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片倉景綱とはどんな人物?愛用していた八日月の兜や死因について

片倉景綱という名前を知らない方でも、「片倉小十郎」という名前は知っている人が多いと思います。

伊達政宗の右手として活躍した忠臣の代名詞のような武将。今回は景綱の性格や生涯についてまとめてみました。

片倉景綱の生い立ち!女丈夫の姉に育てられ、文武両道のエリートに!

片倉景綱は、片倉景重の次男として生まれます。

幼少の頃に父母を相次いで亡くしたため、親戚に養子として出されますが、その親戚に嫡子が誕生したため、また片倉家に戻され、以後異父姉の喜多の元で育ちます。

喜多は文武両道に通じ、兵法にも長けていたため、景綱の教育は喜多の影響が強いと考えられます。

この後、伊達政宗の父である伊達輝宗に姉の喜多が乳母(実際は喜多は子供を産んでいないので、

養育係のようなものと考えられますが)を拝命したことと、その後の米沢での大火での景綱の功績から、政宗の徒小姓として取立てられ、伊達家に仕えることとなります。

伊達政宗は家臣の意見を素直に聞くことがあまりなかったようですが、「智の片倉景綱」と呼ばれた景綱の提案する国内政治の案や、

戦時下の謀略は素直に受け入れることが多かったようです。政宗にとても信頼されていた様子が伝わってきます。

政宗の目を斬る有名なエピソードは本当か?

片倉景綱の最も有名なエピソードと言えば、「伊達政宗の右目を斬る」でしょう。

景綱の主君である伊達政宗は、幼少期に天然痘を罹患し、右目が失明した上飛び出してしまいます。

そのため、内気で引きこもり気味であったのを、景綱がその右目を斬ることで生来の明るい積極的な性格に戻り、

失った右目に刀の鍔を当てて「独眼竜」と呼ばれるようになった…という逸話はとても有名です。

しかし、現代の調査で伊達政宗の遺骨が掘り出された際、「右目の眼窩には何も異常がなかった」ことが確認されており、

また右目に刀の鍔を当てるようになったのも明治以降の創作であることが判明しています。

政宗の右目は単に失明して白く濁っているだけで、覆うのも時折包帯などで、だったようです。

このことから、景綱が政宗の目を斬ったというのも、後世の創作の可能性があるのではないでしょうか。

当時の書物にはどう記載されているのか?

江戸時代中期に成立した『明良洪範』という書物には、「政宗の目玉が飛び出しているため、

敵に弱点だと思われるので政宗が自分で切った方がよいと景綱が進言し、政宗が実行して意識を失いかけると、景綱は鎌倉景政の故事で激励した」旨の話が記載されています。

また、伊達政宗の歴史書である『性山公治家記録』という本には、

「伊達政宗の疱瘡で失明した右の目が盛り上がったため片倉景綱が小刀で突き潰した」という「不確かな言い伝えがある」と記されています。

伊達政宗の話を聞いた小姓らが記した『伊達政宗言行録~木村宇右衛門覚書』には上記の逸話は載っておらず、

代わりに「若い政宗の右脇腹の出来物を自分で脇差を使い切開したいが景綱に相談しだところ、

景綱が景綱自身の右腿に刺さるか試したあと政宗の腹に灸として刺して治療した」という話が記されています。

最後の「景綱が右脇腹を治療した逸話」は完全な事実ですが、肝心の「右目の話」はどれも伝聞の域を出ず、さらには「斬った」のか「潰した」のかもわかりません。

また、政宗のために自分の右脇腹を試しに差し出すくらいならば、右目のときも同じ対応をしたのではないでしょうか?

このことから、景綱が政宗の右目を斬ったという話は、政宗の右脇腹を治療した話と政宗の隻眼の理由が混同された可能性もありうると思います。

片倉景綱の愛用していた兜、神符八日月前立筋兜とは?

片倉景綱の兜には、半月と目立つ木のお札があしらわれています。

このお札には「愛宕山大権現守護所」の文字が記されており、山城国愛宕山(今の京都府京都市左京区の愛宕山)の愛宕権現のものです。

愛宕権現は、将軍地蔵を本尊としたため、戦国時代には軍神として崇められていました。

景綱もこの愛宕権現のお札を掲げることで、勝利を祈願したのではないでしょうか。

兜の前立てに八日月を使ったのは何故?

片倉景綱の兜には、少し珍しい半月があしらわれています。

現代では主に「上弦の月」と呼ばれるこの半月ですが、兜にあしらっている有名な武将は片倉景綱だけです。

この「上弦の月」は、五世紀に中国で記された「後漢書」という書物に登場する言葉ですが、

日本ではなかなか使われず、大和物語では「弓張月」、万葉集では「白真弓」という名前で登場します。

名前からもわかる通り、ぴんと張った弦と弓に見立てられたこの月は、夕方、空が薄暗くなってきた頃に、弦を上向きに西の空に浮かんで見えます。

今より灯りが少なく、夜の明かりは月明かりがメインだった昔、幾多の戦を勝ち抜こうとする武将に、この月はとても心強いもののように見えたのではないでしょうか。

 
また、片倉家は諏訪大祝の神官を祖先としており、景綱の父も米沢八幡宮の神職でした。神事を司る家系だけあって、景綱も弓を得意としていました。

そこからも、この「弓張月」は前立てとしてぴったりだったのだと思われます。

片倉景綱の死因は?お墓はどこ?

景綱は晩年はとても太っており、政宗に「太ったその体では重い鎧は着られまい」と言われて軽い鎧を賜るほどであったようです。

さらには、「伊達家世臣家譜」に「太りすぎて布団から起き上がるのが難しかった」旨が記されています。

症状から、糖尿病だった可能性が疑われています。景綱が亡くなった時、政宗は家臣である景綱の棺を自分の馬に引かせて菩提寺へと運びます。

景綱がどれだけ政宗に頼りにされていたか、信頼されていたのかの証でしょう。

その後、三代目の片倉小十郎景長(片倉家は景綱にあやかり、代々小十郎を名乗っています)が景綱の命日に分骨し、白石城を望める愛宕山に墓を作り直しました。

片倉家の墓はその後、十代まですべて愛宕山に作られています。

片倉景綱は豊臣秀吉にも認められた智将だった

景綱は伊達家の対外交渉を取り次いでおり、現存する伊達政宗の外交文書の多くに彼の書いた副状が添えられています。

また、豊臣秀吉が北条氏を攻める小田原攻めの際、景綱に五万石を与えて召抱えようとした逸話も残っています。

政宗の厚い信頼だけでなく、秀吉にまでその才を認められた景綱は、戦国時代後期きっての智将と言えるのではないでしょうか。

大阪の陣で病没してしまったのが、とても残念に感じますね。