加藤清正と言えば天下人である豊臣秀吉の子飼いの家臣、そして日本三名城の二つ名古屋城と熊本城の築城の名手として誰もが知る有名な戦国武将の一人です。
戦国大名として肥後熊本藩初代藩主で全国では「虎之助」や「清正公」との愛称で呼ばれ、敬愛され続けています。
幼少の頃から主君、豊臣家に一生を捧げ仕えた加藤清正の子孫や死因、清正が築いた熊本城に関してサラっとピンポイントでエピソードをご紹介します。
加藤清正と豊臣秀吉の絆
清正と秀吉は、切っても切れない血縁関係にあり、清正の母「伊都(いと)」と秀吉の母「仲(なか・大政所)」とは従妹同士で清正と秀吉は「はとこ」になります。
「ふたいとこ」や「またいとこ」という言い方もあるそうで、自分からみて祖父母の兄弟姉妹の孫にあたります。
清正が3歳の時に父「清忠」が亡くなり、母と津島に移住します。
清正が12歳の時、長浜城主である秀吉の小姓として仕えることになりました。
このとき、清正の幼少名は夜叉若(やしゃわか)でしたが秀吉が「虎之助」と名付け、15歳で元服した時に「清正」と名を受けました。
清正と秀吉の年齢差は25歳ほどの差がありこの頃、秀吉は37歳くらいで正室の「ねね」との間で子宝に恵まれなかったこともあり清正をわが子のように可愛がっていました。
なので、父と子の絆が自然と出来上がっていったようなものだったのか、いわゆる、生みの親より育ての親ってことでしょうか。
清正は、秀吉の子飼いとなった時から生涯、豊臣家に仕えると忠誠を誓っていました。
清正はインテリ系?
清正の容姿は、180cmほどの高身長で体格も良く清正のトレードマークにもなっている髭があり一見野蛮で山男のような印象です。
甲冑を身にまとった姿は、二歩三歩と後退りしてしまうほどの威圧感が漂っていたようです。
清正武勇伝の「虎退治」で、部下たちに手出し無用と言って虎と怠慢!虎を仕留めた有名なエピソードもあるほどの勇猛な大男でした。
一方、清正の性格はというと、ある意味インテリっぽい所も無きにしも非ずと言った感じですが、どちらかと言えばインテリは石田光成の方で、清正はエンジニア系の現場監督派でしょうか。
築城の名手でもあり、「武者返し」と名付けられた弓上の石垣は地震にも耐えられるほどで当時では最先端の造りでした。
他にも治水・利水に才能を発揮した「土木の神様」と呼ばれ現代でも人々の生活に役立っています。
戦の場でも、先陣を切って勝利を収め、賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳の七本槍」のメンバーのひとりです。
秀吉の側近で官僚の立場では有るものの、現場を取り仕切るリーダー格で豊臣家一筋の想いを貫く曲りのない男気のある人物と言えましょう。
一言で表すと「質実剛健」「頑固一徹」ですね。個人的には、ぶれない性格で男らしくカッコいい~!発想の転換に長けた「アイデアMAN」だと思います。
ん~現世に居てくれたら・・・なんて気もします。(失敬)
清正が築いた熊本城が難攻不落の城と呼ばれた理由は?
清正が築いた熊本城は、本丸を守るための防御システムが豊富でどれも完璧な造りで圧倒されます。
西南の役で、西郷隆盛が攻め落とすことができなかった難攻不落の城、そこに清正のどんなアイデアが施されていたのか熊本城の背景に迫ります。
清正が築いた熊本城には、敵の侵入者がそう簡単には入り込めない構造になっており、川を用いた堀や堅牢な石垣と本丸までの道のりは、まるで迷路のようになっています。
そんな熊本城の天守を守る要とされた大きな宇土櫓が城の西側に張り出して築かれています。
宇土櫓の石垣の高さは、およそ20メートル(6階建てのビルに相当)で、「武者返し」と呼ばれ地面から3分の1ほどは緩やかな角度でその先はなんと70度もある石垣になっています。
鎧をまとい70度の石垣を約14メートル登るなど容易ではなかったはずです。先頭者が足を踏み外せば、人間雪崩が起きてしまいますね!
そして櫓の内部には、敵の侵入者に対して石や熱油を落とすための「石落とし」や狭間(さま)と呼ばれる鉄砲を打つ穴などがあります。
まさに、難攻不落の名にふさわしい防御策アイデア満載の城です。
清正の隠された野望、本丸御殿に秘められた想いとは?
清正は、何故このお城を築く必要があったのでしょうか?清正の隠れた野望を解くカギ、実は、本丸御殿に秘められています。
清正の住まいでもある本丸御殿には、様々な部屋がありその造りは全体的に格式高く、その中でも飛び切り極上の華やかな部屋が本丸御殿の一番奥にあります。
その極上部屋は、「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋で天井は、「折り上げ格天井」といい漆塗りで、美しい草花が描かれ畳も「鉤上段」の最高格式の造りです。
そしてなにより目を奪われるのは、壁に描かれた中国の絶世の美女・王昭君の絵図で、ここから「昭君之間」と呼ばれています。
「昭君之間」という名前は、実は「将軍之間(しょうぐんのま)」の隠語で、豊臣秀頼を迎え入れるために作ったと言われている格式の高い部屋です。
清正の想いは、主君の想いとし豊臣家をお守りするとの一心だったのでしょうか。しかし、秀頼が昭君之間を訪れることは、ただの1回もありませんでした。
個人的に、この説を聞いて胸が熱くなるのを感じながら思ったのですが、「昭君之間」は「招君之間」(君を招く部屋)ではなかったのでしょうか。
なぜなら、豊臣家の繁栄を願い主君を想うあまりか、秀頼に「ここに君を招く」そして清正がお守りするのだという熱い想いが深く伝わってくる感じでした。
清正の妻、子孫は?
清正の妻子に関しては、不明な点も多く定かではありません。ですが、最新の研究説では、清正には妻五人、三男二女が推定濃厚で定説とされています。
一人目、清正が大名になる前から連れ添った最初の妻で、正室:山崎氏(山崎片家女)で二人の間には嫡男・「虎熊」が誕生しており妻子は亡くなっています。
二人目、加藤家の存続に危機を覚えた清正が娶った側室、淨光院(竹之丸殿)で、姫君「あま」が誕生。
三人目、水野忠重の娘、徳川家康の養女(かな姫)のちの清淨院を正室として嫁ぎ1601年「八十(やそ)姫」が誕生。
四人目、側室の本覺院、肥後の軍港・物資流通の重要な港だった川尻町の藩主御茶屋に住んでいたことから「川尻殿」と呼ばれていました。
待望の跡取り息子である「忠正」が誕生しましたが、9歳の時に疱瘡の病で夭折してしまいます。
五人目、側室の正應院、肥後国南郷高畑城主・玉目丹波守の娘、嫡男を生むために召し抱えられ期待通りに嫡男・「忠広」が誕生。
清正の死後、跡を継いだのは五人目の側室「正應院」が産んだ清正の三男「忠広」でした。
しかし、1632年、大御所秀忠(徳川秀忠)の亡き跡、将軍家光の治世になり家光の嫌いな弟・忠長と忠広が懇意だったため、様々な故事つけで幕府より入府を差し止められたました。
若年であったためか忠広の家臣統制が不十分であることや、忠広の嫡男・光広による謀書事件などが改易の理由とされていますが、
ただ単に豊臣家の家臣だった加藤家が疎ましかったのでしょう。目の上のコブを容赦なく切り捨てたということなのか、忠広はここで改易を宣告されました。
忠広には二人の息子がいましたが、長男・光広は、謀書事件の罰として蟄居させられ改易後に病死しています。
次男・正良は、真田家に預けられていましたが、1653年亡き父・忠広の跡を追うように自刃しました。
正良には後継者はなく、清正の娘たちも子供には恵まれなったようです。改易後、忠広は山形に移りここで男の子と女の子を授かっています。
男の子に関しては不明ですが、女の子は婿を取り江戸時代まで続く有名な庄屋「加藤与治左衛門」で明治天皇を迎えるほどの名家だったそうですが、やがて没落。
この与治左衛門の娘・加藤セチさんが加藤家最後のお方で、息子さんがいましたが戦争で亡くなっており加藤清正の子孫はここで途絶えてしまいます。
清正の生涯(年表式)と謎に包まれたままの死因
清正公のコンパクト年表
1562年:7月25日、尾張国(愛知県名古屋市)で生まれる。父・加藤清忠、母・伊都
1573年:12歳、秀吉に仕える。
1582年:21歳、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)の一人となり手柄を挙げる。
1591年:30歳、隈本城と千葉城を1つにまとめる形で城郭を築きはじめ、翌年1600年に、天守閣が完成。
1607年:46歳、熊本城完成。「隈本城」から「熊本城」へと改称する。
1611年:50歳、徳川家康、豊臣秀頼と二条城で会見後、肥後の帰路に発熱し1ヵ月後に死去。〔享年50(満49歳没)〕
謎に包まれたままの死因
清正の死因についての真相は明らかではありません。
様々な死因説が飛び交っており、「文禄の役・慶長の役」で朝鮮に出陣したときに遊女と接した結果の説が濃厚で病名は「梅毒」とされた説。
清正の死の2ヶ月前、家康が清正をはじめ豊臣恩顧の者たちを招待しもてなした食事に毒をもったとされる毒殺説。
実は、この時同席していた浅野幸長や池田輝政など豊臣恩顧の大名たちが後次々と急死しています。
ただ、清正の場合はその時の食事ではなく、土産として饅頭を20個ほどもらい数日に分けて食したため死に至るまでに日数が掛かったとされている記述書があるそうです。
他にも、説があるようですが信憑性は薄いようです。
幾らなんでも、清正の次女・八十姫が家康の十男・頼宣と婚約しているのに殺すなんて・・・とも思いますが・・・
ん~家康なら遣り兼ねない人物だとも思えます。そう言えば、大河ドラマ「真田丸」でも毒殺説を演じてましたよね?
やっぱり、家康なんじゃない?って思っちゃいますよね!
最期に
武闘派の清正でしたが、本元の官位は財政や物流といった主計頭。
会計責任者を任されていたわけですから、本質は「インテリ派」で、戦国時代を生き延びるには武闘派も持ち合わせていなければならなかったのかもしれませんね。
世のため人のため、何よりも豊臣家のために一生を捧げた戦国武将「加藤清正公」は、現代社会に貢献し続ける偉業を成し遂げたお方として来世まで語り継がれていくことでしょう。