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細川ガラシャとはどんな人物?苦難を耐え抜いた生涯や子孫について

細川ガラシャ

細川ガラシャは、戦国時代を生きたキリシタンの女性です。とても美しい容姿をしていたとか。

しかし、とても悲運な女性でもありました。そんな細川ガラシャの人生を紐解いてみましょう。

細川ガラシャとなるまで

細川ガラシャとは、キリシタンとなった時にもらった洗礼名です。本名は玉(珠)、もしくは玉子(珠子)と言います。

ガラシャをあまり知らない人は父親の名前を聞いて驚く事でしょう。ガラシャの父親は明智光秀。かの本能寺の変を起こした張本人です。

そんな父のもと、ガラシャは1563年に生まれました。

一般的に知られている細川ガラシャという女性は、とても物静かで聡明な、そしてとても美しい人物として描かれていると思います。

私も個人的にずっとそう思っていました。しかし、実はキリストの教えにたどり着くまで、ガラシャはとても男勝りの性格をしていたようなのです。

そしてなにより気性が激しい。気位も高かったようで、今の時代にいれば周りから総スカンを食らってしまいそうな女性だったのではないでしょうか。

ただ、その中には武士の子としての信念が伺えます。本能寺の変が起こるまで、明智光秀といえば織田家でも出世頭。

エリート中のエリートです。一城も与えられました。ガラシャはお姫様になったのです。

武士の子として何があっても動じない。そう思いながら育ったガラシャは、その言葉通りの性格になりました。

少々の逆境ではくじけないのです。それが強さになっていったのでしょうね。

そんなガラシャは1578年、細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。忠興とガラシャの夫婦仲はとても良かったようです。

二人の間には3男2女が生まれています。いくら戦国時代とはいえ、仲が良くなければここまでの子は生まれません。

ただ……後述しますが、忠興はとても嫉妬深く、ガラシャはこれには苦労をしていたようです。

さて、ガラシャがキリスト教に興味を持ったのは、この夫からの話からでした。

夫がよそから聞いたカトリック教についての話を聞くと、とても興味を持ったガラシャはある日、こっそり城を抜け出して教会へ向かいます。

そこで熱心にいろんな質問をして、カトリック教を妄信するようになりました。

いっそのこと、今この場で洗礼を受けたい、とまで言い出したのですが、教会側がどこのどなたかもわからないので……と拒否。

ガラシャの身なりなどを見る限り、とても高貴な身分の女性とみられ、勝手に洗礼を受けさせるわけにもいかないと思ったのではないでしょうか。

災いの種になってしまってもいけませんしね。そこで仕方なく城に戻ったガラシャでした。ちなみにこの時、教会は一人にガラシャの後をつけさせます。

そうして細川家の奥方と知ると、なるほど、と納得したわけです。城に戻ったガラシャは、独自でカトリック教の勉強をしました。

侍女などを先に洗礼させ、そして学んできた教えを城内で教えてもらったのです。そんな時、豊臣秀吉がバテレン追放令を出してしまったのです。

すると、近くの教会にいた宣教師たちもみんな九州に向かうというではないですか。

彼らがいなくなってしまう前に、ガラシャは先に洗礼を受けてマリアという名を授かっていた侍女を介し、城内でこっそりと洗礼を受けたのでした。

こうしてガラシャが誕生したのです。

ガラシャになる前、玉の気質

先ほどもちらりとお話させていただきましたが、細川ガラシャのイメージはとても繊細で聡明、かつ美しく透き通るような……まさに聖母といったイメージがあります。

しかし、ガラシャになる前、玉、もしくは珠と本名で名乗っていた頃のガラシャはどうだったのか。忠興との夫婦間に起きた数々のエピソードが、彼女の気の強さを表しています。

ある日、夫婦で共に取っていた食事中、ガラシャのお椀の中に髪の毛が一本入っていました。厨房の誰かのものだろうと察したガラシャは、そっと蓋を閉じて隠します。

なぜなら、この事が忠興に見つかってしまうと、短気な忠興はその料理人に罰を与えるだろうと思ったからです。

しかし、残念ながら忠興はガラシャの様子に気づいたしまったのです。忠興が問いただすと、なんとお椀にはガラシャのものではない髪の毛が。

ここで忠興が案の定激昂します。さて、なぜ激昂したのでしょうか。

1.自分の奥の料理に髪の毛を入れるとはなんたることか。

2.厨房のミスを隠そうとするなんて、どういう事だガラシャ。

3.さては、厨房の誰かと密通を交わしているのではないのか!? 

通常ならば1なのですが、個人的に思うに……3が濃厚なのではないかと思っています。正確には、2と3が入り混じったのが正解といいますか。

とにかくガラシャは美しい女性でしたので、忠興は常に気が気でなかったのです。

この時も、まさかっという気持ちと、大好きなガラシャが自分以外の人間をかばった事が許せなくて、八つ当たり的に料理人を罰したのです。

さて、ここでガラシャの気の強さが出ます。忠興は料理人の首をその場ではねてしまうと、その首をガラシャの膝に放り投げました。

しかし、ガラシャはぴくりとも眉を動かさず、まさに動じません。その首を退かそうともせず、ただただ座っています。

その様子に忠興の方がひるんでしまいました。忠興は部下に命じてガラシャの膝から首を取り除いたのだそうです。

他にも、ガラシャの美しさに見惚れていた庭師を発見すると、その場で切り捨てた忠興。あろうことか、その刀の血をガラシャの小袖でふき取ったのです。

これにもガラシャは動じません。しかも、何日も血のついた着物を着ていたのです。

まるで、忠興へのあてつけですね。それにも忠興の方が根負けしてしまい、着替えてくれと頼んだそうです。

このように、細川ガラシャ、もとい、細川玉という女性はとても強かったのです。

それだけではなく、とても今日が荒く、怒りっぽい女性でもあったようです。ようは似たもの夫婦だったのかもしれませんね。

常軌を逸した夫の嫉妬

先ほどからちらちらと出ています、ガラシャの夫・忠興の嫉妬深さ。これがもう、戦国時代に稀に見る、とても嫉妬深い男性だったのです。

誰でも好きな人ができれば、少々の嫉妬心は芽生えてきます。それは仕方のない事です。しかし、忠興のそれは常軌を逸していました。

先ほどまでに述べたような事は当たり前。とにかくガラシャが好きで好きでたまらず、他の男の目に晒したくないと、半分幽閉気味に城奥深くで住まわせていました。

でも、確かにそこには愛情のようなものがあったのだと個人的には思っています。子を五人も作るぐらいですからね。

しかし、夫婦に未曽有の危機が訪れました。「本能寺の変」です。なんと首謀者はガラシャの父親。これには忠興の父が激昂し、ガラシャと即離縁しろと言い出す始末。

これも戦国の世の習いと、忠興も一度はそうしなければと思うのですが、無理でした。あろうことか忠興はそのままガラシャを本格的に幽閉してしまうのです。

人里離れた山の中に屋敷を作り、そこでガラシャを住まわせたのでした。

ガラシャにしてみればそこからの数年はあまりにも寂しい数年であったのではないでしょうか。

しかし二年後、政権を握った豊臣秀吉の計らいもあり、ガラシャは細川屋敷に戻されます。そこで夫婦がまた一緒に暮らし始めるのです。

この頃、ガラシャは忠興からカトリック教の話を聞いたのでした。

その後、忠興が九州征伐に向かっている最中に、ガラシャは洗礼を受けてカトリック教に入信してしまいます。

九州から戻った忠興はこれを怒り、ガラシャに洗礼を遺棄するように命じましたが、ここでもガラシャの気の強さが出てきます。がんとしてそれを受け入れませんでした。

すると……あれだけ自分に執心だった忠興が、外に五人の側室を持つと言い出したのです。これにはさすがのガラシャもショックだった事でしょう。

この頃、ガラシャは宣教師などに「夫と離縁したい」と相談をしていたそうです。

しかし、カトリック教は離縁をしてはならないという教えがあり、これも修行の一つだと言い聞かせて、その思いを留まらせたそうです。

突然の夫の心変わり。個人的な見解ですが、忠興はただカトリック教に妄信するようになったガラシャが、自分よりもそちらに興味を持った事に嫉妬したのではないかと思うのです。

料理人をかばっただけでその首をはねるような男です。妻が自分以外のものに興味を持ったとなれば、その腹立たしさといったらなかったのかもしれません。

ですからあてつけのように側室を大勢持つ、と言い出したのではないでしょうか。

ほかの女性に気を向ければ、今度はガラシャが嫉妬をして自分を見つめなおしてくれると。

それを証拠づけるように、この後も忠興のガラシャへの執着は衰えないのです。

壮絶なる最期

時代は本能寺の変から流れ、天下分け目の関ヶ原へとうつります。忠興は徳川家康と共に上杉征伐に向かいます。関ケ原の前哨戦ですね。

そこへ旅立つ前に、これは細川家では……否、細川忠興のいつもの事なのですが、屋敷に残って守ってくれている家臣たちにこう告げます。

「もし、わしがいない間にガラシャへよからぬ危険が生じた場合、これまでの慣習に従いまずガラシャを殺し、そして全員切腹してガラシャと共に逝け」と。

これは毎回の事ですので、この時もいつものようにそう告げたのでした。

すると、忠興の留守を狙って攻めてきたのは石田三成でした。

思うに、豊臣秀吉がガラシャの美しさに興味津々で、どさくさに紛れて人質に取ろうとしていたのではないかと思います。

あくまで個人的な見解ですが。もちろん、戦上の流れ的にも重要な事だったのかもしれません。

ですがどうも、秀吉にいたっては美女に目がないものですから、疑ってしまいます。

ただ、三成が攻めてきてもガラシャは断固として要求を拒絶。健気にも夫の言いつけを守っていたのです。

しかし、翌日、三成は実力行使に出てきました。ガラシャのいる屋敷の周りを兵で取り囲み、力づくで連れていこうとしたのです。

すると、ガラシャはしばしの祈りをささげたあと、家中の女性を集めました。このま自分は夫の言いつけを守って死ぬので、

みんなは逃げて欲しいと伝えて逃したのです。忠興はその場にいた全員が切腹して……とありましたが、そんな事をガラシャがさせるわけがないのです。

そうした後、カトリックでは自害は許されないので、家老の小笠原秀清に介錯を頼んだのでした。

この件を、夫忠興に対しての忠節を尽くしたと取る人もいれば、頑なにカトリックの教えを貫いたととる人もいます。

どちらにしろ、ガラシャの生き様がまっすぐでゆるぎないものだったからこそできたものではないでしょうか。

ガラシャを介錯した後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬよう屋敷を爆破し自分も自害します。

後に、宣教師が焼け跡を訪れ、侍女だったマリアと共にガラシャの遺骨を集めて埋葬しました。

夫の忠興は、それはもう見てはいられないほど悲しんだのだそうです。自分があんな事を言ったから、ガラシャを死なせてしまったと思ったのです。

外に側室を作る、などと子供じみた宣言をしたはずなのに、失ってからより強くガラシャへの思いに打ちひしがれたのでしょう。

忠興はガラシャがカトリック教へ改信した事は許せなくあったわけですが、しかし、ガラシャの御霊が喜ぶならと、カトリック教会での葬式もあげ自らも参列しました。

やはりそこにはガラシャへの並々ならぬ愛情があったからこそではないでしょうか。

ガラシャの子孫たち

様々な困難にさらされた戦国時代の細川家ですが、ガラシャの死後、その子たちはどうなっていったのでしょうか。

まず長男の忠隆は、関ケ原の戦いまでは正式な細川家の後継ぎとして知られていました。

しかし、関ヶ原の戦いの直前、忠隆の妻、千世が逃げてしまうのです。千世はあの前田利家の娘でした。

その事を父から咎められ、千世とは離縁しろと言われましたが、忠隆はこれに反発。

追い出された千世と共に、忠隆も細川家を後にするのです。妻をとにかく愛してしまうところは、父親そっくりですね。

そのまま前田家を頼ろうとしましたが、これも無理。仕方なく、忠隆は千世と京都に向かい、祖父に力添えしてもらいながら平和な家庭を作りました。

ちなみに細川家後継ぎは廃嫡されています。千世はその後再婚した、という話がありますが、これはどうやら忠隆と死別してからの話になっているようですね。

この忠隆からの子孫には、政治評論家の細川隆一郎さんなどがいるようです。

次の次男、興秋。兄が勘当・廃嫡されたことにより、細川家の跡取りになるはずでしたが、なぜか後継ぎは三男・忠利に。

これにも理由がありまして、長く徳川などに人質として出ていた忠利であれば、徳川とのこれからの仲もうまく保たれるといったような理由でした。

そんな忠利の代わりに徳川へ人質に差し出された興秋。無論、腑に落ちない事だらけで不満になったのか、その道すがらとんずらして剃髪してしまいます。

そのまま京都へ逃げて、先ほどの長男忠隆同様祖父に面倒を見てもらう事になるのです。つまり、兄弟がよく顔を合わせていた可能性がありますね。

ただ、興秋は大坂の陣が始まると豊臣に味方をしました。それなりに活躍したのですが、豊臣の敗北。これにより、父・忠興より自害を命じられます。

家康は何もそこまで……と言ったそうなのですが、父は許しませんでした。細川家のプライドもあったのでしょう。

こうして興秋は30過ぎでこの世を去ったのでした。さて、問題の三男・忠利。彼が結果的に細川家の跡取りになりました。

これは二代目将軍秀忠と仲が良かったというのが一番大きな理由のようです。

しかし、忠利はずっと、兄二人を差し置いて跡取りになってしまった事を気に病んでいました。

この事は、兄に差し出した手紙などでの気遣いようなどからわかっているようです。

ほかにも、妻が徳川方の人間だったので、個性の強い父と徳川の間でも気苦労が絶えず、彼は彼なりに苦労をしたようです。

そのせいかどうか、父よりも先に亡くなってしまいました。忠利は忠利でとても苦労があったんですね。

他にも二女がいますが、ここでは割愛させていただきます。

政治家の細川護煕氏も細川家の子孫で有名ですが、ガラシャの直系ではありません。側室の子からの流れになります。

ガラシャの直系が細川家の当主であったのは七代目で終わっています(忠利の子孫)。

細川ガラシャは世界にも・・・

細川ガラシャの健気な生き方は、なんと海外でも評価されています。

1698年、ガラシャの死後100年ほどあとのこと、神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)にお祝いとして、ガラシャの生き様が戯曲化されました。

タイトルは

「強き女、そして彼女の、真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア。キリスト信仰のために幾多の苦難を耐え抜いた誉れ高き女性グラツィア」

とは、ガラシャのことです。すごいですね。

この様に、細川ガラシャの名は世界的にも有名になりました。不運に見舞われ続けたガラシャはこの事をどう思っているでしょうか。

彼女の辞世の句

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

意味としては、花は散るべき時をちゃんと理解している。

だからこそ美しい。私もそうありたい、といった意味です。彼女の生き様は今も、女性たちに強さを与えているのではないかと思わずにいられません。