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数々の功績を残した伊達成実の生涯エピソード~兜に込められた想い~

戦国武将として人気も高い伊達政宗。実は政宗自体、あまり大きな功績は少ないですし、血気盛んな性格故か、秀吉や家康に翻弄され、伊達家は数々のピンチを迎えていきます。

そんな政宗を支える、伊達家の双璧と呼ばれた勇ましい家臣がいました。その名も、伊達成実。彼の存在無しに、政宗は戦国時代に生き延びることは難しかったかもしれません。

しかし、忠臣だったかと言うと成実は途中、政宗の元を離れ出奔したこともあり、その生涯は波乱万丈でした。

武勇に優れたこの男の矜持は、兜にも秘密があるかもしれません。今回は、伊達成実の性格や、生涯について紹介していきます。

伊達成実は政宗のいとこ?

伊達家は政宗の曾祖父である稙宗が子沢山だったことを生かし、奥州探題として東北勢力を抑える為に娘を嫁に出したり、婿に貰ったりなど、親戚関係を多く結んでいきました。

成実の父である実元は、政宗の父の叔父。

母は、政宗の叔母、もしくは政宗の祖父の妹など諸説あって頭が混乱しますが、当時近親婚にて勢力を伸ばしていくのは、どの御家もよくあったこと。

そのような環境の中で、1568年(永禄11年)大森城にて誕生した成実。政宗よりひとつ年下ですが、いとこであり、おじいとこでもあるという複雑な出自です。

分かりにくいので、いとこと称されていることが多いのです。

政宗の名を世に知らしめた大河ドラマ、「独眼竜政宗」では、三浦友和さんが好演し、甘いマスクなのに荒々しく、男気溢れる成実は、女性の間でも人気が高いキャラとなりました。

そのドラマ内や逸話として、成実が時宗丸と呼ばれる幼少時代、政宗と年が近いということで、政宗の御学友に選ばれ、大滝秀治さん演ずる、乙哉和尚の元で、

竹馬の友のように過ごしていたことになっていますが、現在残っている文献からは、了山和尚が成実の師となっており、信憑性は薄いようです。

しかし、ドラマのように、心を許した幼馴染や兄弟のような親密さは無かったとしても、晩年に政宗が成実に出した手紙には、

「とくだん用事があるわけではないが…」という意味の書き出しで始まる、近況報告が残っていることから、政宗が成実を信頼し、

気に掛けていた存在であったことには違いありません。

その他、成実自信が自分の半生を記した、「成実記」などの文献で、政宗との交流や互いの動向などが綴られていることからも、

政宗の右腕であったことは、間違い無いと言っていいでしょう。

毛虫の兜は成実の誇り

政宗が家督を継ぐ頃、成実もまた父から家督を譲られ、16歳前後で大森城の若き城主となりました。

元服時の烏帽子親は政宗の父である輝宗であったことから、一族としての期待も高かったことでしょう。ちなみに、烏帽子親とは後見人のようなものです。

武勇で名を馳せた、成実は伊達家にとって無くてはならない、勇敢な武将でした。その強さの秘密は、成実の兜に込められています。

成実の兜には、ふわふわした毛が施された前立てが付いているのですが、これは毛虫を表しています。

何故毛虫?と思う人もいるでしょうが、毛虫は前にしか進むことが出来ないことから、「後ろを振り返らず、前進あるのみ!」という、武将としての矜持が込められています。

大河ドラマでは、ムカデのような形になっていましたが、毛虫が正しいです。

彼はこの毛虫の前立てに恥じぬよう戦い、戦では我先にと駆け出し、幾多の武功を上げていきました。武力無双と評価された成実の強さは、この毛虫の兜があってこそなのです。

時に、秀吉や家康に負けてなるものかと意固地になる政宗を、小十郎が諫めていたとしても、成実は討ち死に覚悟での戦を、政宗に焚きつける程の猛将でした。

冷静な小十郎がいなかったら、政宗の命と伊達家の存続は危うかったかもしれませんね。

猛々しい若武者、成実

成実と共に政宗を支えた双璧のもう一人に、幼き頃から守役として仕えた片倉小十郎という家臣がいますが、政宗より少し年上だった彼は、冷静で頭脳明晰な伊達家の智力担当。

比べて、成実は政宗と年も近く、性格もわりと政宗と同じような血気盛ん、猪突猛進タイプで、軍神の申し子のような男でした。

当時、東北では奥州探題としての役目を務めようと、伊達家のみならず、最上、蘆名、佐竹など各お家同士での、内紛が絶えませんでした。

政宗の父、輝宗が伊達家当主であった頃は、あまりにも親戚関係が濃かった上に、輝宗は戦国武将としては義に篤く、

穏やかな性格であった為、中途半端な戦と和睦の繰り返しで、中々東北はまとまりませんでした。

まして東北は、未だ半農半士で、戦があるごとに男が駆り出され、農作業もままならない上に、一年の半分は深い雪に覆われる土地です。

戦を始めても、稲刈りなどが始まる前に手打ちをしなければ、食べていくことも難しくなるのです。

世の中では、戦乱の世に終わりを告げる初手となった織田信長が、天下布武目前の噂を耳にした頃、政宗はまだ元服したての少年でありました。

政宗が家督を継ぐ頃には信長はすでにこの世に無く、新たに秀吉が天下統一に名乗りを上げており、武将の子として産まれた政宗も、

成実も天下取りレースに乗り損ねてはいけないと、若者らしく血気が逸っていたのかもしれません。

しかし、東北を統治できなければ、天下に名乗りを上げるなどという暇は無く、輝宗亡き後、今までの鬱憤を晴らすかのように、政宗と成実は猛々しく戦を仕掛けていくのです。

若さ故、失敗も負けも多かったのですが、ここぞという場面では命を顧みず、一番に飛び込んで行く成実。その度に現場の士気も高まり、戦への勝利をもたらしてくれるのです。

勇猛果敢な戦歴

この頃の時代を成実記や、宮城県災害年表、その他の史料を眺めていると、東北という土地の過酷な自然環境では、戦もままならないことが多かったのも頷けるほどです。

雪は当然ながら、大地震、洪水、大雨、津波などの災害が多発しており、大飢饉も多く、その為生きていくためには、領土争いなどの戦も頻発せざるを得なかったのでは?と思われます。

一刻も早く、各地でのいざこざを治め、治安を安定させぬことには、皆が餓死してしまう恐れもあって、伊達家は奥州探題の役目を果たすべく、東北統一に向かったともいえるでしょう。

そんな環境の中、武勇に優れ、怖れを知らない若武者であった成実の存在は、同じく若き当主となった政宗にとって、頼りがいがあったに違いありません。

伊達の臣下に一度は下った、大内貞綱が寝返り、蘆名・佐竹の援軍を頼りに小手森城に籠城した戦いでは、わずか500の兵で援軍の進路を断つ為に駆け出しました。

対する蘆名・佐竹の軍は、2万人越え。しかし援軍の進路を押さえられた大内貞綱は城を捨て、敗走しました。

のちにこの大内貞綱は、ひょうひょうと伊達家に出戻りしてくるのですが、間を取り持ったのも成実と言われています。

その翌年、蘆名・佐竹の連合軍が、政宗を討つべく大軍で攻撃をしてきた際、人取橋の戦いでは自分の数少ない兵も大勢失いながらも、「退くわけには行かぬ!」と、

命を懸け戦い、政宗を逃がす隙を作りました。この戦いでは、主だった家臣達が多くの命を落とし、政宗本人も命の危機を感じる戦いでありました。

その他、奥州の覇者を決定した摺上原の戦いでも、敵の側面を攻撃し形成を逆転させる武功を上げたり、細かい戦から大きい戦まで、成実は政宗のピンチを数々救ってきました。

秀吉時代には、政宗と共に、朝鮮出兵にも参加しています。

政宗の片腕達は皆1度は出奔する

政宗の有能な家臣、伊達三傑と呼ばれた、片倉小十郎、茂庭綱元、そして伊達成実。この3人、皆1度は政宗の元を離れ、出奔している共通点があるのです。

小十郎は姉に叱咤され、未遂で終わりましたが…。秀吉に屈した政宗が気に食わなかったのか、戦の少なくなってきた時代に不満を覚えてか、

とにかく成実はいきなり出奔し、その間も高野山にいたという噂がある程度で、何をしていたのかは未だ謎に包まれています。

政宗は何度も、成実に戻ってこいと帰参命令を小十郎などを使って出していましたが、成実の決意は固く、ついに政宗も成実の角田城を召し上げてしまいます。

大河では、妻も子も含め一族郎党を殺したということになっていましたが、資料などによれば、妻はすでに亡くなっており、その時子供がいたかどうかも定かではありません。

頑なに帰参には応じず、出奔期間も2~5年程の間行方をくらましていた成実でしたが、秀吉死後、ついに家康が天下統一の為に動き出した、

1600年、関ケ原の合戦が始まる直前に、何故か颯爽と戻ってきたのです。

やはり政宗に対する忠臣の気持ちが捨てきれなかったのか、はたまた単に戦の匂いを嗅ぎつけたのかはわかりませんが、それ以来成実は、生涯を政宗の片腕として過ごしました。

後に成実は、政宗の九男を養子に迎え入れ跡取りにしたことからも、二人の関係は出奔という事件を挟んでも、変わらず信頼関係にあったようですね。

武勇だけじゃない成実の実績

成実は戦の武功のみならず、政宗が家督を継いで御家も代替わりをしてからは、伊達家の重臣としての役目も多くこなしていました。

武功だけではなく、実務も担うとは、やはり成実は政宗にとっては政治にも欠かせない存在だったようです。

まだ若かりし頃は、留守居役や人質の役目、晩年は政宗の娘、五郎八姫と家康の息子、忠輝との婚姻の使者や、

政宗の母の実家である最上家がお家取り潰しになった際の、城の引き渡しなど、政宗の名代としても力を発揮しました。

成実が城主となった城は、大森城を始め、二本松城、角田城と変わっていますが、帰参後は、亘理城の領主となり、田畑を増やし、

塩田開発や灌漑工事などに力を入れ、国を豊かにした実績から、成実は領主としても、有能だったのが伺えます。

晩年は、徳川家からの信頼も厚く、領内で洪水が起きた際、幕府よりその対策費用を貸し出された時、お礼の為参内した成実は、

自分が活躍した人取橋の合戦の武勇伝を語り、のちの三代将軍、家光が感激した逸話が残されています。

実は出奔していた時期に、関ケ原の戦いを前に、家康が成実をひそかにスカウトしていたという話や、関ケ原の戦いに備えたい上杉景勝からも臣下への誘いがあり、

それを断ったという話もあることから、数ある武将達にも認められる実力が成実にはあったと言えるでしょう。

今も残る亘理伊達家の義

政宗と共に、血気盛んに天下を夢見たこともあったはずの、伊達成実。しかし、やはり生まれるのが少し遅かった。

天下は秀吉から、家康へ。時代は戦の無い、江戸時代へと突入しました。

成実は、戦国時代の武将としては長生きで、政宗亡き後も8年程生存しており、79歳という高齢でこの世を去ります。

亘理伊達家はその後、紆余曲折あっても安泰でしたが、幕末の動乱に巻き込まれてしまいます。

朝敵の汚名を着せられ、領地も身分も剥奪された第14代亘理伊達家の当主、伊達邦成は、家臣団と共に北海道に新天地を求め、開拓師団として現在の伊達市を開拓しました。

邦成もまた、毛虫の前立ての矜持を大切に、苦しい蝦夷地での戦いをやめませんでした。

その結果、開拓の功績を称えられた邦成は、後に男爵の位を叙せられ、亘理伊達家の威光を取り戻すことができました。

今現在も、伊達市には邦成の子孫と、家臣団が暮らしています。また、東日本大震災の際、津波被害も大きかった亘理の人達への、

復興支援も伊達市は積極的に行っており、亘理のイチゴ農家さんが伊達市でイチゴを再び始めたりと、伊達市と故郷亘理町との交流は続いています。

亘理伊達家の誇りである、毛虫の前立ての兜は、北海道伊達市にある開拓記念館に展示されていたのですが、残念ながら閉館してしまいました。

しかし、今年の春に「だて歴史ミュージアム」という新たな博物館がオープンしますが、そこに展示されるようです。

また、宮城の亘理町のマスコットキャラクターは、成実がモデルの、「わたりん」。今でも地元で愛されている証拠ですね。

このように、成実が残した数々の功績、武勇伝は、現代も子孫や町の人々に希望と絆を与えているのです。