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悲劇の美女、駒姫の生涯エピソードや悲しき、辞世の句

豊臣秀吉の時代。一つの大きな悲劇が起こりました。その中心人物が「駒姫」です。

その名前に聞き覚えのある方は、この大きな悲劇の細かな部分までよくご存じの方かと思います。

では、いったいどんな悲劇が起こっていたのか。知ってしまうと、ちょっぴり秀吉が嫌いになってしまうかもしれません。

絶世の美女・駒姫

皆さんは、「秋田美人」という言葉をご存知でしょうか。

日本三大美人の一大……という言い方は正解がどうかと思いますが、秋田出身の人に美人が多いことから、三大美人の一大として喩えられるようになりました。

ちなみに、他の二大は、「京美人」と「博多美人」です。その秋田美人の名に恥じないほど、駒姫はとても美しい姫だったそうです。

しかし、美しさは時に、予期せぬ不幸を招いてしまう事があるのです。

駒姫は1579年、最上義光と大崎義直の娘、釈妙英との間に生まれた二人目の女の子でした。なんとあの伊達政宗の従姉妹でもあります。

父親の最上義光は伊達政宗の母、義姫のお兄さんになるのです。駒姫は別の名に伊万(いま)という名がありますが、ここでは駒姫と呼ばさせていただきますね。

駒姫はとにかくとても美しく、東国一と言われた美少女でした。その噂は京へも届き、時の関白、羽柴秀次の耳にまで届いてしまったのです。これが全ての悲劇の始まりでした。

羽柴秀次といえば、天下人、豊臣秀吉の甥にあたります。しかも、時の関白。とっても偉い人です。

東国に駒姫というとても美しい少女がいると耳にした秀次は、すぐに最上家に対して「側室によこせ」と言ってきました。

そんな人から側室にと言われてしまうと、なかなか断れるものではありません。

それでも、義光は粘りました。何度もくる使者に断り続けていたのです。しかし、あまりにもしつこくて、とうとう根負けしてしまうのです。

それでも最後の粘りとばかり、とにかく娘が15になるまで待ってくれと。そうしたら京へ向かわせるから、と約束したのでした。

義光はとても駒姫をかわいがっていたと言いますから、関白といえども、秀次に送るのがたまらなく嫌だったのではないでしょうか。

どの親もそうだと思います。できれば目の届く範囲にて子を見ていたいもの。山形から京都は、あまりにも遠いではありませんか。

駒姫が15になると、それでもさらにねばりました。ねばりまくりました。そして駒姫が17になるまで、なんとか京へ向かわせずにいたのです。

しかし、運命の文禄4年。義光はしぶしぶ、泣く泣く、駒姫を京の秀次の元へと見送ったのでした。

豊臣政権最悪の虐殺

文禄四年。西暦でいうと、1595年になります。先ほどもお話しましたように、駒姫17歳(かぞえ)の年代です。

この文禄四年という年は、歴史好きの人ならば少々眉をしかめてしまうような、そんな年ではないでしょうか。

この年の夏、秀吉は秀次に謀反の疑いがあるとして、高野山に追放してしまいます。しかし、その実は……。

この少し前に、秀吉には待望の息子が浅井長政の娘である淀殿との間に生まれていました。実はそれ以前にも息子がいたのですが、早くに亡くなってしまったのです。

その後に再びできた息子ゆえ、秀吉のかわいがりようはものすごいものでした。この息子が後の、豊臣秀頼です。

さて。この頃、秀吉は養子にしていた秀次に、関白の座を譲り渡していました。関白といえば、朝廷にいらっしゃる天子様の後見人です。

ものすごく偉い人です。いわば、実験をにぎっているようなものです。

その座を譲り渡してしまった事を、後悔していたのではないかと言われています。だって、自分と血の繋がった息子が生まれてしまったのですから。

否、秀次も自分の姉の子ですから、血の繋がりはあります。しかし、やはり実子とはくらべものになりません。

だから、秀吉が作り上げた謀反話で秀次を処刑したのではないかと言われています。

ほかにも政治の仕方の違いからの不和だとか、様々な理由が挙げられていますが、個人的にはやはりこの話が一番理由として納得がいきます。

つまり、秀吉の我が子可愛さに、秀次は殺されてしまったという事です。

この時、秀次だけを自害に追いやったのならまだわかります。歴史の裏とは、なんて世知辛いものだろう、って感じです。

しかし、秀吉はこの時、秀次が自害しただけでは飽き足らず、秀次の正室をはじめ、側室、その息子もすべて殺してしまいました。有名な三条河原の虐殺です。

秀次には側室が数多といました。30人以上はいたということです。そのほとんど、そして、秀次の子らすべてが虐殺されたのでした。しかもそれだけではありません。

最初に子らを殺し、そして母親、側室を殺して一つの穴に入れ、そこに土を被せてから「畜生」と書かれた立て札を置いたのです。あまりにもひどすぎます。

個人的に思うのですが、秀吉はとにかく秀次という存在をこの世から消して無くしてしまいたかったのではないでしょうか。

我が子が関白の座につくために、秀次は不要。それでも権力にしがみつくところがあった秀次ですから、それならいっそ殺してしまえと。

しかも、側室にはときの権力者の娘もたくさんいました。その娘たちの一族が力を持ってしまうといけませんから、側室たちもすべて殺してしまったのではないかと思います。

なんとも極悪非道ですね。秀次も「殺生関白」と言われていて、なかなかえぐいエピソードがたくさんあります。

それらすべてが本当かどうかはわかりません(一説にはあとで秀吉が作り上げた盛大なる秀次の悪口とも考えられます)。それにしても、ひどい事だと思うのです。

秀次の側室という肩書だけで……

さて。最上家のある山形からはるばると京にやってきた駒姫は、京にある最上家の屋敷で体を休めていました。

山形という田舎から、京というきらびやかな町にやってきた駒姫は、さぞかし心を躍らせた事でしょう。

たとえ、顔も知らない秀次の側室になるとわかっていても、若い娘なら京の華やかさに心を躍らせないはずがありません。

しかし、そんな楽しいひと時も、本当に一瞬でした。京にたどり着いた駒姫のもとに、秀次自害の報せが届きます。

それから約半月。駒姫はいったいどんな気持ちで過ごしていたのでしょうか。周りの不穏な空気は察する事ができた事でしょう。

そしてなにより、父親が自分の命を助けるために、一生懸命動いている様子も知っていたはずです。

それゆえに、秀次の側室ならば処刑されてしまう、という運命も、もう知っていたに違いありません。本当にいったいどんな気持ちだったのでしょう。

もし、もう少し義光が駒姫を送り出すのを渋っていたら。もし、京までの道中になにかがあり、途中で先に進めなくなっていたら。

もし……といってしまえば、歴史はいつもいかようにも動いてしまうのですが、駒姫に限っては「もし」があってほしかったと、願わずにいられません。

父・最上義光の嘆願虚しく、駒姫は8月2日。ほかの側室たちと同じように三条河原へ引き立てられ、11番目に処刑されたのでした。

実はこの時、義光だけならず淀殿も秀吉に進言したという逸話があります。駒姫にいたってはあまりにも状況。しかも、まだ秀次に会ってもいない姫です。

これを殺してしまうのはさすがに……と思ったのでしょう。

これに折れたのか、はたまた、周りの動きに折れたのか、秀吉が駒姫にいたっては「奈良の寺で尼にしろ」とお達しを出したらしいのですが……

ほんの一町の差、つまり、100メートルぐらい、3600歩ぐらいの差で駒姫は処刑されてしまっていたという話です。

駒姫の悲劇はすべてタイミングの悪さ

まず根底にあるのは、駒姫が非常に美しい少女だったのが、そもそもの発端でした。

その美しいという噂だとして、秀次の耳にさえ入らなければ、こんな悲劇に合わなかったことでしょう。

たまたま秀次の時代に噂が流れてしまった事がまず一つ目のタイミングの悪さです。二つ目は、駒姫が山形から出るタイミングでしょう。

15歳になったら、という約束をのばしのばし、義光はなんとかごねて、17歳になってから送り出しました。この送り出すタイミングもおそろしく悪いものです。

もう少しあとなら……たとえば、秀次が自害したという知らせのほうが先に義光の耳に入っていたなら、口約束はしていたかもしれませんが、駒姫は秀次の側室になっていない状況です。

さすがに命は助かったのではないでしょうか。しかしながら、義光は秀次自害のほんの少し前に送り出します。

そしてなんと、京の最上屋敷に到着してすぐに秀次が自害をするという悲劇に見舞われてしまうのです。

これだとまるで、駒姫は死ににいくために京までの旅路をやってきたようなものです。

さて、最後の三つ目のタイミングの悪さは、なんといっても秀吉からの連絡が三条河原に届くタイミングです。

もうほんの少し早かったら、駒姫は命だけでも助かったかもしれません。それなのに……。

こうなってくると、人の運命というものは最初から決まっていて、何をどうしてもそこへたどり着くようになっているものなのかもしれないと思ってしまいます。

複雑な気持ちになりますね。

駒姫の辞世の句

駒姫の辞世の句は二つあると言われていて、どちらが正しいのかはまだよくわかっていないようですね。

一つ目は、

「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて 罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

わかりやすく訳すと、

「罪のない身の上であるけれど、こうしてみんなと冥土へ行く事となった。五つの得目に背いた事になっているけれど、きっとみんなとなら極楽浄土へいけるはず」

な感じでしょうか。かなり簡単にしていますので、もう少し違う意味合いなのかもれしません。

それにしても、本当に15歳や17歳の娘がこんな風に、どこかあきらめたような察したような句を遺すでしょうか。

もしかすると、こうまでタイミングの悪い自分にほとほと諦めてしまい、その胸中でのものかもしれません。それなら納得なのですが。

もう一つの句のほうが、個人的に駒姫のものであってほしいと願うところです。

「うつつとも 夢とも知らぬ 世の中に す(住・澄)までぞ帰る 白河の水」

こちらを簡単に訳しますと、

「関白様の側室となるために京まで赴いたはずなのに、今私は処刑されようとしている。これは本当の出来事なのでしょうか。もし夢であるなら覚めてほしい。そして、美しい白河のある山形へ帰りたい」

と取れる気がします。白河と入った辞世の句を詠んだ側室はもう数人いました。

ですから近年まで、この白河はてっきり京都の白川の事だと思われていましたが、山形にも白川と呼ばれていた川があるんだそうですね。

ですので、きっと駒姫のこの句の白川は、故郷の懐かしい川の事だと思われるのです。

こちらの句のほうが、よほど少女らしい句ではないかと思うのです。とても悲しい句でもありますね。

駒姫が命を絶たれたあと、その数週間後、山形では駒姫の実母が命を落とします。一説には駒姫が亡くなったショックで自害をしたのではないかと言われています。

あまりにも不遇な娘を思い、あの世で慰めてやるつもりだったのかもしれません。

駒姫の事を思うと、本当に切なく悲しく、時代に翻弄されてしまった虚しさも感じてしまう次第です。