織田信忠、という武将をご存知でしょうか。織田信長なら知っている、という人はたくさんいると思います。信忠はその信長の長男になります。
母親は側室の久庵慶珠とありますが、この方が生駒と呼ばれていた側室だったのかどうか、
これまではそれが正しいと言われていましたが、今は確かではないかもしれないという事です。
とにかく、正室であった濃姫の実子ではないことは確かなようです。しかしながら、その能力はとても素晴らしく、信長からも信頼されていました。
歴史をもう一歩踏み込んだところまで楽しむ方ならだれでも知っている織田信忠について、生涯やエピソードなどをお話していきたいと思います。
織田信忠という人物
信忠は1555年、もしくは1557年、かの有名な戦国武将・織田信長の長男として生まれました。幼名は「奇妙丸」。
なんでも生まれた時の顔が奇妙だったからと信長につけられた名前らしいです。信長は自分の子らの幼名にへんてこな名前をつける事でも有名です。
この名前はのちのちの弟たちにつけられた名前に比べると、まだ幾分マシかもしれません。
信忠は11歳の頃、武田信玄の六女・松姫と婚約します。この時、信忠はまだ11歳。松姫は7歳でした。
戦国時代当時、確かに結婚自体みんな早いものでしたが、それでも15歳を過ぎたころから……というのが定説の中、二人はまだまだ子供の頃に婚約した事となります。
これには深いわけがありました。二人が婚約する前、武田家の跡取りであった勝頼には織田信長の養女となった姪が嫁いでいました。しかし、すぐに亡くなってしまったのです。
これより、武田と織田の繋がりが弱くなった事を危惧して、あらたに結ばれたのがこの二人の婚約だったのです。
当時、武田家、とくに武田信玄といえば誰もが怖れる武将でした。信長だとて例外ではありません。
もし、武田信玄が病に倒れずいたら、きっと信長はこれほど有名な武将にならなかったかもしれませんね。
徳川家康にいたっても、武田信玄に追われた戦で「おもらし」をしながら逃げ帰ったという逸話があります。それほど怖い存在だったのです。
だからこそ、信忠も武田家とは良好な関係を保っていたかったのでしょう。
さて、婚約した若い二人は、文通で気持ちを高め合っていました。まだ会った事のない未来の妻に対して、信忠は何を思っていたことでしょう。
確かに、政治的な繋がりでもありますから、周りの大人からこまめに文を書くこと、と諭されていたかもしれませんが、それでも長く続けるのは難しい事。
このやりとりを垣間見ると、信忠がとても純真で優しい人物だった事が伺えます。
しかし、残念ながら、この淡い初恋にも似た二人の恋愛はお互いに顔を見合わせぬまま終止符を打つ事になります。
1572年、徳川家康と武田信玄の間で起こった三方が原の戦において、信長は徳川に味方してしまいます。これにより関係が破綻してしまったのでした。
しかし、信忠は成人になり正室を迎えていながらも、松姫の事を忘れずにして、すべてが落ち着きつつあったある日。
「待たせてしまいました」と松姫を自分の元へ呼び寄せようとしました。しかし、二人は会えぬまま終わってしまいます。
なぜならその日は「本能寺の変」が起こった日だったから。松姫は信松尼と名を変えて仏門に入りました。そしてずっと信忠を弔っていたそうです。
武将としての織田信忠
まるで戦国時代を代表するかのように有名な父・織田信長。その名前があまりにも大きいがため、織田信忠の名はあまり知られていないのが実情です。
ですが、その実力を侮ってはいけません。信長の跡取りとして、信長以上の力やカリスマ性はありませんでしたが、一武将としてはかなりの実力を持っていました。
その名が戦国時代に轟いたのは、長篠の戦の後からでした。長篠の戦で痛手を被った武田軍ですが、それでもまだまだ織田にとって侮れない存在です。
しかし、信忠はその武田相手に大奮闘を見せるのです。
1582年、甲州征伐。この戦いにおいて、信忠は総大将として出陣しました。徳川家康、北条氏政らも軍の中にいました。
この時、信忠は驚異的なスピードを持って武田軍を壊滅に追い込んでいきます。確かに周りの名だたる武将たちの知恵などもあったかもしれませんが、采配を揮ったのは信忠です。
周りの意見があっても信忠が判断しなければ戦は上手くいくはずがありません。
この戦において、信忠は自ら高遠城の堀際に押し寄せて、その柵を破ったあと塀の上に登ったりしています。
総大将自ら先頭に立って指揮をしたりしたのでした。これには配下の武将たちも意気が上がったのではないでしょうか。
そんな風に周りの士気を高め、信忠は信長が本陣に到着する前に武田家を滅亡させたのでした。
これには信長もびっくり。それと同時に、自分の息子を誇らしく思った事でしょう。
褒美として名刀を授けながら、「天下の儀も御与奪(よだつ)なさるべき旨(むね)」と、信忠に告げます。
これは、信長が手にする天下の全てを信忠に譲る、という意味なのです。信長が自分の後継者には信忠を、と周りに告げた事になりました。
これにて、信忠は名実共に織田家の跡取りとして次代の織田家の当主への道を進み始めるのです。
暗愚と言われていた信忠
先ほどまでお話したように、織田信忠という武将はとても優秀で有能でした。それなのに、なぜここまで歴史の表舞台に出ていないのか。
それは、実は信忠は暗愚だったという話があり、まるで暗黙の了解の如く、いつも信忠の存在はなかったものとされていたのです。
確かに戦国時代、信忠は大活躍をし、周りの武将もその実力を認めていました。しかし、それ以降の長い歴史の中で信忠の存在はかき消されていくのです。
それには理由がありました。少し話が織田から徳川へと流れます。
徳川家康の正室は築山殿と言いまして、実は家康の長男と共に信長の命によって家康が処刑したと伝えられています。
なぜそんな事になったかと言いますと、信長が家康に送った一通の手紙があります。
そこには、「徳川さんところの信康はとても優秀だが、うちのところの息子たちといったら……。羨ましいよ」みたいな内容が書かれていました。
こんな事を書いて送るほど信長は跡取りに不安があり、このままだと自分が亡くなったあと、家康に天下を取られてしまうと怖れ、
そうなる前に信康を殺してしまおうと画策したというのです。
ちなみに信康には信長の娘が嫁いでいましたが、どうやら不仲説があり、そのあたりもひっくるめて信康のせいにして母親共々殺してしまったということです。
これにより、信長の子はどうしようもない、という説が強く残ってしまい、信忠も暗愚とされてきたのでした。
しかし、近年ではこのいざこざの見方が少し違ってきているそうです。
もともと、家康と信康の仲があまりよくなく、信康が処刑されたのは徳川家の中でのいざこざのせいだという説が強くなってきているのです。
なぜ信長の命令のせいになったかと言いますと、徳川家の中でのもめごとのせいで家康が実子を殺してしまったという事実を、隠してしまいたかったからなんですね。
信長の死後、いくばくかして家康の時代になります。徳川時代の中で湾曲した事実が伝えられてしまったものと思います。
しかし、信忠が今の時代での自分の扱われようを知ったら、きっととてもがっかりしそうですね。
映画やドラマ、様々なもので「本能寺の変」は描かれてきました。しかし、たいていは信長が本能寺で頑張っているシーン、そして信長の最期のシーンばかりが描かれます。
信忠が同行していた事など、ほぼ触れられないのですから。
信忠の本能寺の変
1582年6月2日。本能寺の変。日本の歴史上、稀に見る裏切り劇が開幕しました。首謀は明智光秀。
信長に対する数々の不服が原因なのか、はたまた、天下を自ら治めたかったからなのか。光秀はまだ夜が明けきらぬ刻、本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃しました。
この時、信忠は信長に同行していましたが、本能寺ではなく妙覚寺に宿泊していました。
本能寺が明智光秀によって襲われていると知った信忠は、急ぎ信長を助けに向かおうと出兵します。
しかし、時すでに遅し。信忠のもとに信長自害の報せが届きました。この報せを聞くと、信忠は本能寺ではなく二条城へと向かいます。
そこには時の皇太子・誠仁親王がいました。信忠を彼を避難させると二条城に篭城し戦います。
自ら剣を持ち奮い、善戦しますが……圧倒的な数に押しやられてしまいます。この時のエピソードとして残っているのは、信忠の小姓に対しての言葉です。
信忠の小姓だった下方弥三郎は信忠を守るべく一生懸命戦いました。しかし、左足を怪我したうえに、脇腹を斬られ腸がはみ出てしまうほどの大けがを負ってしまいます。
その姿を見た信忠は
「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」
と言葉をかけました。
弥三郎はこの言葉にとても感激して、笑いながら敵陣に突進して最後まで戦い討ち死にしました。
それほどひどい戦いであり、その中でも信忠は家臣にも目を配っていたという話です。
信忠自身も、この戦いで命を落としてしまいます。二条城の奥にて自刃した信忠は、二条城の床をはいで自分の体を隠せと告げて。
こうして信長同様、信忠の首も明智軍に発見されないままになっているのでした。
この戦いにおいて、信忠は逃げようと思えば逃げられる状況にありました。なんせ、光秀は本能寺で信長の遺体探しに懸命になっていたのですから。
それなのに父を助けようと向かった信忠は勇敢以外の何物でもありません。なにより、弟や息子は逃がしてやっているところも、武将として立派な行為だと思えます。
もし、信忠が生きていたら・・・
本能寺の変にて、歴史上とても重大な出来事が起こっていました。織田信長の死? それも確かに大変な事です。これによって歴史は大きく変わってしまいました。
でもそれではありません。では何か。それは信忠の死です。
信忠は織田信長が唯一認めた織田家の後継者でした。その信忠が死。それはつまり、織田家の後継者がいなくなったという事なのです。これはとても大変な事です。
本能寺の変において、もし信忠が死ななければ、その後の天下はきっと織田家が治めたに違いありません。
信長ほどの実力はないにしても、一武将としてはかなり有能だった信忠です。本能寺の変のあと、信忠はきっとすぐに明智光秀を討ったでしょう。
そうすると、豊臣秀吉の台頭がなくなります。まあ、秀吉の事ですから、この後も様々な働きをしてそこそこいい地位にはついていると思いますが。
秀吉の台頭がなくなると、家康の台頭はどうでしょうか。これは難しいところです。これに関しては信忠の息子が優秀だったかどうかによると思います。
優秀であればきっと家康の時代も来なかった事でしょう。こうして、織田家が未来の日本の礎になっていったと思われます。
織田家が日本の礎となっていたら、今の世の中もまた全く違うものになっていたかもしれませんね。
個人的な解釈では、きっと鎖国が行われなかったと思いますので、早くから世界に溶け込む国になっていたと思います。あくまで、個人的な解釈ですけどね。
信忠を描いたドラマ
先にもお話しましたように、織田信忠という武将は常に信長のかげに隠れていて、映画やドラマなどでもほぼビジュアルとして出てくる事がありません。
しかし、しっかりと信忠を描いたドラマがありました。それは1986年に放送された「おんな風林火山」というドラマです。
信忠が主役というよりは、先にもお話した松姫が主人公のお話で、信忠と松姫の純愛を描いたものです。
ただ残念なことに、こちらの作品はDVD化されていないようです。個人的に、とてもDVD化を希望している戦国モノです。