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明智光秀の生涯やあまり知られていないエピソード~性格、死因は?~

明智光秀

「三日天下(みっかてんか)」という言葉を知っていますか?

戦国時代の最後の下剋上とされる「本能寺の変」で有名ですよね。

本能寺で織田信長を二条御新造で織田信忠を討ち取り織田政権を崩壊させて、明智光秀が天下を手に入れました。

ですが、そのわずか数日で様々な書物の記述内容では11日後や13日後とされており定かではありません。

羽柴秀吉、後の豊臣秀吉に滅ぼされ天下人の期間が短く地位や権力を維持できなっかたことからこの「三日天下」の言葉が生まれました。

そんな三日天下の明智光秀がどんな性格でどんな生涯だったのかを探ってみましょう。

明智光秀はどんな人?「三日天下」は超万能人?

明智光秀が三日天下になる前は、織田信長の重臣でした。

現代社会で言うと、企業重役の地位で社長の右腕に値し織田信長にとって何の疑いも持てない、とても信頼に置ける重要な存在だったんです。

光秀は、当代無双(とうだいむそう:その時代において、並ぶものがないほど優れていること。)と言えるほどに、それはもう文武両道で頭の回転が良かったようです。

兎に角、何をやらせても淡々とこなせる文句の付けようもない、誰もが羨む存在だったんです。

才量に溢れていた光秀は信長のお気に入りだったため、今世では有り得ないほどのスピード出世振りでそれをを妬む家臣なども多くいました。

「本能寺の変」大事件の謎

「本能寺の変」は、光秀が起こしたクーデターで有名な歴史伝ですが、これまでにも色んな説が飛び交う中、どれも推測に過ぎず現在に至るまで未だ真相は掴めていません。

文武両道で賢かった光秀は、短気性の信長から実はパワハラを受けていたための怨恨説や、誰かに操られていた黒幕説、

自分が天下人になって世の中を変えたかったため信長さえいなければ・・・の野望説などがあります。

どの歴史書籍を覗いても他にもいろんな説があるようですが結局、残念ながら真相は明確ではありません。

この先、真実が明らかになるものが見つかるといいですよね。

明智光秀の愛

歴史に詳しい方は知っている事でしょうけど、光秀は愛妻家で有名なんですよ。

側室を好まず生涯、一人の女性だけを愛し続けた男!だったようで凄くカッコイイですよね。

光秀の正室、熙子(ひろこ)は婚約後の疱瘡(ほうそう)で肌にあばた(ほうそうの痕)が残ってしまったため父親が熙子に良く似た妹を身代わりとして光秀に差し出しました。

しかし、光秀は、すぐに気づき「容貌は変わりやすいもの。だが、心の美しさは決して変わらぬ、妻は熙子どのだけだと決めている」といって妹を返し、熙子を迎え入れ生涯一筋に愛し続けました。

「あばたもえくぼ」ですね。熙子もまた、誠心誠意、光秀に尽くしました。

この時代は、上流社会においての一夫多妻(側室制度)だったので珍しい事ではあったようです。現世で一夫多妻制だったら、大家族過ぎて誰が誰がわからなくなりそうですね。

その前に、夫婦と言えるのかどうかが疑問ですが、常に妻同士の火花が飛び交い恐ろしい環境の想像しかつきませんけど・・・。

意外と光秀は、そのことを恐れていたのかも知れませんね。他にも光秀の愛は、妻を一途に愛する形だけでなく信長に対する愛も存在していたんです。

要は、LOVEとLIKEと言ったところでしょうか。信長に仕え、信長に可愛がられた恩義を自分(光秀)亡き後、子孫に至るまでもご奉公を忘れてはいけないと書き記しています。

信長に拾われた感謝と信長に一身を捧げる思いで仕えお互い信頼し合い人愛するが故に時を経て憎しみへと変化していったのでしょうか・・・謎です。

家康のスパイだった?

光秀が家康のスパイ?えっ!マジっ?と、耳を疑いますよね?

光秀が生きていたら、「三日天下」説の結末は、今まで語り継がれている内容と異なってしまいます。

だとすれば・・・いやいや!これは、一大事ですよ!

でも、もしかしたら・・・そうだったのかも?と、言うのもまんざら嘘ではないようなミステリーに迫ってみましょう。

元々、信長は家康の命を狙っていたので光秀に家康を討ち取るよう命令した、しかし、断ったが故に様々なハラスメントを受けていた。

光秀が断った理由として実は、信長に仕えながらも家康と密な関係だったんです。

実際は、本能寺の変で命を落とすはずだったのは家康側でその命を狙っていたのは信長側だったということです。

信長の戦略が家康に筒抜けで、光秀という飼い犬に手をかまれて命を落としたのは信長の方でした。

明智光秀はバツイチだった?

1546年、光秀が18歳の時、叔父の山岸光信の娘、最初の妻(正室)である千草16歳と結婚し男の子(光重)を一人授かりました。

その後、千草が早死にし1553年、光秀が26歳の時に継室として本家の妻木範煕の娘、煕子(ひろこ)19歳と再婚し正室として迎えました。

私見ですが、千草と死別していなかったら「本能寺の変」は起きなかったのではないかと思ってしまいました。

光秀の性格

先述を総合して言える光秀の性格は、一言でいうと「頭のキレる口の堅いお方」でしょうか。

人を愛する心は、とても繊細で一途な反面、心は開かず裏と表を使い分ける新参者で、人を欺く人物だと思います。

そうなると、「几帳面で誠実な愚か者」と言った方が良いのかもしれませんね。

しかし、見方によっては「内面を明かさない八方美人」のような部分も持ち合わせていたのかも。

血液型は「A」か「AB」のどちらかだと思います。

明智光秀の生涯(年表式)・死因は?

1528年:美濃国、現在の岐阜県可児、明智城主である明智光綱・お牧の方の間に誕生したとされています。

幼少期~少年期は、ほぼ不明で、様々な説がありますので省略します。

1546年:18歳の時、最初の妻千草16歳と結婚、死別しバツイチになる。

1553年:26歳の時、熙子19歳と再婚。

1556年:斎藤義龍が明智城を攻撃し落城したため浪人となり、その後朝倉義景に10年仕え1566年、39歳の時足利義秋の幕臣となる。

1568年:織田信長に足利義昭の仲介役を務める。

1571年:織田信長より近江国滋賀郡50000石を与えられ、足利義昭と決別し、織田信長の直臣となり坂本城主となる。

1575年:信長の指示で朝廷より「惟任の姓」と「日向守」を賜り、明智光秀の正式名「惟任日向守光秀」となる。

1579年:八上城攻略の為、丹波亀山城に入り翌年、丹波国攻略の報酬として丹波一国290000石を与えられ、近江国滋賀郡の50000石と合わせて34万石となる。

1582年:武田攻めに参戦したが戦うこともなく信長と共に帰還。

信長に招かれた家康の接待役を任されたが、途中で御役御免となり出雲国・石見国への出撃を命じられ出陣するも途中で行き先を京に変更し、本能寺に宿泊中の織田信長を襲い、自刃に追い込む。

二条御所に籠城した織田信長の嫡男・織田信忠も同様に自刃に追い込んだ。(本能寺の変)

その数日後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に呆気なく敗れる。(山崎の戦い)

戦いに敗れた光秀は居城(坂本城)に敗走している途中で小栗栖で落武者狩りに遭遇し槍で突かれ家臣・溝尾茂朝に介錯させ自刃した。享年55歳だった。

死因:槍で負った傷は致命傷で、死を覚悟した光秀は家臣の手を借りて切腹しました。

光秀が襲撃されたとされる場所は、京都の小栗栖(京都市伏見区)で「明智藪」と呼ばれ石碑が建てられています。

まとめ

明智光秀について、私見を含め光秀のヒストリーとミステリアスにスポットを当ててコンパクトにまとめてみました。

個人的に思うのですが、全ては家康の企みでその策略に光秀が当てられたのではないかと思ってしまいました。

確かに、豊臣秀吉なら兎も角、徳川家康がそこまでの思惑や考えがおよぶ人物かと言われると首を傾げます。

もしかすると、秀吉の企みで光秀が利用され関わった人物は秀吉の掌の上で転がされていたのかも・・・そんな勝手な想像をしてしまうほど謎に包まれています。

歴史の記述に基づき推測に過ぎない点も多くあります。

ですから、真相は未だ解明されないまま「本能寺の変のミステリー」として憶測で判断された部分もあるのではないかと思います。

あくまでも、一個人の解釈ですが・・・今後、何らかの証となる記述書などの発見で、新事実が明らかになることを願う事と同様に楽しみでもありますね。