武田信玄の正室であった三条夫人。世間一般のイメージは、結構悪いものではないでしょうか? なぜそんな事になったのか。
小説やテレビドラマ、映画などで描かれる三条夫人のイメージがあまりにも酷いものだったゆえ、三条夫人と聞くとプライドが高いお姫様のイメージがあるのではないでしょうか。
では本当にそうだったのか。紐解いていきたいと思います。
三条夫人と呼ばれて
三条夫人は、1521年誕生します。父は左大臣・転法輪三条公頼。いわゆる公家ですね。こちらの次女として生まれます。
三条家は清華家ともいい、太政大臣にまで昇り詰める事のできる名門中の名門です。とても笛を得意とする家柄で、三条夫人もまた笛が堪能だったのではないでしょうか。
ちなみに、なぜ三条夫人と呼ばれているのかと言いますと、本名がわからないからです。
よって、三条家からやってきた……ところから、三条夫人と呼ばれています。
三条夫人は武田信玄の、二人目の正室です。一般的に継室と言うものです。
最初の正室は妊娠中に病で亡くなってしまい、その後にやってきたのが三条夫人でした。
さて、ここでまず押さえておかなければならないのが、三条夫人の姉妹たちです。
三条夫人は三姉妹の真ん中にあたります。まず長女ですが、こちらは細川晴元に嫁いでいます。
とても朝廷に近い場所にいる家に嫁いだわけですね。そして妹は石山本願寺住職、顕如の妻です。
つまり、三条夫人は朝廷とも神社仏閣関係ともかかわりが強い夫人だったわけですね。
つまり、そんな三条夫人を正室とした信玄は、これから天下を制するのに心強い親類ができたという事になります。
信玄と三条夫人の結婚には、信玄の野望を叶えるための深い意味あいもあったのです。
武田信玄との夫婦仲
ドラマや映画、小説どを見ていると、三条夫人という信玄の妻は、とても高慢ちきで公家の出身を自慢し、様々なことで田舎育ちの信玄をバカにしている。
そんなイメージしかわかいような役だったりします。逆に、武田勝頼の生母である側室、諏訪御料人がとても美人でしとやか、そして慎ましいイメージで語られていますね。
あまりにも残念事です。三条夫人の墓所がある円光院。そこにある葬儀記録によりますと、
「心頭、火を滅却すれば、また涼し」で有名な快川和尚が三条夫人に関してこう書を残しています。
「とても美しい方で、仏への信仰も厚く、春の陽光のように温かく穏やかな人柄で周りの人々を包み込んでいらっしゃった。もちろん、信玄様との夫婦仲もとてもむつまじかった」
これを読む限り、三条夫人という人物は、決して今評価されているような高慢ちきな女性ではなかったと推測されます。
先ほどの話に少し戻りますが、三条家は笛が堪能な家柄。きっと三条夫人も幼い頃から笛を嗜んでいたと思われます。
その優雅な笛の音を、信玄はとても好んでいたという逸話があります。
まさにこれから天下を取ろうとする信玄は、都の香りのする三条夫人の笛の音を耳にしながら、意欲を高めていたのではないでしょうか。
また信仰深いところも、二人は一致していました。一説では、信玄の信仰はあくまでビジネス信仰であり、本当は信仰心などなかった、という話もありますが、果たしてどうでしょうか。
ライバルの上杉謙信にいたっては、毘沙門天の生まれ変わりだという話も出ていたぐらいです。やはり信仰心はあったかな、と思うところです。
今でもそうですが、恋人同士も夫婦も、共通の趣味があれば関係は長く続くものです。
信玄と三条夫人も、信仰心という共通の思いがあったからこそ、とても仲良く過ごしていたのではないかと思います。
ただならぬ不幸に見舞われた人生の後半
三条夫人が、テレビドラマや映画の中のように、プライド高く公家出身を自慢するような人物ではなかった事が、なんとなくでも伝わっていれば幸いです。
歴史の中ではこのように、後世になってとんでもなく間違った見方が定着してしまう人物がたくさんいます。
例えば、徳川家康の正室、築山殿などや、豊臣秀吉の側室、淀殿もその一人なのかもしれませんね。
さて、三条夫人は後世の見方とは違い、武田信玄との夫婦仲もむつまじく平和で優しい人生を過ごしていました。
しかし、40代に入った途端、三条夫人は数々の不幸に見舞われてしまうのです。
まず次男の信親。こちらは幼くして失明してしまいます。これを皮切りに、父親である三条公頼が殺されてしまいます。実は、公頼は公家は公家でも貧乏な公家でした。
ですが公家の清華家という格はとても素晴らしいもので、その名を娘たちの結婚によって「売る」代わりに、細川家や武田家、
そして本願寺などから助けてもらっていたという話があります。あながち嘘ではないかもしれません。
事実、公頼は後に、下向して地方の大内家に向かいます。下向というのは、都から地方へ移動する事です。
そうやって長旅をして地方の縁者を頼らなければならないほど、貧乏だったのです。しかしここで、公頼に不幸が訪れるのです。
大内家において、家臣陶隆房が起こした大寧寺の乱に巻き込まれて殺されてしまうのです。それを知った三条夫人は嘆き悲しみました。
三条家の者ともあろうものが、あまりにも悲しい終わりと思ったのかもしれません。
こうして、三条家は男子がいないため、断絶してしまうのです(もっとも、後に分家筋から後継ぎができて復活します)。
三条夫人を襲った不幸はこれだけにとどまりません。父親が亡くなった二年後には、三男の信之が若くして亡くなってしまいます。
まだ10歳そこらでした。立て続けに父親と息子を亡くした三条夫人。ここへ畳みかけるようにして長男、義信が父親である信玄に謀反を働いてしまいます。
これにより、義信は幽閉の後、死去。これで子供を二人失ってしまいました。
更に! まだまだ三条夫人を不幸が襲います。次に訪れた不幸は、義信が亡くなって数年後、信玄は駿河侵攻を始めます。
これが不幸ではありません。否、これも不幸への足踏みでした。これにより、駿河の名門、北条家に嫁いでいた娘、黄梅院が離縁され武田家へ戻ってきます。
夫婦仲が悪くなかった黄梅院はショックのあまり鬱々とした日々を送り、そのまま亡くなってしまいました。まだ27歳でした。
こうして三条夫人は三人も子供を亡くしてしまうのです。さすがにここまでの不幸が訪れると、どれだけ気丈な女性でも病になってしまいます。
黄梅院が亡くなって二年後、三条夫人も50歳でこの世を去ってしまうのです。
不幸は信玄のせい?
これほどの不幸を一身に浴びた三条夫人。多くの子を失ったのですが、その二人の死因は夫である信玄の行動が原因だったともとる事ができますね。
義信が信玄にクーデターを起こしたのは、信玄が駿河を攻める事を決めたからだと言われています。
駿河といえば今川・北条。義信の正室は今川義元の娘です。つまり義理の父が今川というわけです。ですから、駿河攻めには反対しました。
ここで親子の対立が起こってしまったわけですね。ただ謀反を働いたというのは、言い切るわけにはいきません。
謀反の計画を立てていたのが義信の家臣だったというだけ、という話もあります。
どれが本当かは謎に包まれていますが、このことが原因で義信は追放され、最後には亡くなってしまったのです。
さらにこの駿河攻めで、北条家に嫁いでいた黄梅院が離縁されて武田家へ戻されてしまいます。この事が原因で伏せってしまい、黄梅院も死去。
つまり、信玄が駿河を攻める事がなければ、二人とも死なずに済んだのかもしれません。はたして三条夫人は、この事についてどう考えていたのでしょうか。
すべてを戦国の世のならいと思い、粛々と受け止めたのでしょうか。それとも……。
こういった事も原因で、武田信玄との不仲説があるのかもしれませんね。ただ思う事は、やはり信玄の事を多少恨む事はあっても、この時代の女性です。
なにが起こっても仕方がない時代です。今の我々とは違い、心構えがまず違うと思うのです。
心の中では悲しくて夫を恨む気持ちがあっても、それを表に出す事なくいたのではないでしょうか。嫁いだ先にならうのが、その時代の常だった事でしょうから。
三条夫人の死後、信玄は…。
三条夫人が亡くなった三年後、武田信玄も亡くなってしまいます。この時、信玄は家臣にこう告げました。
「これより三年間、自分の死を隠せ」と。それからもう一つ。「自分の亡骸は円光院にいる三条夫人の傍に葬れ」と。
信玄は三条夫人を本当に愛していたのではないでしょうか。一説には、信玄はとても好色家だったという話がありますが、その割には側室の数が少ないです。
しかも、どの側室も政治的に役に立つ家柄の娘ばかり。ですから、政治的な面で必要だった側室だったのでしょう。
三条夫人もその一人かもしれませんが、やはり仲睦まじかった二人は死んでも尚、仲良く共にありたかったのかもしれませんね。