「風林火山」という言葉を耳にした事があると思います。これは戦国時代の名将、武田信玄の旗に描かれている文字ですね。
武田信玄はあの織田信長も徳川家康も怖れた武将でもあったりします。では、いったい何をそんなに怖れていたのでしょうか。
武田信玄の性格や生涯、そして死因などを詳しく掘り下げてみましょう。
甲斐の虎、と呼ばれるまで
武田信玄(幼名・太郎もしくは勝千代)は、1521年、武田信虎とその正室、大井の方との間に生まれました。
歴史上では長子とされている資料が多くみられますが、実は「竹松」という四つ上の兄がいました。しかし残念ながら竹松は七歳で亡くなってしまいます。
こうして信玄は長男となったのです。幼名が勝千代と呼ばれている説を詳しく説明しますと、これは『甲陽軍鑑』という武田家の軍学書に書かれていた名で、
なんでも武田信玄が生まれたその時、父の信虎は今川家との合戦中。しかも敗戦色が濃厚でありました。
しかし、そこへ『跡取り』誕生の報せが。活気づいた武田軍はそのまま勝利したので、父はこの勝利にあやかって『勝千代』と名付けたらしいのです。
しかし、この時にはまだ竹松がいたはずですので、幼名は太郎というのが本当なのかもしれませんね。
ただ、竹松は正室である大井の方の子ではなかったので、正室の子である信玄が跡取りと呼ばれていたのは、ある話だと思います。正解はどちらだったのか。謎ですね。
さて、信玄は子供の子からとても利発で頭の回転の速い子でした。それは言葉を変えると、とても生意気な子だった、という事です。
同じように利発だった父・信虎は、自分とよく似ている信玄が次第に疎ましくなっていきます。
似た者同士って、とても仲良くなるか相反する関係になるか、ですもんね。武田家親子の場合は、相反するパターンに陥っしまったのでしょう。親子の仲は最悪だったそうです。
父の信虎はとにかく戦、戦。なにをおいても戦。こうなってくると家臣の間に不穏の空気が流れます。
戦には金がかかりますので、みんな大変だったのです。もちろん、民も同じです。みんなが信虎に不安と不満を抱えていました。
親子だけではなく、家臣とも民とも、どうやらあまり関係はよろしくなかったようですね。
そんな中、1536年。信玄15歳に元服します。ここから名は晴信となります。その後数年間、信玄は父の元で頑張りました。
様々な戦に出陣もしています。この間に二人目の正室(一人目は出産の際に母子共に亡くなってしまいました)、三条夫人を娶ります。
そして迎えた1541年。信玄二十歳の頃、父を追放してしまうのです。
殺伐とした家庭環境
父・信虎との関係は年ごとに悪化していきました。
父は信玄ではなく弟の信繁をかわいがるようになり、ますます信玄を疎ましく思ったのです。(信玄と信繁の関係は良好でした)
家臣たちも戦に疲れ切ってしまい、周りが盛り立てて信玄を奮い立たせたのです。そして、信虎を今川家へ追放してしまいました。
ここに武田家の19代目の家督を相続する事になります。このように親子関係は非常によろしくありませんでした。
その悪い流れはなんと、信玄とその子との親子関係にも受け継がれてしまいます。
信玄は正室である三条夫人との間に多くの子を設けました。側室の子を合わせると、12人も子がいます。
その一人目の子である跡取り、義信との関係はよろしくありませんでした。
義信は武田家の跡取りとしていろいろと頑張っていたのですが、ある日、家臣が信玄暗殺の計画を立てていたのが信玄の耳に届いてしまうのです。
なぜ暗殺など企てたのか。もろもろの見解があるようなのですが、現在では弟勝頼を先に城の主とした事に対する不満や……という説が強いようです。
気持ちはわからなくもありません。しかし、信玄はそれを許しませんでした。義信を捕らえ、寺に幽閉した後、すべてをはく奪。そして義信は自害したのでした。
考えてみれば、信玄は父親である信虎と全く同じような流れを、知らず知らずに作ってしまっていたようですね。
ただ、信玄の時は信玄が勝ちましたが、義信の時は義信が負けてしまったのです。
このように、どうにも家庭環境はとても殺伐としていたようです。
時におちゃめな性格がでる信玄の魅力
父・信虎はとにかく戦三昧の人でありましたが、信玄は違いました。信玄は内政に力を入れたのです。
治水事業として「信玄堤」を作り、領地の法秩序を整えるべく「甲州法度」を作りました。さらには、金山の開発にも力を入れ、財政を高めました。
こうして家臣たちの懐も潤い、武田家は一枚岩の如く団結していったのです。
ただ、団結したのは何もそれらの政治的な業務だけではありません。武田信玄といえば、いわゆる衆道であったことでも有名な武将です。
というのも、一番可愛がっていた高坂弾正との仲は、二人がやりとりしていた文が見つかった事で有名になりました。
しかも、その文というのが、信玄が浮気を一生懸命否定していると、いった、なんともおちゃめな手紙だったのです。
信玄は、美少年だった弾正に一目惚れし、一番近くに遣わせました。しかし、信玄は正室ともたくさん子をなしていますし、側室も大勢いました。
言葉を悪く言えば、浮気性だったのです。ですから、弾正がいたとしても他の美少年にちょっかいをかける事など、なかったとは言いきれません。
それを証拠に、信玄がとある美少年を口説いた事を知った弾正が「ありえない!」と怒ってしまう事件が起きました。慌てたのは信玄です。
一番のお気に入りは弾正なのですから、必死でご機嫌取りの手紙を送りました。
その内容が、なんともまぁ、本当に武田信玄なのですか?と確認したくなるような内容だったのです。
「お前の言う通り、確かに何度か口説いた事はあるけど、お腹が痛いだとか病気で断られちゃったので、最後までは致していないよ!本当だよ!
だからこれは浮気じゃあないんだ。わしが本当に好きなのはお前だけ。間違いない。これが嘘偽りであったら、わしは本当に神罰を受けると思うよ!」
わかりやすく書けば、こんな感じたったのです。浮気してない、という詫び状なのに、馬鹿正直に『何度か口説いた』とか書いてしまうあたり、必死さが伺えますね。
こんなお館様だからこそ、実は家臣から愛されていたのかもしれません。
宿敵・上杉謙信との川中島
武田信玄を語る上で外してはならない存在なのは、言わずと知れた越後の龍・上杉謙信です。上杉謙信との川中島での戦いは、12年間も続き、大きなものだけでも5回もありました。
とくに一番大きな戦いだったのが、第四次川中島の戦いです。この戦いで、信玄は力強い味方だった弟・武田信繁や、片腕の山本勘介を失ってしまいます。
それほど大きな戦いでした。ちなみに、武田信玄は、あの織田信長も怖れていました。徳川家康もです。
家康などは信玄のあまり強さに、大きな方をおもらししながら逃げ帰ったというではありませんか。それほどの恐怖を与えるほど、強かったのです。
そんな武田信玄を相手に、五分の力で戦い続けた上杉謙信の強さもまた、とてつもないものだったに違いありません。
しかし、そもそもなぜ、上杉謙信との長い戦いが始まったのでしょうか。これは……というか、この川中島の戦いのほとんどは、信玄に原因があるといっても過言ではありません。
そもそも、信玄が攻め込んだ信濃。そこを治めていた村上家が上杉家に泣きついたのです。有名な話ですが、上杉『義』を重んじる家です。
よって、困っているのであれば助けなければならないと、謙信は立ち上がったのです。
そのあとも、ちょっと謙信が留守にしたりすると、信玄がすぐに攻め込んできたり。
謙信が出家して寺にこもってもまた襲ってきたり。とにかく謙信は落ち着いて外に出ることもできなければうちに閉じこもることもできませんでした。
油断すると「アイツ」がすぐにやってくるからです。このように、川中島の戦のほとんどは信玄からしかけたものだと言えるのです。
ただし、確かに何度も戦いはしましたが、お互いにその力を認めている関係でもありました。いわば「友」と呼んでもいいぐらいの認め具合だったのです。
というのも、川中島の後、今川と対立してしまった信玄は、今川から購入していた塩を買えなくなってしまったのです。これにはほとほと困りました。
そこへ手を差し伸べてくれたのが、なんと上杉謙信だったのです。今でも使われている『敵に塩を送る』という言葉の語源でもあります。
さらには、信玄が謙信よりも先に亡くなった際、謙信は号泣したそうです。そして三日間、華やかな事を禁止したのだそうです。信玄の死を悼んだのでしょう。
信玄は信玄で、亡くなる際、息子たちに『困った事があれば上杉謙信を頼れ』と遺言を残したのだとか。
なんだかんだと互いに認め合う、なんとも言えない関係だったのです。
武田信玄の死因
一枚岩の武田家は、それはそれは強い軍を作り上げました。武田の騎馬隊も然り、とにかく本当に強かったのです。
あの織田信長・徳川家康連合軍なども、ものともしませんでした。その勢いで、武田信玄は京へ向かいます。天下を取るためです。
しかし、その道中、武田信玄は倒れてしまうのです。どうやら原因は肺にあったようで、たびたび喀血していたという事実もあるようです。
京まであとわずか、といったところで病に倒れてしまう。どれほど悔しかった事でしょう。
きっとそれでも前を目指したかったのでしょうが、家臣たちの会議により、いったん甲斐へ戻る事になったのです。
そして信玄の体調がよくなったらもう一度、と思っていたことでしょう。
しかし……1573年。武田信玄は甲斐へ戻る最中に命を引き取るのでした。享年は53歳。今ならまだ「若い」と言われる年齢ですね。
さて、自らの命の炎が消えようとした時、信玄は家臣や息子たちに様々な言葉を残します。有名なのが、亡くなった事を三年隠せという話です。
実際のところ、息子の勝頼はそうしようとしたようです。三年後に葬式をあげている事からも、そううかがえます。
しかし、当時の武将たちは様々な間者を様々な場所に放っていました。よって、信玄の死は意外と早く周りの武将に知られていたようです。
ここから先は……いよいよ織田信長の独壇場が始まります。織田信長にしてみれば、一番厄介だった武将がいなくなったわけです。
こうして武田家は織田家に滅ぼされてしまうのでした。
『風林火山』のような生き方
武田信玄の旗に描かれている『風林火山』という言葉。これは「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」という孫子の兵法書から来ています。
信玄は孫子を学んでいたようですね。さて、この言葉の意味はと申しますと、
「疾きこと風のごとく 徐(しず)かなること林のごとく 侵掠すること火のごとく 動かざること山のごとし」。
とても有名な言葉ですので今更説明は不要かと思います。
この言葉を旗に刻んでいた武田信玄。彼の生き様こそまさに、「風林火山」ではなかったのかと思います。