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前田利家という男の生涯~性格や死因などについて~

前田利家

前田利家という名前を聞いて、まず何を思い浮かべるでしょうか。

ここ最近では「花の慶次」という漫画がはやり、その中にも出てきますので、知ってる人も多いのではないでしょうか。

ただ、漫画の中の利家は少々情けない感じがしますが(多少、そんなところもあったのでしょうが)、実際の利家はどうだったのでしょうか。

今回、前田利家とはどんな人物か。性格や死因、生涯などについてお話させて頂きます。

槍の又左、ここに見参

1539年、前田利家は尾張の国、荒子城主・前田利昌の四男として生まれました。戦国時代、四番目の男には正直なところ、「価値」がありませんでした。

上三人が男だったのもあり、利家に家禄が……という話は、遠い事だったのです。だからでしょうか。利家はずいぶん若い頃から自由気ままに生きていました。いわゆる「かぶき者」だったようです。

先ほどお話しました漫画「花の慶次」の主人公は、利家の義理の甥、前田慶次郎が主役のお話です。かぶき者として有名なのは、今ではどちらかというと慶次の方が有名ですが、実は利家もそうだったのです。

血筋……ではないですよ。利家と慶次とは、血の繋がりがありませんので。慶次は利家の兄、利久がもらった妻の連れ子になるのです。

さて、かぶき者としてしたい放題していた若き頃。一緒に悪さをしていた仲間には、あの織田信長がいました。子供の頃の話ですから、身分がどうのとかはあまりなかったのでしょう。

信長もまた身分などあまり気にしないタイプだと思いますので、二人は一緒になってやんちゃをしていたのではないでしょうか。

この頃、利家は「犬千代」という名前でした。だからでしょうか。信長はずっと利家の事を「犬」と親しみをこめて呼んでいました。そんな利家もお年頃になると、どこかへ勤めなければなりません。

そこで、古くからの知り合いだったこともあり、信長の近習として勤める事になったのです。それからというもの、利家は自慢の槍の腕を活かし、めきめき頭角を表しました。

もとより、身分などよりも実力を重視する信長はいたく利家を気に入り、信長自慢の赤母衣衆に利家を入れました。エリート中のエリート街道を走っていたわけです。

利家の性格って

槍を持たせれば日本一、ついたあだ名が「槍の又左」。「又左」というのは、利家の名前からです。

利家は前田又左衛門利家というのが本名ですので、このあだ名になったのですね。そんな利家は、いったいどんな性格をしていたのでしょうか。一言で言いますと「兄貴」でしょう。

とにかく熱く人情にも厚く、裏表のない気質でさっぱりしていたと言われています。一方で、ソロバン勘定が好きなこともあり、妻のまつからも「ケチ」と言われてしまうところもあったようです。

どちらも前田利家なのです。戦に出れば自慢の槍でバッタバッタと敵を倒し、家に戻れば家のために金勘定しつつ節約もする。できた夫だったのではないでしょうか。

利家の性格がやたらめったら熱いという事がわかりやすいエピソードがあります。利家は一度、織田家から出奔しています。出奔というのは、織田家から出る、もしくは追い出される場合もありますね。

つまり、もう織田家の家臣ではない状態になるという事です。その理由は、利家の熱い人情が絡んだものでした。

利家が22歳の頃、織田家にはよく十阿弥という坊さんがやってきていました。この十阿弥は信長の腹違いの弟になります。

ですから、周りの人たちはとても気を遣っていて、それもあり、十阿弥は好き勝手やっていました。とにかく信長の家来衆に対して横柄な態度を取ったりなんだりかんだり。

それを見かねた利家が信長に進言するのですが、信長は何もしてくれません。そんな時、とある事件が起きました。

理由は定かではありませんが、十阿弥と利家が争いを起こしてしまったのです。しかも信長の前で。

さらに、利家は信長の前で十阿弥を斬り捨ててしまったのです。これには信長もかなり怒ったそうで、利家はそのまま出奔したわけです。

でも、なんの理由もなしに利家がそんな事をするわけがありません。常日頃からたまっていた家来たちの十阿弥に対する不満なども耳にしていた事から、腹に据えかねたのでしょうね。

その後、二年も流浪の時間を過ごしてしまいますが、その間に何度も何度も信長が起こした大きな戦に呼ばれてもいないのに駆けつけては武勲をおさめ、

周りがあきれるほどの律儀な利家に信長が折れて再び家来にしたのでした。その後、赤母衣衆に入り、再び家来にしてくれた信長のために粉骨砕身働くのです。

前田利家を支えた妻

例えば、前田利家が「前田利家」のみだったとしたら、果たしてここまで名が残る武将になったでしょうか。

個人的にですが、答えは「NO」だと思います。前田利家は周りの人間たちに支えられて加賀百万石の殿様になった人なのです。

その第一人者はなんといっても妻の「まつ」でしょう。ずいぶん前の大河ドラマになりますが、「利家とまつ」という大河ドラマがありました。通常、大河ドラマの主人公は一人です。タイトルも然りですね。

前田利家のみを主人公にすると、それはなんだか違うと思ったのかどうかはわかりませんが、やはり利家といえばまつという暗黙の了承のようなものがあるので、

そうなってしまったのかもしれませんね。とにかくこの「まつ」という妻がかなりできた嫁で、利家はまつなしでは加賀百万石の殿様にはなれなかったと思います。

まつは利家よりも八つも年下でした。利家とは兄妹のようにして暮らしてきた関係もあります。というのも、まつの父はまつが二歳の時に亡くなっており、そのあと、母の妹夫婦の養子となり育ちました。

その妹夫婦が利家の両親だったのです。このまつという女性は本当に強く美しく、武芸にも秀でていたと言います。

末森城が襲撃された時、利家は様々な兼ね合いからなかなか救助のための兵を挙げませんでしたが、それを見かねたまつが白装束にハチマキ姿で槍を持ち、

「あなたがいかないなら私が行ってくる。だからそこで指をくわえてじっとしてればいい」(といったかどうかはわかりませんが、似たような事は言ったと思います)

と言いながら馬にまたがりました。それを見て、利家は慌てて兵を挙げたという話です。この話はあくまで創作の可能性が強いのですが、あってもおかしくない話ですね。

ほかにも、秀吉の時代になると秀吉の側室同士のけんかを仲裁するなど、なんとも大きな存在だったようです。そんなまつは、利家の死後、芳春院となり前田の家を守りました。

息子利長が徳川家康によって謀反の疑いをかけられた時には、自ら「前田の家のために家康の人質となる」と言って江戸に向かったそうです。

そうやって、加賀と前田を守ったまつは、良妻賢母の鏡といえるでしょう。

生涯の大親友・豊臣秀吉

豊臣政権になった頃、前田利家は豊臣の五大老の一人として名を連ねています。その中には徳川家康もいました。筆頭はあくまでも徳川家康でありましたが、利家は豊臣側の重鎮として一目置かれる存在でした。

そんな利家と秀吉の関係ですが、やはりここは「親友」という言葉がぴったりではないかと思います。

もともとは織田信長のもとで共に働いた仲間でした。しかも、二人は結婚してから家が隣同士だったりと、家族ぐるみでのお付き合いがあったのです。

そもそも秀吉は周りから煙たがられていた存在でした。農民の出でありながら、いつのまにか武家と同等な立場になっていた存在です。

脅威でしかなかった事でしょうし、それゆえに煙たいと思われていた事でしょう。ですが、利家は違いました。

何かあれば助けてやり、自分もまた助けてもらったりと、持ちつ持たれつの関係だったのです。関係ないですが、利家は信長から「犬」と呼ばれ、秀吉は「猿」と呼ばれていました。

よく世間では「犬猿の仲」という言葉は仲が悪いという言葉として使われていますが、この二人の「犬猿」は、とても仲が良かったのだと思います。

さて、信長の死後、秀吉は裏切者の明智光秀を討ち、織田家家臣の中で一気に立場が上がりました。

それに立ち向かったいたのが、重鎮・柴田勝家です。この勝家は、実は利家が「おやじ」と呼んで慕っていたほど、利家と密接な関係のあった武将です。

ですから、利家もどちらの味方をすればいいのか頭を悩ました事と思います。そして、選んだのは柴田勝家でした。

しかし、時代の流れ、情勢、すべてをみて、どう考えても秀吉に軍配が上がっているのに気づくと、利家は個人の情ではなく

「前田家」を背負っている立場として、秀吉を選ぶのです。この時、勝家は利家の家からもらっていた養女をそっと利家に返します。

利家に裏切られ、秀吉に敗れた戦帰りの事でした。何も言わずに立ち寄らせてほしいと利家に申し出た勝家は、何も言わず養女を返し、今までの礼を述べて帰っていったそうです。

利家も律儀なら、利家に「おやじ」と呼ばれた勝家もまた律儀な漢だったのでした。

その後、柴田勝家がお市の方と命を絶つ北ノ庄城攻めの先鋒となった利家は、恩義ある「おやじ」が相手だからこそ先鋒を務めたのではないかと思いたいです。

戦国時代を生き残るために秀吉を選んだ利家は間違っていませんし、秀吉に逆らい続けた勝家もまた間違った生き方をしていないと思いますので。

利家のその後と死因

秀吉が天下を治めた頃、利家は五大老の一人としていました。大親友であった秀吉に臣下の礼を取り、以後は秀吉のためにその力を尽くしたのでした。

ところで。もともと前田家は利家が継ぐものではありませんでした。兄の利久が継ぐものだったのですが、信長の命令により、利家が継ぐ事になったのです。

果たして利久が継いでいたら、前田家はどうなっていたでしょうか。利久の義理の息子に前田慶次郎がいましたから、そのまま彼が継ぐ事になっていたとは思いますが、天下無双のかぶき者。

前田家はもともと血の繋がりがないものでもあります。慶次の事ですから前田家を継がずにどこかへ旅に出ていたのでしょうから、巡り巡って結局は利家が継いでいたかもしれません。

とにかく、前田家を百万石の殿様にまで育てたのは利家であり、内助の功で支えたまつであり、その功績は大きなものがあります。しかし、天下無敵の槍の又左も年を取ります。

1598年8月。豊臣秀吉が没したわずか数か月後の、1599年1月。前田利家は没します。死因ですが、様々な諸説があるのですが、はっきりとした原因はわかっていません。

死の直前まで妻のまつとしっかり会話をしていた事から、意識が混濁するような病ではなかったようです。

死するまでの様々な兆候から、どうやら胆のうがんではないか……という説もあるようですが、やはりはっきりとした原因はわかっておりません。

ただ、とても苦しんで亡くなったという事です。それでも、やはりかぶき者、槍の又左です。

妻のまつが「あなたは多くの人を殺めてきました。きっと地獄へ向かうことになりますので、これを着ておいてください」と、経帷子を持ってきました。

しかし、利家は笑ってそれを拒否したと言います。利家曰く「確かに多くの人を殺めたが、一度だって不義をして殺めた事はない。

だからきっと地獄へは落ちない。もし落ちたとしたら、先に逝った者を集めて閻魔大王ともう一戦してくれる」とのこと。きっとあの世でもかぶいていた事でしょう。

最後に

前田利家という武将が、もしあと数年生きていたら。もしかすると、今の世も変わっていたかもしれません。

秀吉亡きあと、利家はきっと義理を通して秀頼を最後まで守り通したと思いますし、家康もまた利家には一目置いていましたから、下手に手を出してはこられなかったはずです。

利家が生きていたら……信長が生きていたら……。もしも、の考えを巡らせても仕方がない事なのですが、そう思いを馳せずにはいられない武将、前田利家なのでした。