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真田昌幸の生涯とは~残した名言、最後について~

上田城

真田一族と聞いてまず思い浮かぶのは、戦国最後のつわものと呼ばれた「真田幸村」ではないでしょうか。

今回お話をする真田昌幸とは、この幸村の父親に当たります。

豊臣秀吉に「表裏比興の者(くわせもの)」と呼ばれた昌幸は、いったいどんな生涯を送ってきたのでしょうか。

また、残した様々な名言や最後について紹介していきます。

真田昌幸という人

真田昌幸は、1547年、武田の名将、真田幸隆の三男として生まれます。

真田幸隆という男もまたとても賢い男で、昌幸はそんな父親の知能などを丸ごと吸収し、さらにパワーアップして誕生した武将と言えます。

昌幸には兄が二人いました。しかし、どちらも有名な長篠の戦で戦死してしまいます。

よって、兄が継いでいた真田家を昌幸が継ぐこととなりました。実はこの頃、昌幸は武藤家の養子となっていましたが、このままでは真田家が成り立たないとして戻ってきたという事です。

昌幸の実力は、武田信玄が見事に見抜いていました。

父親の幸隆に負けず劣らず、もしくは、幸隆以上の力を持っていると見抜いていた信玄は、昌幸の事を「信玄の両眼の如き者たち」と評しています。ちなみにもう一人は曽根昌世。

彼と昌幸、そして父と兄二人、そして昌幸は後に武田二十四将に入っており、同じ一族(真田家)から四人も含まれているのは、この真田家だけだそうです。

それほど、武田家の中での真田家は、重要な役割を果たしており、信頼も厚かったと感じます。また、昌幸は知能だけではなく武勇もあり、武田が北条と戦った際には、一番槍の武功を得ていたとされています。

文武両道、まさに昌幸の事だと思います。自分を見抜き、重宝してくれた信玄が亡くなったあと、昌幸は信玄の子、勝頼に尽くします。

しかし、武田家は歴史でみんなが知るように、滅亡への一途をたどる事になります。それでも、恩義のある武田家の滅亡を阻止すべく、昌幸は頑張りました。

なんとか勝頼を守ろうと、甲斐の国から上野国吾妻地方にある岩櫃城へ迎える準備をしていたのですが、勝頼は小山田信茂という部下を信じ、そちらの城へ向かってしまいます。

それが生死の分かれ目でした。小山田信茂の裏切りにあった勝頼は、退路も織田の軍勢に阻まれ、仕方なく天目山を目指し、途中で自害しました。

この事を知った昌幸は、小山田に対しての怒りと主君を失った悲しみに打ちひしがれていたそうです。

「くわせもの」と呼ばれた昌幸ですが、恩義ある人物に対してはとても忠実で情に厚かったようですね。

昌幸の息子たち

真田昌幸には二人の息子がいました。長男は幼少名を源三郎といった、後の真田信之です。

徳川の家臣として忠実に仕え、徳川四大武将の一人、本多忠勝の娘、小松姫(稲姫)と結婚しました。

家康からの評判もよく、最終的には江戸の尾張まで真田家は続き、明治時代になると伯爵にまで上り詰めました。

残念ながら、信之の血筋は途中で断絶していますが、真田という名前はずっと残すという偉業を達した人物です。

もう一人はあの有名な、戦国最後のつわもの。戦国一のつわものと評された「真田幸村」こと真田信繁です。先だって大河ドラマ「真田丸」で有名になりましたね。

もっとも、それ以前から真田幸村(信繁)という名前は、ずっと愛され続けた名前です。

彼は昌幸の息子だったんですね。くわせものの息子は最後の最後にくわせものの息子らしい生き様を見せつけたのではないでしょうか。

この二人の息子たち。兄は徳川へ。そして弟は豊臣に尽くしました。なぜ兄弟でばらばらになってしまったのでしょうか。これにも、昌幸の思惑が絡んでいたとされています。

1600年、関ケ原の戦い。誰もが知っている、徳川と豊臣の大きな戦いです。この戦いの前に、真田の親子は頭を突き合わせて会議を開きました。

犬伏の別れ、に繋がる会議です。この時、昌幸と信繁、そして信之は徳川の命を受けて会津征伐に向かっていました。

しかし、突然石田三成が兵を挙げて関ヶ原の戦いが始まります。そこで、三人は考えたわけです。我々真田はどうすればいいのか、と。

この頃、信之は徳川の武将、本田忠勝の娘と結婚していました。信繁はというと、豊臣家の重臣、大谷吉継の娘と結婚していました。

つまり、東西でばらばらの嫁をもらっていたのです。ですから、兄は徳川、弟は豊臣へついた、とされています。これも有力な話でしょう。

しかし、もう一つ有力な説なのが、昌幸の提案で兄は徳川、そして弟は豊臣についたとされています。

そうすることにより、この戦いで東西の決着がついても、どちらかの真田が生き残るという考えからです。まさに「くわせもの」らしい考え方ですね。

結果、関ケ原の戦いは東軍の勝利。徳川の勝利でした。この時、昌幸と信繁が西軍についていて、なんと家康の息子である秀忠の行軍の足を止めるという戦果を出していました。

これにより、秀忠は関ケ原の戦いに間に合わず、こっぴどく家康から叱られたという話があります。これだけではありません。

その戦いよりもずいぶん前に上田城での戦いがありました。第一次上田合戦と呼ばれるものです。これは徳川に味方した時に奪い戻した上田城であるのに、徳川は褒章をくれるどころか城まで明け渡せといわれ、昌幸が戦ったものです。

この時は2000あまりの軍で徳川の7000軍を破りました。この事もあり、家康のご立腹は激しいもので、なんとしても昌幸と信繁は討ち首だと言っていたのですが、そこで救命に入ったのが信之です。

信之に信頼をおいていた家康でしたから、苦渋をのみながらも命だけは助ける事に。これにより、昌幸は息子の信繁とともに、九度山へと流されるのでした。

九度山での生活

九度山に流された時、昌幸はすでに五十を過ぎていました。昔は「人生五十年」と言われていた時代です。その年によって九度山という何もないところに流された昌幸は、九度山での生活に苦労したようです。

ただ、待遇はまだましで、息子夫婦(信繁夫婦)とは別に館を立ててもらっており、それなりの生活だったようですが、やはりお金にはかなり困ったようで、何度も何度も徳川にいる息子、信之に書状を送っているようです。

ただ、それだけの理由ではもちろんありません。この頃には息子も体を弱らせているのを知り、その気遣いの手紙も含まれていました。

こうして遠く離れていても、親子の絆はずっと続いていたようです。信之もまた、自身の領土で様々な問題があったにも関わらず、それらを平定しながらも九度山へ支援を続けていました。

あとは、昌幸が懇意にしていた和歌山藩主の浅野氏も助けてくれていたようです。

こうして様々な人に助けられながら厳しい九度山での日々を過ごした昌幸ですが、やはり年齢を重ねると気力も弱まるもの。

もしくは、このままこうして没してしまうのではないかという不安もあり、昌幸はどんどん気落ちしていったようです。

それらを支えたのは、信繁夫婦でした。信繁の妻であった、大谷吉継の娘、竹林院はこの頃、九度山の民に一つの芸を授けます。

それが今でも有名な「真田紐」です。なにがあっても切れない、とても丈夫な真田紐を編ませ、それらを行商で売りさばいてお金にしていました。

真田紐は本当に丈夫なのでよく売れたという事です。そうやって年老いていく昌幸を支えてくれていたのでした。

昌幸の最後

九度山へ流されてから10年と少し。昌幸は65歳で最後を迎えました。大河ドラマ「真田丸」でも、この最後のシーンは印象に残りました。

「お館様っ!」と叫んで亡くなられました。昌幸のとってのお館様とは、武田信玄の事か、勝頼のことか。

どちらにしろきっと昌幸は、武田家の滅亡後もずっとずっと武田家の事を忘れずにいたのではないでしょうか。

恩義には忠実さを見せる昌幸ですから、そうであってもおかしくはありません。

武田家に比べれば、のちに仕えた織田も豊臣も徳川も、どれも「くわせもの」の敵ですらなかったのかもしれません。

最期は九度山という寂しい場所での死となりましたが、その人生はとても波乱に満ちていて、そしてその意志は二人の息子へと受け継がれていきます。

兄の信之は「真田」の名を絶やさぬよう、裏切者の父と兄の名を背に負いながら徳川家で頑張りました。そして見事にその大役を果たしました。

弟の信繁は父の死後に起こった大阪の陣にて力を求められ、九度山を抜けて大阪に入ります。この時、信繁もすでに50前後。

老人ではありましたが、その力は本物でした。この時、「真田」が大阪城に入ったという知らせを受け取った家康が「父のほうか、息子のほうかっ」と慌てて尋ねたといいます。

そこで息子の方だと知ると、家康はほっとしたのでした。それほど昌幸は家康に怖れられていたのです。

しかし、家康はここで間違いを犯しました。あの昌幸の子です。信繁も立派な血を引き継いでいました。大阪の陣の際、家康は二度も信繁に命を狙われます。

一度は自害を覚悟したほどでした。昌幸の子、信繁もまた「くわせもの」だったわけです。

こうして二人の息子によって、真田の名は守られ有名になりました。きっと昌幸も死後、やりきれない思いと共に嬉しさもあった事でしょう。

ちなみに、昌幸が死んだ時、息子の信之が家康に、昌幸の葬儀をしてやりたいと懇願したそうですが、これは認められなかったという話です。

それもまた戦国の習い。仕方がなかったのかもしれませんね。

真田昌幸が残した、様々な名言

智将であった昌幸が残した言葉は、たくさんのものがあります。一番有名なのは、九度山へ流される事が決まった時のこの言葉。

「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」つまり、自分と同じような目に、本当は徳川家康をそうさせてやりたかったのに、という意味です。

それほど悔しかったのでしょう。ちなみにこの言葉は信之への文に書かれていたそうです。父親の言葉に信之も心を痛めたに違いありません。

また、その運命を決定づけた関ケ原の戦いの際には、こんな言葉も残しています。

「わしは戦いには負けておらぬ。時代という化け物に負けたのだ」

そうなのです。真田の昌幸と信繁は西軍に加担してはいましたが、直接関ヶ原で戦ったわけではありません。

最初、昌幸は西軍が敗れるなどとはつゆほども思っていなかった事でしょう。それぐらい強大な力を持っているはずの軍でしたから。

しかし、残念ながら大将である石田三成に人徳がなかったのです。それゆえに裏切り者も続出し、なんと関ケ原の戦いはあっというのに決着がついてしまいました。

それを知った昌幸は、驚愕したに違いありません。それゆえのこの言葉でした。

昌幸自身が戦って負けたわけではなく(なんなら、昌幸は上田城で秀忠の軍を止めるという大役を果たしています)、戦に負けてしまったのですから。この悔しさといったら、考えられませんね。

家康も恐れていた真田昌幸

真田昌幸という人物が、もう少しだけ時代をずらして生まれてきていたなら、きっと歴史の流れは変わっていたかもしれません。

大阪の陣の際、昌幸がもう少し若ければ、まだまだ生きて活躍したでしょうし、ひょっしたら徳川に勝っていたかもしれません。

息子の信繁がそこまで持ち込んだように。ですが、昌幸の人生は変わりません。それもまた、昌幸が負けたのではなく、時代というものに負けたという事なのでしょう。

それでも、真田の名が後世にまで残ったのは、とてもすごい事です。その礎を気づいた昌幸には、敬意を表さずにはいられません。