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戦国武将の中で優しい性格、家臣想いで有名な武将5選

戦国武将というのは織田信長に代表されるような勇猛なイメージですが、実際には家臣思いのとても優しい性格の武将が数多くいました。

家臣に優しいのは実際に戦うのは家臣なので当然ですが、一国一城の主であるのに下々の者にまで心配りをするのは素晴らしく、現在でも理想の上司で名前がよく挙がっています。

横柄な態度で家臣を困窮するのは上になるとなりやすいのですが、優しさを失わずに家臣に慕われた武将には誰がいるのでしょうか。

徳川家康

徳川家康とは戦国時代の日本を平定して戦乱の世を終わらせましたが、ここまで強大な力を持てたのは家臣から広く慕われていたからです。

徳川家康は子供の頃から長きに渡って今川義元の人質生活を送っていて、人の苦しみをよく理解していました。

この人質人生を送っていたために人に対する優しさを持っていたのは、北近江を治めていた浅井長政も同じだと言えます。

徳川家康は百姓が苦労して米を作っていることを知っているので、三河にいる頃は白米はあまり食べずに麦飯を常食としていました。

また身分の低い家臣であっても呼び捨てで呼ぶことはほとんどなく、敬称や役職名で呼んでいたそうです。

そのために家康のためには命を捨ててもいいという家臣がとても多く、戦上手として有名になったのは結束力の高さからでしょう。

毛利元就

毛利元就は戦国一の知略家で謀略と乗っ取りで領地を拡大していますが、三人の息子にも協力していくことを常に言っていて、

正室をとても愛して正室がいる間は側室を一人も持ちませんでした。

この毛利元就には家臣がよく接見に訪れていたのですが、そのために常に酒と餅を所持していたそうです。

これは酒好きな家臣には酒を振る舞い、下戸の人には餅で相手をもてなすための配慮です。

酒を振る舞うのは相手を接待するための常套手段ですが、酒が苦手な人についても考えていた人はあまりいないでしょう。

尼子義久

毛利元就のライバルで出雲地方を治めていた武将であり、毛利元就が中国地方を治める前には周防の大内義隆と共に中国地方の覇権を争っていた大名です。

この尼子義久は気前がいいことで家臣から慕われていて、家臣が尼子義久の持っているものを欲しがるとプレゼントしていました。

自分が来ている服でも相手が気に入ったような言動をすると自ら差し出し、相手が喜ぶことをしたがる人物です。

この優しさは家臣にも十分に伝わっていたようで、山中鹿之助という家臣は尼子家が二度滅亡しても復興するために尽力していて、

下剋上が当たり前の戦国時代でここまで家臣に愛されるのは凄いと言えます。

島津義弘

島津義弘は薩摩藩主の島津義久の弟であり、猛将として徳川家康が最も恐れた武将です。

島津義弘というと関ケ原の戦いで西軍についていたので敗戦濃厚の時、退路を断たれて絶体絶命の状況になると正面突破で逃亡することを選択し、その勇猛果敢さで東軍を騒然とさせています。

この正面突破が可能だったのは命を張って守ってくれた家臣がいるからで、どんなに負傷しても島津義弘が逃げられるように敵軍に食らいついていました。

大将のために命を捧げるのは家臣としては当たり前だと言われますが、それを実践できたのは島津義弘の人望があったからです。

島津義弘は朝鮮出兵をした時には家臣が寒さで震えていると自ら焚き火をして、家臣の体を温めることに奔走していました。

そのため他の兵が寒さのために震えて体調を崩していた時、島津義弘の軍だけは何ともなかったという話が伝わっています。

これだけではなく島津義弘は家臣に対する思いやりが尋常ではなく、島津義弘が死去していた時は殉死が禁止されていたのにも関わらず、13人もの家臣が殉死したというのは驚異です。

丹羽長秀

丹羽長秀は織田信長の重要な役職を担っていて、信長亡き後は豊臣秀吉に協力して天下統一に尽力しました。

長秀の素晴らしいところは決して自分が率先して前に出ようとはせず、常に自分の仕事を責任を持ってやり遂げていたところです。

そのために家臣からはその誠実さで一目置かれていて、堅実に仕事を行う姿勢に上司からは絶大な信頼を受けていました。

織田信長は丹羽長秀のことを「米の五郎左」と呼んでいましたが、これは米は日本人にはなくてはならない中心的な食べ物であり、

織田信長がどれだけ丹羽長秀を重用していたのかわかります。

豊臣の姓を名乗る前の「羽柴」という名前は織田家の家臣からきていて、丹羽長秀と柴田勝家の一字から取ったのは有名な話ですが、

柴田勝家よりも丹羽長秀の方が先なのは秀吉からの信頼が厚かったからです。

丹羽長秀は秀吉のやることには少しも文句や異議を唱えませんでしたが、死後に自分の内臓を秀吉に送り付けるようにしていたのですが、そこにはどんな意味があったのでしょうか。

豊臣秀長

豊臣秀長は豊臣秀吉とは母親が同じで父親が違う異父兄弟であり、幼い頃より頭脳明晰で優しい性格の持ち主でした。

秀吉は新たにできた父親との折り合いが悪くて家を飛び出した後、出世して武士になって「ねね」と結婚する時に戻ってきます。

そこで秀吉から秀長に自分の助けになってくれるように頼みこみ、それから死去するまでずっと秀吉の補佐に徹していました。

秀吉は気難しいところがあって頼み事をしたい場合にも接見はせず、人当たりがよくて思慮深い秀長を仲介することが多かったようです。

秀長は秀吉に頼まれたために武士になりましたが、本当は百姓の暮らしに満足していて一生を百姓で通すつもりでした。

出世欲が全くなかったのですがその能力から100万石の大名になり、寺社が多くてそれまでは誰が領主になってもうまく治められなかった大和・和泉・紀州を秀長が治めていた時は問題が発生しませんでした。

秀長は暴走する傾向が強かった秀吉のブレーキ役になっていましたが、秀長がいなくなると秀吉は朝鮮出兵・千利休切腹・九州討伐を行い、秀吉の行った悪い政策は秀長の死後に起きています。

秀長が長く生存していれば豊臣家の没落はなかったという見方もあり、どれだけ秀長が豊臣家にとって大切な人物だったのかわかります。

まとめ

性格的な温和で寛大な人は戦国時代では突出した活躍ができにくいものであり、徳川家康のように一部を除いてほとんどがあまり広く知られていません。

力を持つと自分の力を誇示するために無茶な行動をしたがるのですが、誠実で真面目な人は常に他の人を見ることができて人望が厚くなっています。

いい人物ほど長く生きられないというのを実践したようになっていますが、歯止めになる人物がいたから戦国時代でもそれなりにまとまりがあり、

江戸という太平の世の中に繋がっていったのでしょう。