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溺愛され育った豪姫の生涯エピソード、宇喜多秀家との永遠の愛

1992年。「豪姫」というタイトルの映画が公開されました。主演は、当時まだ18歳だった宮沢りえさんです。

今は名女優の彼女、子役から大人へと成長しかけたこの頃、まだ初々しい彼女の演技は賛否両論ではありましたが、それがまた良かったのではないかと思うのです。

それはさておき、彼女が演じた「豪姫」とは一体どんな女性だったのでしょうか。

豪快な豪姫の誕生

1574年。豪姫は織田家の家臣、前田利家とまつとの間に生まれました。四人目の女の子でした。子供の数で言いますと、なんと五人目。

利家とまつの間にはこの後も子供が生まれ続け、全部で11人の子を授かりました。伊達晴宗の正室、久保姫と並んで戦国一の数です。

さて、そんな一家に生まれた豪姫ですが、生まれてからかぞえの二歳で……

もしくは、一説には生まれてすぐに、とか、二か月で、とかで利家とまつの隣人だった家庭へ養子へ出されます。これは生まれる前からの約束だったそうです。

その家族というのが、将来天下をおさめる事になる、豊臣秀吉とねねの家庭でした。利家とまつの家庭とは違い、秀吉一家は子宝に全く恵まれなかったのです。

その後、秀吉は多くの側室を取りますが、それでも子宝に恵まれませんでした。最終的に淀殿が子を孕みますが、なぜ淀殿だけが孕む事ができたのか。

真実は闇の中ですね、きっと。そんなわけで、あまりにも不憫に思った利家が、次に生まれた子を養子にやる、と秀吉に約束したとか。

もしくは、秀吉が懇願して養子にもらったとか。大河ドラマ「利家とまつ」では、あまりにも不憫なねねに、まつが約束した事になっていましたね。

どちらにしろ、前田家は羽柴家と約束をして豪姫を養子にやったという事は確かなようです。

目に入れても痛くないとはこのこと

羽柴家に養子に出された豪姫は、なんと結婚する年まで自分が養子だとは知らなかったそうです。それだけ秀吉とねねがべた可愛がりしていたのですね。

そばにいた利家とまつも、この事をずっと黙っていたのでしょう。それが豪姫の幸せに繋がると信じていたからでしょう。

とにかく溺愛されながら豪姫は育ちました。秀吉は戦に出ても豪姫の事が気になって仕方なく、

「達者で暮らしているか? ちゃんと食事もとっているか? おととより」という手紙を送っています。本当に気になって仕方がないのでしょうね。

もともと秀吉は筆まめではありますが。

そんな秀吉の残した手紙の中には、豪姫がもう少し大きくなってからではありますが、

正室のねねにあてた手紙の中に「豪姫が男だったら関白を譲るのに」だとか、「お前さま(ねね)よりも上の位を授けようと思う」だとか書かれていたそうで。

もっともねねも豪姫を溺愛していましたから、きっとそんな手紙でも「それはよい案ですね」と答えていたのかもしれませんね。

このように幼い頃から溺愛され、さらには父親がとんとん拍子に出世し、あっという間に天下をおさめてしまいました。

すべての富を集めた大阪城の中で、豪姫もまた豪華絢爛な生活をしていました。普通、こんな境遇にいたら子供はどんな風に育つでしょうか。

……そうです。めっちゃ御金遣いの荒いセレブなお姫様になっちゃいます。どうやら豪姫もその類のようでして。

その後、宇喜多秀家に嫁いだ豪姫ですが、すぐに宇喜多家の財も使い果たしたとかどうとか。噂でしかありませんが、あってもおかしくない話です。

ですが、だからといって正確に難ありというわけではかったようです。

豪姫は両親の愛を一身に受けて育ったせいか、いわば純粋無垢なお姫様だったのではないでしょうか。

ですから、豪快にお金を使っても、きっとそれが当たり前だったので悪気もなかったのでしょう。

秀吉による豪姫の溺愛ぶりは、大人になってからも続きます。

結婚した後の豪姫が、産後の日より悪く病に伏せってしまった折に、どうやら狐が憑いているのでは、と言われました。

それを聞いた秀吉は、すぐさま稲荷大明神に手紙……というよりは、もはや脅迫状にも似た手紙を送ります。

「いますぐに豪姫の病を治さなければ、日本中の狐を狩ってしまうからな!」という内容でした。

狐を信仰しているお稲荷さんにしてみたら、大変な事です。すぐさま祈祷を繰り返したに違いありません。

もし豪姫の病が治らなかったら、きっと秀吉は狐を狩りまくり、今の時代にも生息している狐がいなかったかもしれませんね。

宇喜多秀家と豪姫・転落まで

豪姫が15歳になった時、宇喜多秀家と結婚する事になりました。宇喜多秀家とは、豊臣秀吉の猶子になります。

これは相続権のない養子という事ですね。秀吉はこの秀家をとても気に入っていて、だからこそ豪姫の嫁ぎ先にと思ったのです。

秀家は当時、類をみない美丈夫だったとか。身長も高く美男子、美しく育った豪姫に容姿の面でもぴったりでした。

二人はとても仲睦まじい夫婦だったそうです。二人の間には子供も生まれました。二男二女だと言われています。

見目も麗しく、豪華絢爛な佇まい。きっと、当時、話題の夫婦だったのではないでしょうか。

二人の愛情は、この後におこるどんでん返しの後も、ずっと続きます。それは二人が死を分かつまで続きました。

さて、そのどんでん返しですが……。

1598年。豪姫が24歳の頃、育ての親、豊臣秀吉が亡くなってしまいます。この事から、豪姫は人生最大の不幸に見舞われるのです。

1600年、天下分け目の関ヶ原。秀吉の猶子として秀吉に大恩ある秀家は、もちろん西軍につきました。当たり前の事ですね。

しかしそれが間違いでした。戦いは東軍、徳川の勝利。西軍についていた秀家は、とにかく逃げました。

途中、落ち武者狩りに出会ってしまいますが、その時の武将・矢野五右衛門はあまりにも秀家が不憫になり、しばらく匿ってやったのです。

その後、さらに秀家は落ち延び、最終的には薩摩の島津に匿われました。ですがそれも長くは続きませんでした。

島津が秀家を匿っているという噂がたったため、島津側は仕方なく秀家を徳川へ引き渡すしかなくなったのです。

この時、本来なら死罪になるところですが、島津家、ならびに縁者である前田家の懇願もあり、命だけは助けてもらえる事とになりました。

こうして宇喜多秀家と二人の息子は、八丈島へ流刑となったのです。この時、豪姫も共に参ると言い続けていたそうなのですが、それは許されませんでした。

豪姫は仕方なく実家である前田家・金沢藩に向かう事になりました。

宇喜多秀家と豪姫・永遠の愛

さて、関ケ原の戦いのあと、実は二人の間に一人の姫が生まれています。冨利姫がその姫です。冨利姫は豪姫が金沢に戻ってから生まれたと言われています。

すなわち、関ケ原の戦いの後に宿した子なのです。ではいったいどのタイミングで宿したのでしょうか。

それは、秀家が島津家に向かう直前、一時期を大阪で過ごしていた事がありました。その時に二人は密会し、お互いの愛を確かめあったのでしょう。

戦国の殺伐とした世界で、なんともロマンティックな話です。この時に宿した冨利姫は後に、伏見宮貞清親王の妃となります。不思議な運命ですね。

ちなみに冨利姫は、豪姫の兄、前田利長の養女として嫁ぎました。

冨利姫はその後、親王が亡くなったあと金沢に戻り、とある住職に再嫁します。

ところで、大阪で最後の別れをした秀家と豪姫。二人はその後、もう一度会う事ができたのでしょうか。

残念ながら、二人はそれが今生の別れとなってしまいました。豪姫はずっと、夫と二人の息子の罪が解かれ、もどってくる事を祈っていました。

そして徳川幕府の許しを得て、一年おきに米や金、衣類などを八丈島に送り続けていたのだそうです。

こうして、ずっと夫を待ち続けて、そしてさらには離れていても支え続けた豪姫は、若いころの豪華絢爛さがなくとも夫との愛を貫き、再婚せずに晩年を過ごしまして。

そして、1634年61歳で死去。キリシタンでもあった豪姫の洗礼名はマリア。マリアが亡くなった事は、バチカンにも伝えられたということです。

彼女のお墓は実の父、前田利家とまつの墓と共にあるそうです。

それから約20年後。1655年。宇喜多秀家は八丈島で死去します。秀家が亡くなるまでに罪を許してもらったのですが、秀家は八丈島で暮らす事にしたそうです。

普通、こうした流刑になった武将などには、水汲み女という……

いわゆる現地妻のような女性をそばに置くのですが、秀家に関する記録にそのような存在は見当たらないという事です。

秀家もまた、ずっと豪姫を思い新しい妻を娶らなかったのでしょう。離れていても二人の愛は永遠に続いていたのです。

やっと夫と共に

現在の八丈島には、秀家と豪姫の像があります。

よく秀家が釣りをしていたと言われる大賀郷の南原海岸には、西の方角、つまり二人が仲睦まじく暮らした備前の国が見える方向に向かって、仲良く並んで座っているのだそうです。

秀家の墓は八丈島にあり、今でも子孫が守っているのだとか。

豪姫は長くもう一度二人一緒にと願っていたのでしょうから、今、並んで座り懐かしい国を見ている事で、幸せをかみしめているのかもしれませんね。