2016年大河ドラマ「真田丸」
一世を風靡したこのドラマは、真田幸村という人物を見事に描き上げていましたね。それだけではありません。
真田家というものが、どれほど楽しくて面白くて、そして切なくて悲しい一族だったのかということも、見事に表現していました。
その中で注目を浴びていたのは、幸村の父親・昌幸、そして兄の信之です。父親はひょうひょうとした演技に定評がある(個人的に)草刈正雄氏が演じられていました。
豊臣秀吉に「表裏比興の者(くわせもの)」と呼ばれた昌幸を演じるのにぴったりの人でした。そして兄の真面目だけども愛情深い人物を演じたのは、コメディ色の強い大泉洋氏でした。
え、ほんとうに?と思ったものでしたが、これが見事に信之を演じられていて、感心したものです。今回は真田家のお兄ちゃん、信之についてお話したいと思います。
真田信之の性格
真田信之は、幼少の頃の名を源三郎と言います。
ちなみに幸村は源二郎。なぜ弟の方が「二」で兄が「三」なのか、それは後々お話するとしまして。この源三郎、幼い頃から真面目で堅物だったようです。
弟の源二郎からは「兄上は何をやっても(将棋など)もセオリー通りでつまんない(現代風)」と言われる始末。それほど真面目だったという事です。
源三郎は1566年、この愉快な家族の一員として生まれました。その頃、真田家は昌幸の兄が継いでいましたが、長篠の戦で兄が死んでしまい、三男だった昌幸が真田家を継ぐ事になりました。
ですから、信之も本当なら重い真田家を背負うことなく、のびのびと生きていたのかもしれません。
しかし、時は戦国時代。なにがあったもおかしくない時代です。こんな時代を生きていくのには、武勇……もしくは、知能が大切です。
父の昌幸はとにかく頭の回る人で、この乱世において小さな真田家を守り通しました。
その背を見てそだった信之も、なんとしてでも真田の名は守っていかなければならないと思った事でしょう。
ときに、なんの煩わしさもなさそうな信繁(真田幸村)を見て、うらやましいと思った事もあったかもしれません。
ですが、そこはお兄ちゃんです。彼は幼い頃から、真面目な性格ゆえにいろいろなものを背負ってしまったのでしょうね。
それは彼が亡くなる日まで続くのですから、気の毒な話です。
信之の二人の妻
真田信之の最初の妻は、従姉妹であった清音院殿でした。信之の伯父、信綱の嫡女となります。
これにはいろいろな説がありますが、真田家の三男だった昌幸の子である信之が、正当な真田家の跡取りとなるための結婚だったと言われています。
大河ドラマでは、この清音院殿。とても病弱でいつも寝てばかり。
たまに茶碗にご飯を装うと、茶碗ごと落としてしまいそうになる、まさに箸より重たいものは持った事がございません、というか弱い女性でした。
しかし、彼女にも過酷な運命が待ち受けていました。それは、信之が徳川の家との結束を深めるために、徳川四大武将の一人、本田忠勝の娘、小松姫と結婚する事が決まったことです。
これは豊臣秀吉の命でもあったとされるのと、徳川家康が希望したものという説もあり、信之にしてみればどちらにしろ逆らえるものではありませんでした。
仕方なく、静音院殿とは離縁をし、小松姫を正室として迎え入れたのですが……
なんと、この清音院殿はそのまま側室として信之の傍にいました。
大河ドラマでは後々、この清音院殿と小松姫がそれぞれの役割を果たしながら信之を支えていく姿が見られましたが、実際はどうだったのでしょうか。
一説にはドラマのように、二人で協力しあいながら助けていったという話もあります。もう一説には、信之の領地である上田の事は清音院殿が。
対外的な……たとえば当時はどの家でもそうだったのですが、人質のような身の上で豊臣秀吉のいる大阪城近くの武家屋敷に住まわせたのが小松姫という話もあります。
まさにそれぞれの役目をはたしているといった感じでしょうか。
子供は、長男のみが清音院殿の子とされていますが、もしかしたらこの長男もまた小松姫の子ではないかという説が近年浮上しているようです。
徳川か、豊臣か
1600年。徳川家と豊臣家の勢力を決定づけた、関ケ原の戦いが起こります。その数日前。真田家は犬伏にいました。
これは、昌幸と信繁が徳川の命令によって合図征伐に向かう途中に立ち寄った場所です。そこで、二人は石田三成の挙兵を知ったのでした。
そこで、少し先にまで進んでいた信之を呼び戻し、世に言う「犬伏の別れ」に続く会議が開かれたのでした。
この時、信之は徳川家の有力家臣、本田忠勝の娘と結婚。信繁は豊臣家の重臣、大谷吉継の娘と結婚していました。つまり、兄弟の妻の出生が東西に分かれていたのです。
もっとも強い説で残っているのは、この因果関係が中心にあったものとされていますが、やはりここは「真田家の名を残す方法」として、三人がたどり着いた最後の生き残り方法だったと思いたいところです。
事実、この説もかなり有力説として残っています。大河ドラマでも、そのように描かれていましたね。
三人が頭を突き合わせて協議をした結果、兄の信之は東、徳川軍につき、弟・信繁と父・昌幸は西、豊臣軍につくことになりました。
これにより、仮にどちらかが倒れても、どちらかが生き残れば真田の名は続いていけると判断したのです。結果、西軍、石田三成は大敗。
勝利は東軍、徳川勢でした。ここで、敗軍にいた昌幸と信繁に徳川からは処刑の命が下されました。
それもそのはず。この二人は家康の息子である秀忠の行軍を見事に遅らせたのです。
上田城での戦いです。秀忠に従軍していた信之は、ここで弟との直接対決になってしまいました。しかし、信繁も大好きなお兄ちゃんと戦いたくはなかったのでしょう。
信繁のいた戸石城はすぐに信之に渡されました。信繁はそのまま父のいた上田城に向かったとされます。そしてそこで、様々な戦略を用い、秀忠を足止めしたのです。
結果、秀忠は関ケ原の戦いに間に合わず、家康からこっぴどく叱られたエピソードが残っています。これほどの事をしたのですから、確かに処刑も仕方ないことなのですが、ここで信之が家康に懇願しました。
せめて命だけでも助けてやってほしいと。犬伏の別れはこの時のためのものでもあったとされます。親子が生き延びるため、仮に西軍が勝ったとしたら昌幸、信繁が信之の命を助けるべく働いた事でしょう。
そうして、父と弟は九度山へ流され命は助かったのでした。
信之の徳川での評価
いわば、徳川の裏切者である昌幸と信繁を父と弟に持っていた信之ですが、意外と徳川での評判は高かったようです。
確かにやっかみや裏切者の兄としての悪口などは言われたでしょうが、その実力は家康も秀忠も認めていたようです。
それゆえに、本田忠勝の娘と結婚させたのもあるでしょう。そしてなにより、信之の性格です。とても実直でまっすぐ。
真面目ゆえの不器用なところまで、きっと家康は見抜いていのたでしょうね。この男は父親の昌幸とは違い、嘘などつけるはずがないと。
それだけの信用を得ていたので、後に信之は真田の領地であった上田を献上され、そこの主になりました。
つまり、事実上、真田家の跡を立派に継いだことになります。結果的に犬伏での決断は、成功したという事になります。
ただ、やはりそれでも徳川の中での肩身は狭かった事でしょう。
信繁が有名になった大阪夏の陣においては、家臣から信繁に内通するものも出たりしたようですが、信之は厳しくこれを罰しています。
徳川への恩義があったからでしょう。とにかく徳川に対してだけは忠誠を尽くす姿勢を崩す事がなかった信之です。
もともと「信幸」といい、父親の昌幸からの一時を受け継いでいた(そもそも「幸」という字が真田を表すようなものでした)のですが、これを徳川のために捨て「信之」と名乗った逸話も残っています。
もっともこちらは、のちの書物などのサインで「信幸」と使っていたこともあり、定かではありません。ですが、信之は最後まで徳川に対して勤勉で真面目でした。
それゆえに家康からも秀忠からも高く評価されたのでしょう。真田家は上田領の他、沼田などの領地を増やしてもらい、最終的には13万石の大名となりました。
信之の子孫たち
徳川の時代において、真田の名は生き続けました。そのころにはもう、父の昌幸も弟の信繁もいません。信之はたった一人で、真田の名を背負い守り続けたのです。
しかし、とても残念なことが起こります。信之はとても長命で、没したのが93歳でした。当時にしてみればかなりの長命です。
ここで思い出してほしいのは、信之の幼少名。そして信繁の幼少名。信之が「源三郎」で、信繁が「源二郎」でした。なぜ数字が逆なのか。
様々な説はありますが、これは真田家は長男が早世する家系だったので、そうならないようにと昌幸が幼少名に工夫を凝らしたものだと言われています。
長男の方こそ数を多くして死なないようにと思ったのでしょう。もう一説には、実は信繁の方が早く生まれていたのですが、信之が嫡男だったために生まれ年を入れ替えたという説もあります。
つまり、信繁は側室の子ということになります。
こちらも有力そうではありますが、できれば信之、信繁兄弟は同腹でいてほしいので、前者の説を信じたいと思います。
さて、信之が亡くなる93歳までの間、跡取りだった息子も孫も亡くなってしまいました。ですから仕方なく次男の家系が跡を継いでいたのですが、この次男もまた亡くなってしまいます。
そこで起こったのが家督争いでした。長男の家系と次男の家系が争ったわけです。これはそこそこ大きな争いとなり、幕府や親族まで巻き込んだものとなりました。
結果、跡を継いだのは次男の血統。しかし、まだ当主となる道幸が二歳だったため、信之が隠居から復帰して藩政を執り行いました。老後も穏やかに過ごせないってなんだかとても気の毒です。
これもまた信之の性格が真面目故、捨て置けぬと体をはったのでしょう。だた、その年の秋に、信之は没しました。
辞世の句は
「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり」
今風に言うならば
「これだけいろいろあった世の流れ、すべて夢であった事などはありえない」
といったところでしょうか。最後の最後まで気苦労を持って生きてきた信之は、最後の最後に人生を振り返り「本当にいろんな事があった人生だった。
父上と信繁がいたのも、きっと夢ではなかったはずだ」
と思ったのではないでしょうか。93歳で亡くなったのでしたら、彼ら二人が亡くなったのはずいぶん昔の事になりますから。それでも、二人の事は決して忘れる事がなかったことでしょう。
真田の名を残した真田信之
豊臣秀吉に「くわせもの」と呼ばれた父。戦国一の武将と呼ばれた弟。その間にあって、歴史上ではとても地味で目立たない存在であった信之ですが、実はとても大きな仕事を成し遂げています。
それは真田の名を残す事。残念ながら、徳川の最後までのうちに、養子などが入り信之の血は断絶していますが、真田の名を残りました。
大政奉還の後は子爵、そして伯爵となったようです。あの犬伏で三人が豊臣についていたら、真田の名は誰にも知られず今にいたったかもしれません。
信之の残した功績はとてもとても大きいのです。