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小松姫(稲姫)とはどんな人物?逸話や、生涯、性格について

小松姫

戦国時代、男勝りというイメージが最も強い女性がいます。ご存知の方も多いと思いますが、その名を小松姫と言います。

ゲームなどでは「稲姫」という名前が定着していますので、こちらの方が有名かもしれませんね。果たして、小松姫は本当に男勝りだったのでしょうか。

彼女の様々な逸話と共に、生き様、生涯を見ていきましょう。

小松姫(稲姫)という女性

小松姫は1573年、武蔵国鴻巣宿に生まれました。現在でいう埼玉県鴻巣市の辺りになります。

父は、とても有名な戦国武将・本多忠勝。徳川家康の腹心中の腹心で、戦国最強といってもいいほどに強い武将でした。

忠勝の家系の男子は戦場で戦死する事が多く、部門の出という事になります。こういったところから男勝りの伝説が生まれたのかもしれませんね。

幼少の頃は先ほどもお話した「稲姫(いなひめ)」だとか、「於子亥(おねい)」とも呼ばれていたようです。

幼い頃からとても活発で、そして賢く、まさに才色兼備な女性だったと言われていました。

また、幼い頃から武芸にも秀でていて、そういう逸話が後世にいろいろと肉付けされ、様々な逸話が出来上がったとも言われています。

小松姫が男勝りだという決定的証拠というわけではないのですが、戦国時代の女性といえば、おそらく幼い頃からどこかへ嫁ぐ事を前提に様々なしつけをされると思うのです。

女性として奥で生きていくために、女性らしい仕草だとか、女性が好むような嗜みなどの教養だとか。

ですから、戦国時代の女性が残したものの多くは、手鏡であったり化粧箱であったり、美しい衣類であったり。髪飾りなどもありますね。

小松姫だとしてそういうものも持っていたのでしょうが、その中に……「史記」の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風がありました。

この屏風、美しい花や鳥などが描かれているわけではありませんでした。そこに描かれていたのは、戦の様子。慎ましい女性が持っているものではありません。

枕屏風ですので、おそらくは寝起きをしていた部屋に置かれていたことでしょう。

小松姫は幼い頃からこの屏風を見ては、戦場で駆け巡る自分を想像してわくわくしていたのかもしれませんね。

本当に弓が得意なの?

さて、某有名な戦国ゲームにおいて、小松姫は「稲姫」と呼ばれて、とても弓の扱いが上手い女性として活躍しています。

果たして、小松姫は本当に弓が得意だったのでしょうか。いろいろと調べてみましたが、それに関しての記述は見当たりませんでした。

ただ、「沼田御守城」の逸話があります。こちらは真田家の居城、沼田城に小松姫が一人でいた時の話です。

真田家がその後分裂して生きていく事となった「犬伏の別れ」の後、袂を分かった義父の真田昌幸が上田城に戻る際、沼田城に現れました。

なんでも、通りすがら孫の顔を見ていきたい、との申し出。しかし、小松姫は頭を働かせました。こんな夜更けにやってくるのはおかしい。

きっと何かあった。もしくは……もうすでに義父と義弟と自分の夫が違う道を歩み始めた事を知っていた可能性もありますね。

どちらにしろ、義父が敵方についたのだろうと察した小松姫は、昌幸を一歩たりとも城の中へは入れさせぬと、甲冑姿で現れたのだそうです。

この時、城内にいたすべての女性が甲冑に身を包み、長刀、もしくは「弓」槍を持って勢ぞろいしていたとか。

ここからは個人的な解釈ですが、当時の女性にとってよく使われていた武器は、長刀です。

よく長刀の訓練をしている様子などがテレビドラマや映画などで見られますね。ただ、持っていて軽いものとして弓も重宝されたのではないかと思います。

もちろんある程度の訓練や技術も必要だと思いますが、長刀や槍よりはとても軽いと思いますので、重宝したのではないでしょうか。

そういった面から小松姫は弓が得意、となっていったのかもしれませんね。あくまで憶測ですので真実はいかばかりなのか。知りたいところです。

さて、沼田城に昌幸を一歩たりとも入れないばかりか、こう言ったそうです。

「今、うちの旦那様(信之)は徳川様の元で頑張っているはず。大旦那様(昌幸)もしかり。それなのにこんな夜中に大旦那様が訪ねてくるはずがない。ともあれば、そなたは昌幸殿の名をかたる偽物であろう!」

と。その姿や言葉、態度を見た昌幸は、豪快に笑ったとか笑わなかったとか。

「さすがは名将・本多忠勝殿の娘御よ!」と絶賛した後、昌幸は自身の城である上田城に向かい籠城しました。

こんな風にとても機転が働きますし、なにより怖れ知らずの行動。こんなところからも、小松姫が男勝りだったという説が出てきたのでしょうね。

男勝りな小松姫の婿選び

小松姫は、徳川と真田を強く結ぶために政略結婚で信之に嫁ぎました。史実ではそうなっています。間違いないと思います。

そのためにわざわざ小松姫は徳川家康の養女となってから真田家へ嫁ぎました。

そのいきさつは様々な憶測があります。秀吉がそうしろと言ったから、とか、徳川ではなくて本多忠勝が真田家の強さを合戦を重ねるうちに知り、

その力を取り込んでおきたかったから、とか。今ではどれが真実なのかわかりませんが、信之との結婚は恋愛結婚ではなかったという事です。

しかし、夫婦仲はとても良かったようですね。小松姫が40代の若さで亡くなってしまった時、信之は「我が家から光が消えた」ととても嘆きました。

この時代に妻を光と称するなんて、本当に素敵な関係だったのだと思います。そんな仲の良い夫婦だからこそ、こんな逸話が生まれました。

小松姫が婿取りの年齢に差し掛かった時、本多忠勝は多くの若い武将を呼び寄せて、小松姫自身に婿選びをさせようとしました。

この時、男勝りだった小松姫は、武将たちの髷を握っては顔を上げさせ、顔を確認していったといいます。

この時、小松姫は結婚など望んでいなかったのではないでしょうか。ですからわざとそんな風にして男たちから嫌われようとしたのかもしれません。

もしくは……自分よりも強い、と思える武将でないと嫁ぎたくないと思っていたか。そんな小松姫が真田信之のところへとやってきました。

先ほどまでと同じように髷を掴もうとした小松姫ですが、その瞬間、パシンと音がして手を払われてしまいます。

驚いていると信之が自ら顔を上げ、そのまま小松姫を叱ったのです。どのように叱ったのでしょう。

「髷は武将の命のようなもの。そのように無礼に触れるものではない」と叱ったかもしれませんね。

とにかくここですごいのは、父である本多忠勝もいただろう場所で、選ばれている立場の信之がそういう行動を起こした事です。さすが真田家の長男ですね。

今は徳川の与力であっても、いつか天下を……と狙い続けていた昌幸の息子でもあります。忠勝がどう思おうと関係なかったのでしょう。

もしくは、すでに正室がいた信之です。その妻も大切にしていましたので、あえて嫌われるように仕向けたのかもしれません。

ですので信之は説教をしつつ、持っていた鉄扇で小松姫の頬を張ったという説も残っています。これはいよいよ大事件です。

しかし、なんと小松姫はこの気概こそ求めていたものだと、信之を夫に選んだのでした。こういった状況でも堂々としていた信之に惚れたのではないでしょうか。

これにはきっと、信之も驚いて目を丸くしたに違いありません。かくして、小松姫はこうして信之の妻になったのでした。

信之と二人の妻

小松姫がいざ信之に嫁いでみると、なんと信之にはすでに正室がいました。信之の従姉妹になる清音院殿です。

しかし、この小松姫との婚姻で、清音院は側室に格下げされてしまいました。

本来なら実家に送り返されるところ、側室になってまでも傍に置きたかったのか、はたまた、清音院が信之の傍にいたかったのか。

どちらにしろ、清音院も信之に惚れていたのは間違いないはずです。こんな状況の真田家に嫁いだ小松姫ですが、意外と清音院とはうまくいっていたようですよ。

「真田丸」などでも、そんな風に描かれていましたね。時には二人で仲良く話をしていたりもしていました。

二人の妻は、上手い具合に役割分担もしていたようです。表立っての妻と、奥を守る妻、とでもいいましょうか。

まず、真田家の正室として表に立たなければならない場面では、小松姫が頑張りました。例えば人質として京都などに向かう時など、小松姫が向かったのです。

その間、信之の城である沼田や上田城を守っていたのが清音院でした。そう考えると、とても強力なタッグを組んだ二人組だと言えますね。

どちらかに何かあっても、どちらかの妻が対処できるのですから。

それに、気持ちの上で割り切っているのなら(そこに嫉妬などという醜い感情がなかったのなら)、これほど良い関係はありません。

本来ならば一人ですべて背負わなければならない苦労も、二人で半分こ、といった感じになるでしょうし。

しかし、本当に嫉妬などがなかったのかは本人たちにしかわかりませんね。ただ、二人がとても信之を愛していて信頼していたのは間違いない事です。

ですから、「信之を支える」という志が一致した同士という見方をしていた可能性もあります。同士と思っていたなら、下手な嫉妬など皆無だったのかもしれませんね。

こうなってくると、信之という武将は果報者といっても過言ではない気がしますが、いかがでしょうか。

小松姫の最期

1620年、小松姫は48歳の若さで亡くなりました。どうやら病を患っていたようです。そのため、湯治のために草津温泉へと向かう道中で亡くなったようです。

この報せを知った信之は大変悲しみました。「我が家から光が消えた」と。

小松姫の性格を考えますと、いつも考えすぎるぐらい考えてしまう信之の背を、パンと叩きながら励ましたり慰めたりしていたのではないでしょうか。

「旦那様、前を向いていましょう。なんなら、小松が旦那様の髷を持って、顔を上げさせましょうか?」とか言ったりして。あくまで憶測ですが、男勝りの彼女でしたら、それぐらいの事を言っていそうです。

そうやっていつも励ましてくれていた小松姫がいなくなってしまったのですから、信之の落胆は大きなものだった事でしょう。

小松姫はその後、武蔵国鴻巣にある勝願寺と、上野国沼田にある正覚寺、信濃国上田にある芳泉寺の三か所に分骨されました。

武蔵国鴻巣は小松姫が亡くなった場所。沼田と上田は真田に関係深い場所です。

小松姫の菩提を弔うために信之が建てた大英寺には、小松姫縁の品物が多々奉納されています。

ネットからも宝の数々が見られますので、興味があればご覧ください。男勝りの由来となった枕屏風も残されていますよ。