豊臣秀吉の一番の家臣は誰かと問われたら、まず思い出すのがこの石田三成ではないでしょうか。
幼い頃から秀吉に仕え、天下分け目の関ヶ原では西軍の大将を務めました。
とても優秀な人材でしたが、いかんせん、他人とのコミュニケーション能力が圧倒的に低い武将としても有名ですね。
そんな石田三成の性格や最期、生涯を見ていきましょう。
石田三成と豊臣秀吉
石田三成は1560年に生まれました。誕生日は不明のようです。
生まれたのは近江国坂田郡石田村。今でいう滋賀県長浜市石田町にあたります。
父は石田正継。兄に石田正澄がいます。幼い頃からとても利発で頭の回転の速かった三成は、幼いころ、地元の観音寺にて小姓をしていました。
そこへ秀吉がやってきます。鷹狩りの帰りにのどが渇いたので立ち寄ったのです。そして、寺小姓であった三成に茶を所望しました。
すると、三成は大きな茶碗にぬるいお茶を入れて持ってきました。次に、やや小振りの茶碗にやや熱いお茶を。最後に、小さな茶碗に熱々のお茶を入れてもってきたのです。
喉が渇いているという秀吉が、まずはごくごくと飲んで喉の渇きを癒せるように。
そうして少しずつ熱さになれてもらい、最後に本来の茶の味が楽しめる温度の茶を出してきたわけです。
この事に感服した秀吉は、そのまま三成を連れ帰り家臣にしたという話です。これが有名な「三献茶」という話です。
そんな小さな頃から、こんな風に機転が利く子だったんですね。以降、しばらくは小姓として秀吉に仕えていました。
その頃、父親の正継、兄の正澄も秀吉の家来として働いていました。親子で秀吉に尽くしていたわけです。
とても忠義に厚い三成は、死ぬまで豊臣家のために尽力しました。秀吉から受けた恩は必ず返さなければならない。そう思い続けていたのでしょう。
たとえ最後の一人になっても、そんな気持ちで……。そんな三成を秀吉もたいそうかわいがり、どんどんその地位を高めていきました。
本能寺の変のあとから、三成は周りがうらやむほどの出世をしていきます。ただこれが、後々自分の首を絞める事になるとは、思いもよらなかった事でしょう。
この三成の出世に関して、同じように幼い頃から秀吉の傍で働いていた加藤清正や福島正則などの武闘派などは、自分たちは戦前で命を賭けて戦っているのに、
なぜ戦わない三成の方が出世するのだ、とかなりの不服があったようです。この頃から、三成は「独り」になりつつあったのでした。
コミュ力「0」の戦国武将
映画やドラマなどで石田三成を見ていると、いつもツンツンしているイメージがあります。
嫌味を言わせたら日本一、とまで思うほど、頭が賢い分出てくる言葉が辛辣だったりしていたりもします。
ただ、敗軍の将というのは、いつの時代も「悪者」にされてしまうものです。
天下分け目の関ヶ原の戦いで敗れた三成は、江戸時代になると完全なる悪のイメージに例えられていてもおかしくはありません。
だから、ちょっと嫌味ったらしくてツンツンしているイメージがあるのかもしれませんね。しかしながら、三成の場合はイメージのままではないようなのです。
実際問題、周りからは嫌われていたようです。だからこそ、関ヶ原でも負けてしまったのです。
嫌味ったらしくてツンツンしている三成は、うまく人をまとめる力がありませんでした。秀吉のようなカリスマ性がなかったのです。
ただ、だからといって三成の性格までが悪かったのかといえば、そんなことはありませんでした。おそらくですが、性格でいうときっととても優しい人だったのではないかと思います。
ただそれを上手に表に出す事が苦手で、いつもとんでもない誤解をされて物事が悪く流れてしまうのでしょう。
例えば、ずっと仲の悪かった細川忠興との一件があります。周りから見てもと、どうしてそこまで、といったぐらい仲が悪かった二人。
さすがにと思った三成は、忠興と仲直りをしようと考えます。そしてある日、忠興と一席を設けます。
忠興だとて、ずっとこのまま犬猿ではいけないと思っていたのか、この席にやってきました。しかし、待てど暮らせど三成がやってきません。
おかしいと思いながらも、イライラしつつ待っていた忠興のところに、ようやく三成がやってきました。その手には盆と、そして柿……。
三成は遅れてしまった事に関しての詫びを入れるでもなく、いきなりその柿を忠興に渡し、「食いたいなら食えばいい」みたいな事を言ってしまったんですね。
実はこの柿、忠興の大好物で、それを知った三成が用意したものなのですが……。遅れてきた詫びもせず、いきなりぶっきらぼうに渡された柿。
忠興は怒り心頭でその場を後にしたと言われています。なんといいますか……。
おそらく仲直りしたい気持ちは本当にあったのでしょうが、あれこれと画策しすぎて結局さらに怒らせてしまうという、不器用にもほどがある三成なのでした。
石田三成と交友のあった大谷吉継と直江兼続
ツンツンしていて不器用、そして口を開けば嫌味ばかり。そんな三成なのですが、実はいるのはいたのです。友人と呼ばれる人々が。
まずは大谷吉継。三成と同じく秀吉に仕えた武将で、映画やドラマ、ゲームなどでは顔に包帯を巻きつけたような、もしくは何かしらで顔を隠しているような風体で出てきます。
これは病を患っていて、顔にただれものがあり、周りから見られたくなかったものだと言われています。
この大谷吉継とは大親友という間柄で、職業も似ていた事からいつも一緒にいました。一説には衆道の間柄であったのでは?という説もあります。
それぐらい一緒にいたのです。また、大谷吉継は関ケ原の直前、三成に対して「お前は横柄な人間だから……」と話し、その行動を諫めようとしていました。
その頃の三成は、諸事情で隠居していたとはいえ、豊臣の中ではかなりの権力者。
その三成相手に「お前は横柄だ」と面と向かって言えるのですが、なんでも言い合える親友といって間違いないでしょう。
さらには、大谷との間ではこんな逸話があります。ある日、秀吉が家来を集めて茶会を開きました。それは、一杯の茶碗をみんなで回し飲みするといったもの。
その家来の中には吉継の姿もありました。みんなは吉継の病の事を知っていたので、吉継が口をつけた茶碗のあと、飲むふりをしていたのです。
……もっとも一説には、みんなが嫌がるだろうと思って吉継が唇をつけずに飲むふりをしたのですが、あやまって顔の傷から膿が茶の中に落ちた、という説があります。
だからみんなは気持ち悪がってその後、飲むふりをしていた、というものです。どちらが本当なのかはわかりませんが、ここからの展開は本当なのだろうと思います。
そうやって吉継からの茶碗を避けていた家来たちの中、三成は「喉が渇いたので早く回せ」と言い茶碗を奪い取ると、そのままごくごくと最期まで飲んでしまったのです。
これには家来は、とうの本人の吉継もびっくり。飲み終えた後「うまかったのでもう一杯いただけないか」と三成は言ったそうなのです。
こんな三成の「優しさ」に、吉継はとても感動し、何があっても三成の傍にいようと思ったのでしょうね。三成なりの優しさを吉継はちゃんとわかっていたのです。
さて、二人目は直江兼続です。「愛」の前立てで有名な越後の武将ですね。この直江兼続とも交流が深かった三成。関ケ原の際には上杉軍と組んで戦を始めました。
上杉に怪しい動きがあると家康を誘い出し、その間に三成が挙兵したのです。この上杉軍側の戦いを「もう一つの関ヶ原」とよく言われています。
直江は直接関ヶ原で三成を支える事はできませんでしたが、こうやって遠くから応援していたんですね。
三成と兼続が仲良くなったのは、ともにとても優秀な頭脳を持っており、どこか似ていると感じたからかもしれません。
三成には数少なくはありますが、それなりに交流していた武将もいて、個人的にですがなんだかホッとする次第です。そうでなければ、本当にただの悪者になってしまいますからね。
絶対的な忠義の男
先にもお話しましたように、三成の豊臣家に対する忠義は誰にも負けないほど強いものでした。
その思いが強ければ強いほど、周りから忌み嫌われていったのではないかと思います。三成の忠義を表すものとして、三成の財の話があります。
ほかの家来も同じですが、みんな秀吉からお給料のようなものをもらって生活していました。
この給料に関しても三成は、「秀吉様からいただいた財は秀吉様のもの。それを貯めておくという事は、盗んだのも同じ。よって、いただいた財はすべて使い切らなければならない」
と考えていたようで……。三成はもらった財のほとんどを豊臣家のためだけに使用したのでした。
よって、居城としていた佐和山城はずっとボロボロで、たいそうみすぼらしかったという事です。
何と言いますか、本当にとても根はいい人なのですが、それを表す方法が偏っていると言いますか、間違っていると言いますか。
もう少しだけ三成の頑固さのようなものがなければ……もう少しだけ、周りに溶け込むような努力ができる人であれば、関ヶ原の戦いも勝利した事でしょう。
関ヶ原の敗因は、何をおいても小早川秀秋の裏切りです。秀吉の妻、ねねの実の甥にあたるのに、豊臣家を裏切ったのです。
これにはさすがに三成も参ったことでしょう。大谷吉継などは秀秋の裏切りで死ぬ事になった際、「三年の間に必ずや祟りをなさん」と呪いの言葉を口にして自害したそうです。
それほどの裏切りだったわけです。もともと、関ヶ原の戦いの際には、多くの武将が徳川へとついてしまっていました。
それには豊臣温故の武将もたくさんいました。加藤清正や福島正則などもそうですね。
それら関しては戦の前から離れていたので三成もそれなりの考えを張り巡らせたのですが、秀秋に関しては戦の真っ最中に裏切ったものですから、西軍はあっという間に負けてしまったのです。
本当に悔やまれて仕方ないのですが、三成にもう少し人徳があれば……。もしかすると徳川幕府ではなく、豊臣幕府が開かれていた可能性もあったかもしれませんね。
石田三成の最期
石田三成は、関ヶ原の戦いの後、しばらく逃走していましたが、やがて家康の配下に捕らえられてしまいます。
その頃には三成の居城、佐和山城も家康に攻められていて、父と兄、そして親戚のほとんどが討ち死にしておりました。
捕らえられた三成は家康のもとに連れていかれ、その後は市中引き回しの上、打ち首となってしまいました。この時、三成はまだ41歳だったそうです。
この最後の時をもってしても、三成には数々の逸話があります。まず、死ぬ直前に、家康のはからいで真新しい小袖が送られてきました。
立派な武将であったのだから、死ぬ間際にボロの小袖ではどうしたものか、という気持ちからです。しかし、三成はこの小袖を突っぱねます。
この小袖を渡された時に「上様から……」という言葉に反応してしまったからなんですね。
三成曰く「自分の上様は秀頼様ただ一人。どこぞのタヌキを上様と思ったことは一度もない」とかなんだとか。それっぽい事を言って突っぱねたわけです。なかなかに強情です。
さらには、もう打ち首が決まっている三成。ある日喉が渇いたので水を所望したところ、あいにく水がなく。干し柿ならあるけど、という刑吏に三成はこう言いました。
「干し柿など食べたら、痰の毒になるからいらない」と。痰の毒とは、つまり腹を冷やして壊してしまうような事、といった感じでしょうか。
もう死ぬ事が決まっているのに自分の体調を気にしていたのです。これは死ぬ直前まで再戦の機会をうかがっていた三成らしい発言ではないでしょうか。
この様に、本当にぎりぎりのところまで豊臣への忠臣を見せながら、三成は斬首され亡くなったのでした。斬首された首はしばらく晒し首にされたそうです。
戦国の世の事、敗軍の将ならば仕方がない事だったのかもしれません。
純粋無垢な武将
幼い頃からとても利発で真面目、何事にも真剣に取り組む性格はあっぱれでしたが、それゆえに融通が利かず頑固もの。
少々プライドも高かったのか、周りに横柄な態度を取ってしまっていた三成は、その心の中が真っ白で純粋だったのかもしれません。
だからこそ幼い頃にかけられた恩義をずっと忘れず、豊臣家のためだけに生きたような男でした。
関ケ原の戦いから後、水戸黄門で有名な光圀公や「西郷どん」の主人公・西郷隆盛などは、この三成の忠義を絶賛したそうです。