代御前は美しいだけの姫ではあらず、とても武勇にも優れていたという話です。
徹底的にあらがった後、館を守り切れないと察した藤代御前は数人の家来と共に討って出ました。そして最後の最期まで戦い戦死してしまったのです。
ここまで抵抗するって、すごい事だと思いませんか。それぐらい為信の思い通りになりたくない、という強い信念がそこにあったからです。
その強い信念、……言い換えると、怨念のようなものは、最後の最後にこう言葉を残したのです。
「為信! この恨み、忘れはしない! お前の津軽家を末代まで祟ってやろうぞ!」
と。それはもうきっと、恐ろしい形相だったのではないでしょうか。そこに美しさも加わって、凄まじい事になっていたと思われます。
こうして亡くなってしまった藤代御前の亡骸は、岩木川の川面という土地に葬られたそうです。
藤代御前は土地の民から愛されていたらしく、藤代御前が亡くなった事を悲しんだ民たちは村の名前を「藤代村」にしたという言い伝えが残っています。
藤代御前の呪い
藤代御前の死後、為信は変わらず弘前城に住んでいました。しかし、為信が岩木山を眺めると、否応なしに藤代御前が埋葬された川面という土地が目に入ります。
その辺りを見るたびに、為信の気持ちは滅入っていました。日が経てば経つほど、不安ばかりが募ってきていたのです。
本当に呪われてしまったのではないか。為信が生きている間はいいとしても、ここまで頑張って大きくした津軽家が、
末代まで呪うといった藤代御前の言葉通り、どんどん衰退していってしまうのではないか。そんな事ばかりを考えてしまっていたのです。
一度、そのように不安な気持ちに囚われてしまうと、なかなか抜け出せないものですね。為信は不安になりすぎて、気が休まる日がなかったに違いありません。
そんな為信も、1608年、亡くなってしまいます。原因は病だという事です。都にいる嫡男も同じ頃に病に倒れており、それを見舞いに行こうとしていた為信。
為信が到着する前に嫡男は死去してしまい、その後に京都に辿りついた為信も、後を追うように亡くなってしまったのでした。
自分よりも先に嫡男が亡くなってしまった事にも恐怖を感じたのだろう為信は、自分が亡くなる間際にこう言い残します。
「わしが亡くなったら、骨を藤代御前の骨の上に埋葬しろ」
と。そうする事によって、自分たちの子孫を呪う藤代御前を自ら抑えつけようという考えからでした。
こうして信為の骨が埋葬された場所に、信為が生前別の場所で建てていた革秀寺という寺を移動させ、今でも信為の霊屋があるという事です。
藤代御前の無念
しかし、この話が本当だとすると、藤代御前はなんと無念を残した事でしょう。まさか夫の仇と同じ場所に埋葬され、未来永劫共にある事になったのですから。
違う見方をしますと、信為の藤代御前への執念が同じ場所に埋葬する事とし、これでずっと一緒にいられるから、という感じにも取れますね。
どちらにしろ、藤代御前の無念はいまでも残っていそうで、少し怖いお話でした。