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伊達政宗という男の生涯~逸話、性格、子孫について~

伊達政宗

「独眼竜正宗」という響きは、歴史を好きな人、だけではなく、そんなに歴史が好きではない人でも知っているのではないでしょうか。

隻眼だった伊達政宗の別称です。そう、伊達政宗という武将ほど、日本で知られている武将はいないのではないでしょうか。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とはまた別に、真田幸村のように大人気な武将なのです。

今回はそんな、伊達政宗の性格 、子孫や目の病気などについてお話させて頂きます。

遅れてきた英雄・伊達政宗という漢

独眼竜こと伊達政宗は、1567年、16代仙台藩主伊達輝宗の子として生まれました。その年、日本では織田信長が天下布武の号令を出した頃です。

信長という戦国時代の怪獣のような人物が、もうすでに輝いていた時代でした(ちなみに、伊達政宗と同じく戦国時代の武将として大人気の真田幸村と同い年になります)。

政宗がやっと10歳という若さで元服した頃、日本では織田信長が中国攻めを開始するという時代に突入します。信長の天下平定が着実に進んでいたという事ですね。

しかし残念ながらこの五年後、信長は本能寺の変にて明智光秀の謀反に合い亡くなってしまいます。そのころ、やっと政宗は15歳でした。時代はすぐに豊臣秀吉の時代に変わります。

政宗がいよいよ力を見せつけてきた頃、もはや日本は豊臣が支配しつつあったという事です。

この事が、遅れてきた英雄、と呼ばれる所以ですね。例えば、政宗があと10年早く生まれていたら。時代はまた変わったものになっていた可能性がとても高くあります。

伊達政宗は文武両道で何に対しても優れており、あっというまに奥州を平定する力もあります。

もし、信長や秀吉と同じ時代に力を持っていたら、今の世も少し変わったものになっていたかもしれません。

そんな政宗ですが、生まれてすぐ、五歳の時に疱瘡(天然痘)を患い右目の視力を失ってしまいます。右目の黒いところがなく真っ白になってしまったという話です。

それゆえの、あの眼帯姿だと思ってしまいがちですが、実はあの眼帯姿は昭和になってから作られたものの可能性が高いのです。

様々な書籍には、政宗が眼帯を着用していたという記述は残されていません。

もしかしたら、包帯で目を覆っていた可能性はありますが、あのカッコイイ眼帯姿はつい最近できたものだったんですね。

「独眼」になってしまった理由

先ほどもちらりと述べましたが、政宗が碧眼になってしまったのは、五歳の時に患ってしまった疱瘡、今でいう天然痘になってしまったからです。

今現在、天然痘ウィルスは絶滅しています。1980年にWHOが根絶を宣言しました。それ以後、今まで天然痘患者は見つかっていません。

そもそも天然痘というものがなんなのか少しだけお話いたします。天然痘は昔からある逸り病です。紀元前からあったそうです。

死に至る病として人々から怖れられ、運よく治ったとしても醜い疱瘡痕が残るので忌み嫌われていました。

歴史上の人物でこの病にかかり亡くなった事で有名なのは、フランスのルイ15世です。フランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットの義父になります。

その時代にもあった病気なわけです。政宗は運よく助かりましたが、右目の視力を失いました。

この姿を見た母、義姫はそれ以降政宗を嫌い、二人の関係がこじれてしまったという話があります。

それほど、醜かったのかもしれません。現に、政宗は生前、自分の自画像を描かせた際、右目も黒く塗ってほしいという要望を出していたらしいのです。

政宗自身、かなりコンプレックスになっていたのではないでしょうか。ちなみに、「独眼竜」という呼び方ですが、こちらはどうやら江戸後期ぐらいから呼ばれだしたようですね。

この頃に儒学者・頼山陽の漢詩に書かれていたそうです。しかしながら、この「独眼竜」という名をもっと昔の人も使っていました。

中国の唐王朝末期。軍事的才能にずば抜けていた李克用という首領のあだ名でした。頼山陽はこの李克用の姿を思い描きながら、政宗の事を書いた漢詩を作ったのではないでしょうか。

余談ですが、他にも隻眼で有名なのは、中国「三国志」の夏侯惇がいます。矢で射抜かれた片目を、親からもらったものだからと飲み込んだという話ですから、凄すぎますね。

どうやら隻眼の武将と呼ばれる人物は、かなり度胸があり武の才能に秀でていたようです。

伊達政宗の性格

一般的に伊達政宗と聞いて、どんな性格だと思われていがちなのでしょうか。ユーモアがあり大胆。

イケイケゴーゴーな感じの性格だと思われがちではないでしょうか。はたまた、そんな事はない。伊達政宗公はとても筆まめで、繊細な人である、という話も聞きます。

果たして、どちからが本当の政宗なのでしょう。正解は、どちらも、と言わざるをえません。ここで、今の世の中だからこそわかった、政宗のパーソナルデータをご紹介します。

大河ドラマ「独眼竜正宗」の一番最初の映像は、衝撃的なものから始まります。

それは、伊達政宗の墓から出てきた政宗の人骨。その人骨から様々なデータを引き出した、というものでした。

それによると、政宗の血液型はB型なのだそうです。すごいですね。そんな事までわかってしまうんですね。

そして身長は159センチ。今でこそ低めの男性身長かもしれませんが、当時は平均的なものだったようです。

体形は武士。キレイに筋肉がついていただろうと思わせる感じだったそうです。なにをもってしてそうなのかは難しくてわかりませんが、調べた偉い先生方曰く、そうなのだそうです。

頭は少し大きかったようですが、それでも面長な感じで、結構ハンサムだったのかもしれませんね。

さて、話は血液型に戻ります。政宗の血液型はB型でした。では他の歴史上の人物でB型だった人は誰がいるのでしょうか。

ほかには、源義経、織田信長、坂本龍馬、西郷隆盛がB型だったという話です。この世人、さすがB型と言わざるをえないのが、みんながみんな、変わり者だったという事ですね。

義経は天狗と呼ばれるほど身軽で女装したりだなんだで色々ありました。信長は言わずもがな。

尾張のうつけです。坂本龍馬もその時代に生きる人ではなく、もっと先を見ているような変人でした。

最後に西郷隆盛。大河ドラマ「西郷どん」でもありましたが、人とは違う何かを思いつき、実行する力がある。

まさにB型の根底にあるものですね。そう考えると、政宗もまた周りが思いつかないような事を次々と考えて実行していった変わり者だったと言えます。

「伊達者」とは、政宗が人とは違うおしゃれに凝っていた様子からつけられたものです。

とにかく、やることなす事が派手だった政宗ですが、かたやとても筆まめで様々な折にきちんと文書でお礼を述べたりと、律儀な人でもありました。

何を考えて、どう動くのかわからない。そんな政宗に、当時、政宗の周りにいた人たちはきっと、政宗の一挙一動にドキドキしていたのではないかと思います。

政宗を守る双璧

伊達政宗を語る時に忘れてはならないと思うのが、政宗の傍で常に政宗を守り続けた奥州の双璧です。

一人目は伊達成実。成実は政宗の従兄弟になります。が、なかなかに家系はややこしく。成実の父親は政宗の祖父の弟になります。

そして母は政宗の父の妹になります。つまり、叔父と姪が結婚したということですね。

当時ではあまり珍しくないのですが、今で考えるとかなり不思議なものがありますね。

そんな成実は、政宗を武力で守る壁でした。もう一人は片倉景綱。通称「小十郎」と言ったほうが、世間では有名かもしれません。

成実が「武」であるなら、小十郎は「智」。小十郎は政宗の参謀的な役割をずっと果たしてきました。

小十郎は政宗の乳母だった喜多の弟です。政宗が生まれた頃、小十郎はすでに10歳前後でした(ちなみに成実は政宗より一つ年下になります)。

こういった年齢的なものを見ると、きっと小十郎は二人のお兄さんのような存在で、二人の面倒を見ていたのではないでしょうか。

政宗、成実、小十郎の絆は、とても深いもののように感じます。成実は途中、突然出奔してしまいます。

原因は未だ不明のようですが、様々なに説があるようで。それでも、小十郎を中心とした面々に説得され、数年後に伊達家に戻ってきます。

その間、秀吉やら家康らからの誘いもあったようなのですが、すべて断っているあたり、政宗との絆が伺われますね。

伊達家に戻ってから政宗との絆はますます強くなり、政宗にいたってはなんの用事もないのに「顔が見たくなったから遊びにきなよ」といったような手紙を送ったりしています。

それほど仲が良かったという話です。

政宗の子孫など

「梵天丸もかくありたい」とは、大河ドラマ「独眼竜政宗」で幼い政宗が述べた言葉です。大流行しました。実は、この名前にもちゃんと意味がありまして。

政宗の母である義姫がある夜、夢の中で隻眼の行者から「胎内に宿を貸してくれ」と言われました。

義姫は自分だけで決めるわけにもいかない(胎内に宿すということは、伊達家の長子となるという事)、旦那様(輝宗)に聞いてみないと、と返しました。

そして律儀に輝宗に話したところ、「それは間違いなく吉夢だ!」と喜んで承諾しました。

すると、次の夜にまた隻眼の行者が現れて尋ねてくるので、大丈夫だと答えた義姫に、行者は感激して「梵天」を授けたそうです。

梵天というものは何かと言いますと、祈祷に用いる幣束になります。ようするに、神様の依代ですね。

そのあとすぐに懐妊。生まれたのが政宗です。政宗が五つの頃、夢の中の業者と同じく隻眼になってしまいました。

そのことから、その行者は満海上人だったのではないかとされ、以後、政宗は満海上人の生まれ変わりと言われてきました。

そんな政宗は13歳の時に、12歳の愛姫を娶ります。この婚姻には大人たちの様々な思惑が絡んでいたようですが、二人の仲はとても良かったそうですよ。

政宗にも側室はいましたが、愛姫をかなり大事に扱い気遣っていたようです。二人の間には後にの正室となる五郎八姫をはじめ、仙台藩二代目藩主となる忠宗。

それから宗綱、竹松丸と、四人の子を設けました。しかし、子はこれだけではありません。側室に産ませた子が他に12人もいました。全部で16人。すごいですね。

さて。今でもその伊達家は続いてるのでしょうか。答えは「はい」です。しかも、他の家系と比べてかなり「濃い」感じで続いているようです。

現在は18代目の伊達家当主であり、伊達氏宗家34代の方がいらっしゃるようで。名前を伊達奉宗さんとおっしゃるそうです。大河ドラマ「独眼竜政宗」の監修も手掛けたそうですよ。

なんと、伊達家では今でもお正月になると旧家臣の家の人たちが「ご機嫌伺い」として伊達家にやってくるのだそうです。

これ、すごくないですか? 未だに……と思われるかもしれませんが、この旧家臣の子孫の方々、政宗が自分たちを大切にしてくれたから今の自分たちがある。

だからこその恩を欠いてはならぬ、といった考え方なのだということです。なんというか、本当に凄いです。

ちなみに。お笑い芸人のサンドウィッチマン・伊達みきおさんも子孫で有名ですね。ただし、こちらは分家筋にあたります。政宗の九男、伊達宗実がご先祖のようです。

しかし、こうして子孫が今も活躍しているのを見ると、政宗は本当に凄かったんだな、と思わざるをえませんね。

最後に

独眼竜政宗という漢は、本当にもう少し早く生まれてきたら、きっと天下を治めていたのではないかと思います。

政宗に関しては他にもさまざまなエピソードがあり、もっともっと紹介したいのですが、今回はここまで。

政宗に興味を持たれる方が一人でも増えるといいなと思います。