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明智光秀が織田信長を裏切った理由について調べてみた

明智光秀

歴史上で多くの人が知っている「本能寺の変」ですが、実はこの史実にはいろいろと疑問点があります。

なぜ本能寺から討ち死にした織田信長の遺体がなかったのか、明智光秀はなぜ三日で討ち死にされてしまったのかなどですが、最大の疑問は織田信長が一番信頼していた明智光秀の謀反です。

この理由についても多くの意見があって確定していませんが、現在の見解で高い確率で可能性が高い3つの理由を紹介しましょう。

理由その1:豊臣秀吉による謀略説

「本能寺の変」が起きる直前、織田信長は中国地方の毛利元就さえ倒せば天下統一が完成し、念願であった「天下布武」は目の前でした。

そのために織田信長は豊臣秀吉に自軍の本隊を預け、自分は少人数の護衛だけで本能寺にいました。

この時の織田信長には有力な家臣がいて豊臣秀吉もその一人ですが、百姓出身で織田信長以外はあまりよくは思われていない立場です。

織田信長が天下を取ればその家臣にも重要な役職が与えられますが、豊臣秀吉にはどうしても高い役職は見込まれません。

そこで豊臣秀吉が自分の身を案じた場合、最適な方法は織田信長を謀殺してその後釜に座ることです。

明智光秀は織田信長から最大の信頼を得ていましたが、その理由はその才覚と先見性です。

織田信長はこの当時から世界に対して目を向けていて、天下統一をしたら大陸に出兵する予定でした。

ところが明智光秀は日本の国力と外国の違いを知っていて、この織田信長の考えは日本を滅ぼすだけだと危惧していました。

そんな時に豊臣秀吉から本陣が手薄な時、織田信長を襲撃することを提案したらどうでしょう。

本隊は中国地方にいて援軍が到達するには時間がかかり、その間に織田信長死去の後始末をすればいいと言えば、その本陣を率いているのが豊臣秀吉なので信用度が増します。

この豊臣秀吉については本能寺の変が起きてから帰るのが早過ぎ、数万もの軍勢を率いていては絶対に不可能でした。

それが豊臣秀吉謀殺論の理由ですが明智光秀ほどの才覚で本隊がいないだけで天下が取れると考えるはずがありません。

この中国地方での戦いは毛利軍が和睦を受け入れたのも疑問ですが、豊臣秀吉が織田信長の後継者になる確率は高くなかったため、豊臣秀吉が明智光秀を焚きつけた可能性は低いでしょう。

理由その2:イエズス会による謀殺説

イエズス会というとキリスト教を日本各地に布教する組織ですが、実はそれ以外に重要な役割を担っていました。

織田信長は南蛮貿易を重用した人物の一人ですが、それは珍しい工芸品や美術品を収集するだけでなく、鉄砲に使う火薬を入手するためです。

火薬は木炭と硫黄・硝石が必要で木炭と硫黄は簡単に入手できますが、硝石は当時では南蛮貿易でしか入手できない貴重品でした。

この南蛮貿易を仲介していたのがイエズス会であり、鉄砲が必需品であった戦国時代にはイエズス会の影響力は大きかったのです。

織田信長は盛んにイエズス会と接触していたので、その側近であった明智光秀もその重要性を認識していました。

織田信長とイエズス会の関係はとても良好でしたが、織田信長が自分のご神体でどこにでもある庭石を使い、

そこで「自分こそが神であり、自分は神の存在を信じない」と言ったためにイエズス会の反感を買います。

イエズス会は南蛮貿易を行っていましたが本来は布教活動がメインであり、この神の存在を否定する織田信長の発言を容認できませんでした。

しかも別の宗派とはいえ織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたため、この神仏を愚弄する行為にイエズス会が織田信長の存在を危惧します。

明智光秀は延暦寺の焼き討ちでは女性や子供も殺戮したことで、織田信長では民に本当の幸福をもたらせるのか疑問が生じたはずです。

そんな時にイエズス会から織田信長の討伐を持ちかけられ、その後についてもイエズス会が守るという確約をしたらどうでしょうか。

事実としてキリシタン大名であった高山右近には書状が出ていて、本能寺の変以後の明智光秀を保護するようにと指示が出ていました。

その書状を見せられたら明智光秀はイエズス会が自分を守ると認識し、本能寺の変を決意したかもしれません。

実際には高山右近にはイエズス会から二通の書状が出ていて、一通は明智光秀に見せる偽物で本物は別にありました。

そこには明智光秀は保護せずに放置せよというものであり、そのために本能寺の変が起きても何もしなかったのはよく知られています。

これは明智光秀はキリスト教を信仰していなかったからであり、高山右近の場合には政変で日本にいられなくなった時には助けて、

キリスト教の影響が大きかったフィリピンに逃がしています。

この史実でのイエズス会から高山右近への書状は極めて不確定であり、何かの書状が出ていましたが本能寺の変に関するものかわかっていません。

理由その3:徳川家康との共犯説

実は本能寺の変を裏で画策したのは徳川家康という可能性が高く、その理由について説明しましょう。

徳川家康は子供のころから人質としての人生を送っていて、城持ち大名になってからもずっと今川義元の支配下にいました。

そんな今川義元を織田信長が桶狭間の戦いで破ってくれたので今川義元の支配下から織田信長に仕えることになります。

やっと自由を手に入れた徳川家康はそれまでの虐げられた人生を恨み、天下を自分のものにしたいという考え方がとても強く芽生えていました。

その証拠は三方ヶ原の戦いでの武田信玄に対して自ら戦を仕掛けた動向で、本来なら武田信玄は徳川家康の領地は素通りしていく予定だったのを、

徳川家康が自分から戦いを行って無残に大敗してしまいます。

この大敗は徳川家康にじっくり考えて事を成就させる大切さを教え、そこから「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」ができ、脱糞しながら城に戻った惨めな姿を絵師に書かせた理由と言えます。

徳川家康は織田信長が天下を取ると確信していましたが、そうなると新参者である自分が天下など取れないことをよく知っていました。

しかも織田信長は武力で国を制定しようとしていたため、それでは自分が行われた人質での人生を民に背負わせることになります。

この織田信長という人物の才覚については認めていましたが、その人間性は容認できないという点で徳川家康と明智光秀は考え方が一致していたでしょう。

そこで徳川家康が自分が天下統一した場合の国の統べ方を聞き、その考え方に明智光秀が同調した可能性はとても高くなっています。

二人の計画は推測ですが最も邪魔な豊臣秀吉と本隊を遠くに出し、防備が手薄になる本能寺で織田信長を討つことです。

織田信長は天下布武が確実になったので油断が生じていて、討つこと自体は難しくないですが問題はその後です。

織田信長の敵を討とうと首謀者である明智光秀は命を狙われるため、徳川家康は明智光秀を高く評価していたので守らなければいけません。

そこで考えたのは影武者を落ち武者狩りで死亡したことにして、その後を自分が明智光秀を匿うというシナリオです。

しかし影武者を使うのは当時では当たり前であり、織田信長の家臣が簡単には信じないというのがネックになっていました。

そこで知力のある二人が考えたのは落ち武者狩りでの殺害方法であり、武将が農民に竹やりで殺害されたというものです。

この死亡方法は戦国時代の武将では最大の屈辱に該当していて、もし生存しているならこのような汚名のまま黙っているはずがありません。

それをよく知っている織田信長の家臣一同は、それでも名乗り出ない明智光秀に死亡を認知したでしょう。

徳川家康には有能な参謀に「天海」という僧侶がいます。この「天海」については素性が一切明かされていませんが、徳川家康は誰よりも「天海」を重用していました。

それから以後に強固な江戸幕府を開けたのは「天海」がいたからであり、徳川家康は自分が死亡した時には「天海」にその後を任せています。

この「天海」こそが明智光秀ではないかという証拠はいくつもあり、最大の証拠は徳川家康が祀られた日光東照宮にある家紋で、

ここには徳川家の家紋ではなく明智家の家紋が至るところに書かれています。

江戸時代の二代目将軍は「秀忠」といいますが、この「秀」の文字は関白になっていた豊臣秀吉から来たと言われていますが、もしかすると明智光秀から来ているのかもしれません。

まとめ

明智光秀はとても忠義に厚い人物であり、本能寺の変を決める前に神社で何度もおみくじを引いたそうです。

そこまで悩んでも実行したのは織田信長の凶暴性を目の当たりにしていたからで、自分の意に反していれば家臣でも女性や子供でも平気で粛清するため、

織田信長が天下を取った場合を憂いていたからでしょう。織田信長が天才であったのは後世の人々によってわかりましたが、当時では異端であったのは間違いありません。

誕生するのが早過ぎたために武力でしか力を誇示できなかったのは、織田信長の性格に大きく影響を与えたと言えます。

あれだけ織田信長から信頼されていた明智光秀が裏切った理由は、まだ完全には解明されておらず永遠にわからないかもしれません。

歴史というのは後世の権力者によって書き換えられている場合が多く、徳川家康が自分の所業を隠蔽したと完全な反論はできないはずです。