井伊と聞いて何となく思い出される名前は、井伊直弼と言う人も多いかもしれません。
幕末動乱の幕開けの合図とも言える、「桜田門外の変」という言葉くらい、あまり歴史を知らない人も耳にしたことがあるかと思います。
井伊家は平安時代から続くお家柄でしたが、一度戦国時代に滅びゆくところでありました。
その家を見事復活させた人物こそ井伊家の救世主、井伊直政です。イケメン説もある直政の人生は幼き頃から激動の連続でした。
幼少期に命も狙われたこともありましたが、最後は徳川家にとって無くてはならない重鎮にまでなったのです。
今回は、武勇伝尽きない直政の生涯について、死因も含め紹介していきます。
弱小国衆は辛いよ 名家から落ちぶれた井伊家
そもそも井伊家は、平安時代から続く国衆(国人)のお家柄。国衆とは、京都にいる公家の代わりに、地方の領地を治める領主の事。
井伊家はこの国衆の一つとしても、藤原家の流れを組むとされる名門の家。遠江国の井伊谷を治める武家で、約500年続いていた家でした。
井伊谷とは、現在の静岡県浜松あたりの一角です。武家で代々、地方にて同じ土地を治める職を介と言い、名字と介を足して井伊介と名乗れる身分でもありました。
この介は八介と言い、8人しかいないうちの、一人が井伊家の当主に当たります。
源頼朝が幕府を鎌倉に開いてから、鎌倉鶴岡八幡宮にて正月の行事として行う、弓初めの儀式では弓引き3番手にも井伊介は名前を連ねています。
その家が落ちぶれるきっかけとなったのが、南北朝の争いです。井伊家は南朝側として挙兵したものの、居城を攻め落とされてしまいます。
その後北朝側に付いていた今川義元が遠江の守護職になってしまったことから、井伊家のハードな国衆生活が始まってしまうのです。
力を付けた今川家は、元々南朝側についた井伊家が目障りです。今川の配下になった井伊家も名門だったプライドがあり、何かと衝突や邪魔が入ります。
その頃の話をとても素晴らしい脚本で表したのが、森下佳子さん脚本、柴咲コウ主演の大河ドラマ「おんな城主 直虎」なんです。
今回の主役、井伊直政は菅田将暉君が、かなりぶっ飛んだ直政を演じていましたが、
「この後そのまま直政を主役に大河の続きを!」と、直虎クラスタの皆さんを釘付けにするほどのキャラでした。
ハードな幼少期 虎松時代
「おんな城主 直虎」を観ていた人には、よく分かるのでしょうが、その当時の当主、井伊直盛には娘しかいませんでした。
そこで、娘のいとこである井伊直親を婿にして、次代を継がせようと思っていた矢先、直親の父、直満は謀反の疑いで今川に殺されていまいます。
息子である直親も命を狙われた為、家臣に連れられ直親は逃亡し、武田領にて隠れひっそりと少年期を過ごしておりました。
その間、婚約者であった直盛の娘も、嫌疑を掛けられないように出家。次郎法師と名乗り、寺で過ごしていましたが、青年期になった頃、直親は帰参を許され井伊の当主となりました。
しかし、直親にはすでにおひよという嫁がおり、次郎法師は生涯独身となってしまうのです。
そんな中、直親の息子として誕生したのが直政です。永禄4年(1561年)の冬に、井伊家待望の跡継ぎが誕生しました。
幼少名は虎松。しかし、祝いに湧いた井伊家に襲い掛かる不幸は止まりません。
彼が2歳の時、今度は父直親が、今川義元亡き後跡を継いだ氏真に、松平(のちの家康)との内通を疑われてしまいます。
直親はその申し開きに向かう道中で、殺されてしまいました。虎松も命を狙われましたが、この時は何とか許しをもらい生き長らえることができました。
更に追い打ちを掛けるように、戦に駆り出された次郎法師にとっての祖父や、井伊家の中心にいた家臣達を含め、井伊家の男達をほぼ失ってしまいます。
跡継ぎ候補の虎松こと、直政はまだ幼少の身。次郎法師は直虎と名を改め、虎松の後継人として女領主になったと言われていますが、裏付ける資料が少なく真実かどうかは不明です。
この頃は、戦国時代も佳境と言っていいほど、井伊谷を取り巻く環境は最悪です。
今川が弱り始め、武田、北条、そして織田信長が力を付け、天下布武を目指し始めた頃なのでカオスです。弱小国は常に危機しかありませんでした。
家臣にも謀反を企む者などもいて、直虎も女だてらに奮闘するのですが、ついに一番恐れていた武田が攻めてくるという時を迎え、井伊家は大ピンチを迎えます。
その時、家臣の小野道好が今川の命令だと突如謀反を起こし、またしても虎松の命を狙われてしまったのです。
虎松は命からがら寺に逃げ込み、出家して父と同じようにひっそりと暮らすことになりました。
結局井伊家は、武田信玄が急死して引き上げるまで、井伊谷城を3度も取られていますが、何とか生きながらえてはいました。
家康もトリコ?イケメン万千代時代
14歳になった虎松が父の法事に訪れた頃、何とか井伊家の当主に戻せないかと、次郎法師や母のおひよなどで相談し、
家康の家来である松下清景という男と虎松の母おひよは再婚し、虎松は松下の養子に一度なりました。
その後、鷹狩の際に家康とお目見合わせ。家康も、虎松を気に入って小姓として採用されることになりました。
名を万千代と改め、ついに井伊を名乗ることも許され、井伊谷の領地も取り戻すことができたのです。
家康が何故、万千代を取り立てたのか諸説ありますが、万千代がイケメンだったからという理由も考えられています。
古来武家の嗜みとして、衆道はけしておかしなことでは無い時代。その中でも秀吉と家康だけは、男との趣味や噂は一切ありませんでした。
それなのに、この万千代こと直政だけは、どちらにも気に入られる程の青年だったのです。
そんな噂になるほどの異例の出世を遂げ、家康は自らの居住の近くに万千代用の住居を与え、
足繁く通っていたという逸話が残されていることから、そのような関係だったのでは?という、憶測が当時も多かったのです。
そもそも家康の家臣である、三河の武士達は父親の時代より仕えた譜代の家臣。更に子であった家康も幼少期は、織田家や今川家の人質として過ごしていました。
そんな不憫な後継者である家康を、「いつか当主に復権させるのだ!」という熱い想いから、三河の家臣団は結束が固いのです。
そんな中、外様の小僧がいきなり登場し、どんどん出世していくのですから、家康とただならぬ関係と疑ってしまうのも、仕方がないですよね。
功績を称えられてのことでもありますが、小姓として付いた時は300石、翌年3000石、3年目には1万石という加増。
その後も僅かな間に、加増し続けていくのですから、家康の信頼を勝ち取っていたことは間違いないでしょう。
万千代こと直政のイケメンさは、数々の史書にも残っており、男女問わず人気が高く、秀吉の母も気に入っていたという話や、同僚の男に襲われかけたという逸話まであります。
こうなると、どのくらいのイケメンだったのかとても気になりますね。残されている肖像画からは、あまりイケメンには思えないのですが…。
当時とは美少年の価値観も、大いに変化しているということにしておきましょう。
「井伊の赤揃え」赤鬼爆誕
家康の寵愛を受けていたのかはともかく、22歳で元服した万千代は名を改め、ついに井伊直政が誕生します。
彼の性格は、直情型で、わりと根に持つタイプ。さらに武勇に逸る、血気盛んで戦となれば我先にと飛び出す、命知らずの男。
家康に仕える古くからの家臣達の嫌味や、妬みにもひねくれず、更に口も返す程の負けず嫌い。
直政元服直前の頃、家康は織田信長と同盟関係を結んでおり、信長天下布武に向けた戦に、家康軍として直政も数々の戦に参加しています。
有名なのは、武田勝頼との第二次高天神城の戦いの際、兵糧攻めにするための攻略として、直政は忍びの者を使い井戸を壊したと言われていますが、これは元服前の話。
そして、元服の年に突然起きた、信長の死。そう本能寺の変です。
茶会に参加するため、堺にいた家康一行でしたが、謀反を起こした明智光秀に命を狙われる為、三河に決死の想いで帰った、
家康ピンチの一つ「伊賀峠越え」にも直政は同行しており、家康の命を守りました。
その後起きた、天正壬午の乱では北条との講和の使者になったり、大河ドラマで有名になった真田家でお馴染みの、
信濃や甲斐を併合した家康は、赤揃えで有名な武田の元家臣達を直政の配下に付けました。ここに、徳川最強軍と呼ばれる「井伊の赤揃え」が誕生します。
彼は武田最強軍団と言われた赤揃えから、武田の兵法も学び、数々の戦で武功を上げていくのですが、彼の攻撃法は、「突き掛かり戦法」と言われるもので、
とにかく一番手で誰よりも先に、敵陣へとむやみやたらに飛び込んで行くという、命知らずの戦い方なのです。猪武者と言ってもいいかもしれません。
あまりに命知らずな攻撃に、周辺諸国の武士たちは恐怖に慄きました。更に直政は、己にも厳しいが部下にも厳しいという、
今で言えば、ワンマン上司のブラック企業のような隊だったようで、部下が失敗すると斬り捨てたりすることもあり、
配下から外して欲しいと逃げ出そうとする部下も多かったと言われています。このような話を聞くと、あまり仕えたい人ではありませんね…。
顔は可愛く、小柄なのにその気性から、赤鬼や人切りとも呼ばれ畏れられていた直政。
しかし、家康が秀吉の配下であった頃は、秀吉にも武功を気に入られ、徳川の家臣の中で唯一官位を授かっています。
家康にも気に入られて、石高をどんどん増やしていったことから見ても、何かしら天下人には気に入られやすい男でもあったと言えますね。
最初は嫌味を言っていた徳川譜代の家臣達も、直政のがむしゃらな働きぶりを見て、いつしか彼を認めていったのです。
赤鬼の命を取った死因は?直政の終焉
直政は関ケ原の戦いでも大いに活躍し、東軍の軍監としての任務に就きました。西軍に付こうとしていた武士達を調略したり、
先陣と決まっていた福島正則を飛び越し、自らが先陣に駆け出していった直政。島津軍を攻撃し、後一歩の所で鉄砲に足を撃たれてしまいます。
直政の突撃の速さには、配下の者が護衛に追いつけなかったと言われる程、猪突猛進に戦う直政の気性の激しさが災いしてしまいました。
ケガをしても彼は休まず、戦後処理の対応にも活躍しています。毛利や島津との講和や、真田信繁などの除名嘆願にも動いたりと、大人しくなどしていませんでした。
獅子奮迅の働きとは直政のような仕事っぷりを表す言葉かもしれませんね。
家康はこの功績を称え、直政に石田三成の領地であった滋賀県彦根市に18万石を与え、直政は佐和山城の主となりました。
しかし、それからわずか2年後、直政は42歳という若さでこの世を去ります。
死因は関ケ原で受けた銃創が原因とも、働き過ぎて過労という説もあり、はっきりとはしていませんが、
あまりにも急な死と、鬼のような働き方を考えると、相当身体に無理を感じていたのでしょう。
直政は頑丈な鎧に身を包んでいましたが、身体中は傷だらけだったそうです。
家康がその傷を、家臣達に見せ傷を指さしながら、これはあの時の戦いなどと涙ながらに説明したという逸話からも、
何事にも無茶をする男だったと考えられます。死因の原因はやはり過労かもしれませんね。
井伊直政から井伊家は今も続く
直政死後、次男の直孝が家督を継ぎ、佐和山城を壊して新たに彦根城を建て、30万石の領主となりました。
ゆるキャラ選手権で殿堂入りを果たした、ひこにゃんはこの直孝の命を救ったと言われている、城前にいた招き猫と、直政の赤揃えをモチーフに誕生したのです。
その後、幕末まで井伊家は徳川の譜代家臣となり、幕府を支え続けていました。
しかし、直弼暗殺後、徳川家に冷遇されたことがきっかけか、はたまた官軍との戦いにボロ負けしたせいか、鳥羽伏見の戦いからは何故か官軍として従軍しています。
先見の明があると言えばいいのか、手段を選ばず家の存続を考えてのことか、平安時代から続くと言われる名門井伊家の名は、
今も養子や婿養子を加え、ひっそりと存続しているのです。
運命とも言えるでしょうが、直政の誕生と、期待の跡取りを命懸けで守った井伊家の人々の力。
そして、イケメンと言われる程の容姿に、血気盛んな彼の性格や働きぶりが無ければ、井伊家は戦国時代に消えていたかもしれないことを考えると、
井伊家を守る為に直政はこの世に生まれてきたのかもしれません。
滅び掛けていた井伊家の跡取りとして誕生した直政は、いつしか徳川四天王に名を連ねるまでになりました。
危険を顧みず戦い続けた男
直政が息子に残した遺言は、「失敗したか成功したのか、利口かバカかはやってみなけりゃ分からない。
だからがむしゃらに行動するのみ!」というような言葉を残しています。
この言葉からも、直政が今にも消えそうだった井伊家を立て直すために、危険を顧みずに必死で日々を過ごしていたことが伺えますね。
何の力も無かった幼少時代の井伊家を思えば、考えている暇が無かったのかもしれません。
小さい身体に赤色の鎧を身に纏い、命も畏れずに喜々として駆け出して行く直政の姿は、
危なっかしいながらも愛すべき少年を思わせ、今も尚、人々に勇気と希望を与えてくれるのかもしれません。