未分類

両親に溺愛された徳川忠長(国千代)の生涯や性格について

初代将軍徳川家康が開いた江戸幕府。

家康から秀忠に順調に受け渡された征夷大将軍の座は、三代将軍を誰にするかで幕府の中でも対立が起こるようになってしまいました。

結果、三代将軍となったのは秀忠の次男(長男は夭折)で兄の竹千代(後の徳川家光)でしたが、

兄よりも両親に愛され、容姿端麗で才気煥発であった三男の国千代…後の徳川忠長とは、どういう人物だったのでしょうか。

両親に溺愛された三男坊、国千代

国千代は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の三男として生まれます。

兄の竹千代と違い、乳母として秀忠の下で絶大な権力を誇った土井利勝の妹が宛がわれたことからも、国千代への期待が見てとれます。

(一説には、母・江がこの時代には珍しく自ら国千代を育てたとも言われています)

何故そこまで優遇されたのでしょうか。

理由の一つには、国千代は織田信長に似て、眉目秀麗であり、とても頭の回転の速い子供であったこと。

もう一つは、兄の竹千代に吃音があり、病弱であったことが上げられるでしょう。

当時は「七つまでは神の子」と言われるほど乳幼児の死亡率が高く、跡を継ぐ子が全員死に絶えてしまう家もざらでした。

病弱であり、一見劣って見えた兄よりも、理知的で社交的だった国千代が溺愛されたのもある意味当然といえるかも知れません。

しかし、そのまま彼が三代将軍に…とはなりませんでした。

父を喜ばせようとした鴨は、実は…!

家光の乳母、春日局の尽力や、初代将軍家康の発言などにより、世継ぎは兄と決められてしまいます。

そのあたりから徐々に国千代の人生の歯車が狂い始めます。

新井白石の著である、『藩翰譜(はんかんふ)』によるとある日国千代は、父秀忠を喜ばせようと、鴨料理の膳を提供します。

最初は喜んだ父ですが、この鴨が西の丸で取ったものであると知ると、手の平を返して激怒します。

西の丸は国千代の兄、竹千代の住むところ。そんなところで鉄砲を撃つなど、謀反にも匹敵しかねない行為だと。

この事件をきっかけに、あれほどまで溺愛していた秀忠は、国千代に距離を置き始めます。

国千代はそうとも気付かずに、「100万石ほしい」とか「大阪城がほしい」などとのたまい、

ますます父の不興を買ってしまい、後にはその横暴な振る舞いから、父の臨終への立会いも拒絶されてしまうのです。

深まる家光との確執、立場をわきまえられない忠長

さて、元服を経て国千代は松平忠長を名乗ることになりますが、「徳川」の姓ではなく、「松平」を名乗らされたことからも彼の微妙な立場が想像できるでしょう。

しかし、当の本人にはそういう意識はまるでなく、あくまで「将軍家光の実の弟」という立場を崩しません。

これは、幼少から秀才だと周囲にもてはやされ、両親から溺愛されて育ったから当然とも言えるかもしれませんが、

残念なことに忠長には、周りへの気配りや自分の立場の自覚という観点が欠けていたようです。

忠長の唯我独尊気味な性格を表すエピソードにこんなものがあります。

ある年、家光が京都へ上洛することになります。その時に忠長は「兄が不自由だろうと思って」大井川に橋をかけてしまいます。

大井川と言えば、幕府の防衛線として重要な箇所の一つです。そこに無許可で橋をかけることは普通なら絶対にしません。

しかし、忠長は「自分は将軍の弟である」つまり「将軍並みの権力がある」と勘違いしており、それを勝手にやってしまうのです。

勿論、この行為は兄家光の不興を買い、兄弟の確執がより深まってしまいます。

唯一の後ろ盾の死去、奇行を繰り返す忠長

大井川へ橋をかけたり、腹違いの弟に徳川姓を名乗るようけしかけてみたりと行状が荒れる忠長ですが、

この頃までは強大な後ろ盾である母・江が生きていたため、周りもそこまで強い態度に出れなかったものと思われます。

しかし、大井川へ橋をかけたしばらく後に、母・江が53歳で死去します。忠長は唯一の理解者であり、何か問題ごとが起きたときの後ろ盾を失ってしまったのです。

通常ならばこの辺りで自分の立場に気付くのでしょうが、忠長は気付くことが出来ませんでした。

この三年後、忠長は、徳川家康が元服した神聖な場所である、静岡県静岡市の浅間神社がある賎機山(しずはたやま)で、神獣とされている猿を、

周囲の懇願をも無視して1000匹以上も狩り、家光に激怒され、咎められるという事態を招いています。

忠長をついに見捨てたのは?甲府への蟄居を命じたのは

猿狩りの一年後、鷹狩りに出かけた忠長は、家臣が薪に火を点けるのに手こずっただけで激怒し、この家臣を手打ちにしてしまいます。

幕府の実権を大御所として握っていた父秀忠は、ここで完全に忠長を見捨て、勘当してしまいます。

しかし、意外にも兄家光はそうではなかったようで、重臣である酒井忠世や忠長にとっては義父にあたる土井利勝を再三遣わし、更生を促します。

愛でるだけ愛でて手のひらを返した父よりも、兄の方が家族の情愛を感じられますね。

ですが、これをもってしても忠長は落ち着かず、ついに甲府への蟄居を命じられてしまいます。

当時の熊本藩主・細川忠利などの記録によれば、忠長は乱心していたとも見られています。

父と母に愛されて育ったのにも関わらず、急に父に疎まれ始めたので、父の気を引くために乱暴な言動を繰り返したとも受け取れるのではないでしょうか。

高崎への改易、そして死

兄・家光はそれでも忠長を庇い続け、甲府に蟄居している忠長を駿府に帰還させるなど、兄として最大限彼を助けようとしていたようです。

しかし、忠長は落ち着かず、この頃死んだ父秀忠の墓を勝手に立てるなど、行状はさらに荒れます。

寛永10年、ついに家光も忠長を見捨て、忠長は幕命で自刃します。まだ28歳でした。

徳川忠長の性格は?

ここまでを見るに、狂気の藩主として描かれることの多い忠長ですが、実際の出来事を見ると、

「兄のために大井川に橋をかけてしまった」とか「父のために墓を立てた」とか、意外と家族、特に父思いのような気がします。

ただ、それが自分の立場をわきまえないものであったがために浅慮を咎められているだけで……

何故彼がここまで傍若無人になってしまったのか、と考えると、幼少の頃に兄よりも溺愛された過去が影響しているのではないでしょうか。

昨今の芸能人でも、母に溺愛されて好き勝手育てられた結果、悪い方向に手を染めてしまう人は何人も思い当たります。

そう捉えると、自刃に至るまでの経緯は忠長のせいでも勿論ありますが、秀忠や母・江の養育責任が問われても良いのではないかと考えます。

忠長に子供はいたのか?

さて、忠長に子供はいたのでしょうか。一説には、松平長七郎という人物が忠長の子供とされています。

ですが、この松平長七郎という人物は、風来坊のように諸国漫遊の旅をしてみたり、紀州藩主で御三家の一人でもある徳川頼宣に謁見してみたり、

大阪で親子の危機を救ったり……というように、かなり創作味の強い人物です。

また、本当にこの長七郎が忠長の子供であるとすると、忠長は元服以前のわずか9歳のときに子供を作ったことになってしまいます。

江戸時代は『東海道中膝栗毛』や『水戸黄門漫遊記』のように、諸国を旅する話が流行った時代でもあります。

これらのことから、長七郎が忠長の子供とするのは誤りで、後世の創作と見られています。

まとめ

家光の弟であったがために人生が狂ってしまったとも考えられる忠長。

彼の人生を振り返ると、家族に愛されようともがいたような跡も見られます。

忠長の狂気とされるものは、現代にも通じる悲しさを感じますね。