五郎八姫という名前を知っていますか?ごろはちひめ?いいえ、これで「いろはひめ」と読みます。
大変美しく聡明であったという五郎八姫は、伊達政宗の長女として生まれました。
今回は、彼女の生涯についてまとめたいと思います。
五郎八姫の名前の由来は?
伊達政宗と正室・愛姫との間の長女である五郎八姫。彼女は、政宗にとって初めての子供でもありました。
当時、家督を相続させ、家を後世に残すという意味でも男児の誕生はどんな家でも期待されていました。
政宗もその類に漏れず、「生まれてくるのは男子」と決めてかかり、男児名しか考えないで愛姫の出産を迎えました。
しかし、生まれたのは玉のように可愛らしい女の子でした。鷹揚な政宗は、考えていた名前をそのまま女の子につけ、「五郎八姫」としました。
このことは、伊達家の記録でもある「伊達治家記録」にも記されています。
五郎八姫とはどんな人物?
男児であることを期待されて誕生した五郎八姫。
その期待以上の聡明さ、美しさであったらしく、父・政宗は「五郎八が男であったなら」と常々嘆いていたほどだったそうです。
また、弟で、その後仙台藩二代目藩主となる伊達忠宗も、姉の賢さを頼りにしていたようです。
賢さを讃えられる一方で、京都生まれ京都育ちである五郎八姫は、なかなか東北弁や仙台気質になじむことが出来ず、
後述しますが離婚して帰ってきてからも苦労したことがわかっています。
現代でも方言交じりの言葉を喋るとからかったり、酷いとよそ者扱いをするような地方もあります。
今よりももっと他所だという意識の高かった江戸時代、五郎八姫の苦労は想像に容易く感じます。
婚姻の前、初めて仙台を訪れる
さて、五郎八姫の婚姻の相手として挙げられたのは、征夷大将軍徳川家康の六男、松平忠輝でした。
本来ならば、五郎八姫の住んでいた京都伏見からはそのまま江戸に入府した方が距離的にも負担的にも楽なのですが、敢えて父政宗は、一度彼女を仙台に帰省させます。
当時のことは、「伊達治家記録」にも以下のように詳しく書いてあります。
「七月の盂蘭盆会中に帰ってきた五郎八姫のため、政宗は仙台中の町屋や武家屋敷に燈籠をかけさせ、その様子を夜の仙台城の櫓の上から姫に見せた」と。
今よりももっと灯りが少なく、月明かり星明りがメインだった江戸時代。
暗闇の中にたくさんの燈籠が灯る光景は、五郎八姫にどれだけの感銘を与えたでしょうか。父・政宗の思いが偲ばれます。
家康の六男、松平忠輝と婚姻。2年後に離婚
聡明で美人と評判の五郎八姫は、家康の六男である松平忠輝と婚姻します。
当時の大名間の結婚がほぼ政略結婚で、仮面夫婦状態の夫婦も多い中、忠輝と五郎八姫はとても仲睦まじい夫婦だったようです。
正史では、残念なことにこの二人の間に子供は生まれなかったことになっています。
穏やかな結婚生活を送っていた二人ですが、予想外の出来事が起きます。それは、表向きは忠輝の不行跡を理由とした改易と流罪です。
忠輝はこのとき、五郎八姫を連れて行けず、結婚後わずか二年で幕府により強制的に離婚をさせられます。
仲のいい夫婦であっただけに、五郎八姫の悲嘆が想像できます。
再婚をことごとく断った五郎八姫、その理由は?
忠輝と離婚させられた時、五郎八姫はまだ十八歳。結婚の早い江戸時代でも十分に若い年齢です。
勿論、父の政宗は離縁させられた娘を哀れに思い、何度も再婚の話を持ってきますが、五郎八姫が再婚することはありませんでした。何故でしょうか。
実は、仙台藩は当時、スペインとの交易を行おうと画策していたり、実際に支倉常長を使者としてスペインに送るなど、海外との交流に積極的でした。
キリスト教にも寛容で、五郎八姫だけでなく、その母の愛姫もキリシタンであったと伝えられています。
どうして海外と積極的につながりを持とうとしていたのか。その理由は、政宗の野心にあります。
政宗と言えば、「生まれてくるのがあと二十年早ければ天下人になれた」と言われるほど、器量の大きかった男性です。
徳川幕府が成立しても、しばらくは天下を取る夢を捨ててなかったと言われています。
そのための徳川家康の六男・忠輝と娘の政略結婚でした。
しかし、それが政宗を危険視する幕府には余計脅威に感じられたのでしょう。
徳川と血の繋がりのある忠輝と五郎八姫が離婚させられたのは、この辺りが本当の理由のようです。
しかも、娘を本当の意味で思いやることなく、保身のために政宗はこの後、キリスト教の保護を止め、大規模なキリシタン狩りに乗り出し、実際殉教者も多数出しています。
キリシタンであった五郎八姫は、父のこのやり方を認められたのでしょうか。
真実はわかりませんが、彼女は父に抗うようにキリスト教の教えに従って生涯独身を貫き、以降68歳で死ぬまで仙台城の本丸西館で暮らしました。
五郎八姫と忠輝の間に子供はいたのか?
ところで、本当に五郎八姫と忠輝の間に子供はいなかったのでしょうか。
仙台の歴史研究家らの調べでは、実は離縁させられたときに五郎八姫は身篭っており、秘密裏に江戸で子供を出産後、庶子にしたそうです。
子供は男児で、黄河幽清と名乗り、五郎八姫の菩提寺、天麟院の二代目住職を務めたと言われています。
この記録は「伊達略系」という仙台藩の極秘文書に載っているそうなのですが、国会図書館で閲覧してもそのような内容が見つからず、
また、正史でもないことから、残念なことに眉唾物の伝説ではあると考えられますが、仙台では広く広まっている通説のようです。
忠輝の墓で今添い遂げる二人
江戸時代はキリスト教が弾圧された時代として知られています。現代であれば、仲が良ければ離婚などには至りません。
周囲の事情やキリシタンであった事実などで強制的に離婚されたことや、その後一生一人で過ごしたこと。江戸時代という時代に生まれた悲劇でしょうか。
夫・忠輝が眠る、長野県諏訪市のの貞松院には、五郎八姫にちなんで、いろは紅葉という木が植えられています。
生前の二人の仲の良さを物語るようですね。