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松姫(信松尼)とはどんな人物?生涯エピソード、性格は?

「松姫」と聞いて、ピンとくる人は、かなり歴史にマニアックな方ではないかと思います。

とはいえ、「松姫」と名の付く戦国の姫は多くいますから、どの松姫の事なのかでまた違ってくるとは思いますが。

ここでは松姫、別名を「信松尼」と名乗り生きてきた戦国の姫をご紹介したいと思います。

そもそも松姫(信松尼)とは?

松姫(ここでは「松姫」と書かせていただきます)は、1561年、甲斐の国(今の山梨県)にて、あの有名な戦国武将、武田信玄の六女(これも定かではありません)として生まれました。

武田信玄はかなりな子だくさんで、12、13人の子がいたとされています。

子供がたくさんいたせいか、それとも女性だからなのか、信玄の娘たちの名前は定かでないものが多いのですが、松姫と上杉景勝の正室となった菊姫だけは名前が判明している娘だったりします。

松姫と菊姫は同じお母さんのお腹から生まれてきたのですが、一説には松姫が妹で、菊姫が姉であったりとか、逆のパターンもあり、こちらも順序は定かではないようです。

有力なのは、松姫が末っ子の説ですね。

こういった理由から、六女なのか、それとも五女なのか、意見が分かれているのだと思います。ひょっとしたら七女という事もあるかもしれませんしね。

とにもかくにも、松姫は激動の戦国時代まっただ中に生まれ、しかも、その中心にいたといっても過言ではない武将・武田信玄の娘として生まれてしまいました。ここから松姫の数奇な人生が始まるのです。

松姫(信松尼)の性格って?

一言で松姫(信松尼)の性格を言い表すと「一途」、まさにこれでしょう。

この言葉から想像するのに、松姫はとてもまじめで律儀で、そして愛情深い人物だったのではないかと思います。

現に、彼女は武田家滅亡時、縁のある子らをまとめて引き受け逃亡し、その後はつつましく質素な暮らしをしながらも、その子らを育て上げました。

とても優しい人物だったのではないかと思います。では「一途」とはどこから来ているのか。

それは、彼女が一人の男性を思い続け、その男性のために生き、誰にも嫁がず、子も作らず生きてきたからです。その男性の名は「織田信忠」といいます。

あの武田信玄と並ぶほど有名な、誰もが知っている武将・織田信長の息子で跡取りでした。彼女はまだ七つの頃、この信忠と婚約します。当時信忠もまだ11、12歳の子供でした。

ですから、お互いに顔を知っていたわけではありません。

戦国時代ではよくあった、政略結婚の一つなのですから。もともと、武田と織田は松姫の兄である武田勝頼が正室に織田ゆかりの姫をもらい受けていました。

しかし、すぐに病死してしまい、そのかわりに組まれたのが松姫の縁談です。松姫は織田嫡男の正室となるべく姫として大切にされ、新しい館まで父親が用意しました。

それもあってから、松姫は「新館御料人」と呼ばれていました。そんな松姫ですが、顔もしらない許嫁の事を、この後もずっと思い続けていきます。

それはきっと、幼少の頃、頻繁に交わされた信忠との文のやりとりなども要因の一つでしょう。きっと松姫は、まだ見ぬ未来の夫に夢を馳せ、

嫁ぐ日を指折り数えて暮らしていたのだと思います。

松姫(信松尼)と織田信忠の悲恋

何十年も昔の話になりますが。「おんな風林火山」というテレビドラマがありました。

残念ながら途中で打ち切りという結果に終わってしまったドラマですが、とても面白かった事を覚えています。主人公は松姫。そして織田信忠。

この二人の悲恋物語でした。松姫には今をときめく大女優・鈴木保奈美さん。これがドラマ出演二本目で、初主演のドラマでした。

信忠には松村雄基さん。当時、なにかしらのテレビドラマには必ずいらっしゃった俳優さんで、飛ぶ鳥を落とす勢いの方でした。

この二人を主演とし、物語は二人が幼少の頃から始まります。信忠と婚約した松姫は、信忠を一途に思い続けます。

事実上、この二人が顔を合わせたことは一度もありませんでしたが、ドラマの中ではニアミスな感じですれ違っていたのを覚えています。

とてもせつなくもどかしい瞬間でした。二人の関係は、先ほども述べましたように、主に文だけでのやりとりで続いていきます。文通ですね。今でいうと、メル友でしょうか。

信忠はこまめに松姫へ贈り物もしていたと言います。ただ、これは信長が信忠に助言していたという説もありますから、本来からマメな男性だったかどうかはわかりません。

ですが、この後のエピソードを知ると、彼もまた松姫の事をずっと思っていたのではないかと思わざるを得ません。

二人の関係が引き裂かれたのは、1572年。松姫の父である武田信玄が西を目指して兵をあげた年でした。

武田が進む道に徳川がいました。世に言う三方ヶ原の戦いが始まります。そこへ信長が援軍を送ったのは、徳川でした。

この事で、武田家、織田家の関係は終わり、松姫と信忠の婚約も自然と解消されてしまったのです。

この時の松姫の落胆たるや、考えるだけで気が滅入ります。三年、四年、幼女から少女へと変わる多感な年ごろに、松姫は思い続けた人との縁を断ち切られたのですから。

武田家の滅亡

信忠との婚約が解消されてから、松姫はさらなる運命の過酷な試練に見舞われます。その翌年には父・武田信玄が突然の病死。

そこから武田家は滅亡への道をたどり始めます。信玄が亡くなってから九年後。1582年春。武田家は織田家と徳川家に攻め滅ぼされてしまいました。

異母兄である武田勝頼は自害。松姫は兄・盛信の元から脱出する際、盛信の娘や勝頼の娘と逃げました。

この時、松姫はまだ21歳。まだまだ若い娘が幼子を連れて逃げたのです。

どこへ向かったかというと、向かったのは今の東京八王子。そこへ身を隠していた信濃の国(今の長野県)から向かうには、峠を越えなければなりませんでした。

今の奥多摩湖三上にある「松姫峠」というのがそれにあたります。ここを松姫は三人の幼子を抱えて通ったのです。これほど過酷なことはないでしょう。

ちなみにこの三人の娘はそれぞれ、面倒を見てくれていた兄・盛信の娘、督姫。自刃した兄・勝頼の娘、貞姫。そして家臣、小山田信茂の娘、香貴姫です。

そうやって苦労して逃れた先は、八王子の金照庵というところでした。ここで幼い三人の子らと一緒に身を隠していた松姫は、なんとか生きながらえたのです。

しかし、武田家は滅亡。松姫はまた大切なものを失ってしまったのです。

松姫(信松尼)の生涯

命からがら逃れた松姫は、金照庵で身を隠していました。それから数か月後。夏の始めに一つの便りが届きます。

それは、もう何年も縁のなかった、そして、何年も何年も会いたいと心から願い続けていた相手、織田信忠からのものでした。

なんと信忠は、松姫を今度こそ娶りたいと言ってくれたのです。これほどうれしい事があるでしょうか。

ずっと一途に信忠だけを思い、松姫は21になるまで誰とも結婚しませんでした。もちろん多くの話はあったかと思います。しかし、すべてを断ってきたのです。

もう二度と会う事はないかもしれないけれど、それでも自分は信忠の妻になるはずだった女なのだから、と。その夢が、いよいよ叶うというのです。

松姫は急いで信忠に会いに行こうとしました。その時、信忠がいたのは京都。そして……運命の日がやってきます。六月二日……本能寺の変。

信忠はこの時、父である信長が宿泊して襲われた本能寺のすぐ近くにいました。

明智光秀の反乱をしると、信忠はすぐに父親の元へ駆けつけようとしましたが、時すでに遅く。信長は本能寺にて自害。

その報せを受けて、信忠は逆賊明智光秀を討つべく二条新御所へと向かいます。ここで光秀を討とうと考えたのです。

しかし、信忠は光秀の軍勢に取り囲まれてしまい、自刃したのでした。またしても、松姫はここで大切な、一番大切な人を失ってしまいます。

あと少しで、ほんの少しでようやく会えると思っていたのに、信忠は自刃し、父親同様、今になってもその首は見つかっていません。

松姫の悲しみはいかようなものだったでしょうか。途方もない悲しみの中、彼女は心源院に身を寄せて、そこで髪を剃り出家しました。

松姫から名を信松尼に変えたのもこの時です。この「信」の字を使ったのには二つの意味があります。

一つは父、信玄を思って。もう一つは、愛しい信忠を思って。この時、松姫はようやく22歳。

厳しい峠を越えて逃げていた時からたったの数か月の間に、松姫はとてつもない運命の渦に巻き込まれて多くのものを失ってしまったのです。

……信松尼となってからの松姫は、孤児などを助けたりしながら三人の娘を育て上げ、人のために尽くす人生を送りました。

そして56歳でこの世を去ったのでした。

三法師が子供だった説!?

松姫の生涯をこうしてみてみると、とても不幸ではなかったかと思います。一生独身で過ごした松姫には、自身の子がいません。

一説では、信忠の嫡男、三法師が松姫の子ではないのか、という説目もあるようですが、果たしてどうでしょうか。

ともかく、波乱万丈だった松姫。しかし、こう思う事もできます。たった一人の人だけを一途に愛せた人生。

それは、とても貴く、美しいものだったのではないでしょうか。松姫は晩年、八王子に信松院を作り、彼女のお墓もそこにあるということです。