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高坂弾正(高坂昌信、春日虎綱)とはどんな人物?生涯エピソード

高坂弾正、高坂昌信、春日虎綱全て同一人物を指す名前ですが、名前が定まらないこの男。のちに、「逃げの弾正」と呼ばれる高坂弾正は、武田四天王と呼ばれる1人です。

武田家の戦略などを綴った「甲陽軍鑑」の作者とも言われるこの男の人生は、未だ謎に満ちています。

信玄は家柄に係わりなく、才のある者を率先して取り立てたせいか、実際家臣の出自や活躍などを裏付ける史料が少なすぎるのです。

今回は、その数少ない史料の中から、異例の出世を遂げた高坂弾正の生涯と、最後について紹介します。

一体本当の名前はどれ?

現在言われている高坂弾正には、名前がたくさん残っていますが、正式名称とされているのは、春日虎綱です。

その他にも、彼の呼び名はたくさんあって、名字は香坂、高坂と呼び方は同じでも字が違うもの、

名も昌信、昌宣と同じ読みという名前があり、それ以外には晴昌、晴久という全然違う名前も残されています。

昔は読み方さえ合っていれば、あまり文などでも漢字に拘りはありませんので、字が違うことは不思議なことではないのですが、

現代からすると、名前が定まっていないと戸惑いを感じてしまいますよね。ここでは、混乱するので春日虎綱と呼んでいくことにします。

正式名称と言われている春日虎綱の出自を説明すると、甲斐国の豪農の出身で、春日大隈が父と伝わっています。幼名は、源五郎。

農家と言っても戦後時代の男達は、半農半士であることが多いので、戦とあらば駆け付ける武士でもあったのです。

春日という姓を名乗っていることからも、それなりに大きな家だったとことが分かります。小作人並みの農民であれば、そもそも名字はありません。

詳しい経緯は分かりませんが、虎綱の父が亡くなった後、春日家では遺産相続の争いがあり、虎綱は家にいられなくなります。

その後虎綱は、若くして父親を追放し、新たな甲斐の国主となった武田信玄に取り立てられ、小姓として武田家家臣となりました。

一説には、この春日家の御家騒動には、その時領主であった武田家も審判に入っており、その席に信玄もいたことから、縁が出来たとも伝わっています。

ともあれ、何かしらの縁で虎綱は明日をも知れぬ、家なき子のピンチから、いきなり信玄の家臣になったのですから、幸運の持ち主であることは間違いありません。

信玄より6歳下の虎綱は、使番となって信玄の側に仕えていました。何歳頃から仕えたのか詳細は不明ですが、

小姓として入ったなら少なくとも元服前の十代から信玄の元で働き、25歳の時に足軽大将に抜擢されるのです。

更に翌年には、村上義清との戦に備え虎綱は、その要所である小諸城の城代にまでなっていることからも、相当信玄に信頼される存在だったことは間違いありません。

信玄が愛した男?イケメン弾正

2017年に、世間を騒がせた信玄の直筆文が発表されました。しかも、熱烈な恋文で、相手は春日源助。

そう、春日虎綱の幼名は、源五郎で、名字も春日となっていることから、信玄と虎綱はラブラブ衆道関係だったのではないか?と言われているのです。

当時武士の間で、衆道は普通の事。小姓と主がそのような男と男の愛を交わしていても、それは武士の高尚な嗜みなのです。

今になって、世界中でLGBTなどと騒いでいますが、日本では誰もそのようなことで差別など無く、むしろ堂々とそのような関係を作っていたのですから、進んでいる国だったわけです。

そのような価値観を野蛮だと壊したのは、明治維新後のキリスト教圏の白人です。

話は逸れましたが、衆道の価値観が普通だった時代に、虎綱はいきなり信玄の側に取り立てられ、足軽大将までなるのですから疑われても仕方ありません。

当時はある意味、出世するには一番手っ取り早いことだったのですから。

発見された内容は、甲斐の虎と呼ばれた信玄からは想像出来ぬほどの慌てぶりで、浮気を疑われた虎綱に言い訳をしている手紙です。

信玄は、虎綱のみならず他の男にも手を出そうとしていたようで、「弥七郎くんを誘ったのは本当だけど、お腹が痛いと断られたよ。

だから、やってないよ!あなた以外とはしてないし、これからもしないから怒らないで!神に誓うから!」

「神に誓う時は、専用の紙に書くけど急いでいたから、普通の紙でごめんね。」とのような一文からも、相当慌てて機嫌を取りたかったのが伺えますね。

しかし最近では、この手紙にある春日という名字が、後に誰かに付けたされた形跡があるということで、本当に虎綱に出した手紙かは決定できないようです。

相手が違ったとしても、虎綱には他にも逸話があって、女性にとてもモテモテな程のイケメンで、女から逃げて歩いていたということからも、

「逃げの弾正」と呼ばれる一因とも言われています。

それにしても、虎綱は誤解が溶けたかもしれませんが、いくら歴史研究の為とは言え、

あんなにいかつい顔の肖像画な上、戦国時代に名を残した武将なのに、死後数百年経ってから、こんな恥ずかしい手紙を世に晒された信玄だけが哀れでなりません。

春日から高坂(香坂)へ

文献で高坂(香坂)と出てくるのは、虎綱が30代の頃です。

正式には香坂の字の方が信憑性が高いのですが、虎綱の正妻が香坂宗重の娘とされていますので、養子に入ったと見られています。

香坂氏は東信濃にいた領主で、武田家が信濃侵攻を始めた際に、村上方から寝返って信玄についたと言われています。

その辺りで、虎綱は養子に入ったのではないかと考えられています。

香坂宗重は、少なくとも第三次川中島の戦いまでは、信玄の家臣となっており、現在の長野松代へ所領を与えられ、

香坂城という居城を建てていたようですが、香坂城は第三次川中島の戦いで焼失してしまいます。

この燃えた香坂城は弾正館と称されていることから、虎綱はこの頃に養子になっていると言われています。

川中島から近いこの場所は、上杉対策には必要な要所であり、その後海津城が建ちました。

香坂氏は、この海津城の城番を務めたと伝わっていますが、この後第四次川中島の戦い直前、彼は上杉方に突如寝返り、場内で殺されてしまいます。

確かに海津城は上杉領内に近いので、調略など仕掛けられやすそうですよね。

その後、虎綱は海津城の城代となり、香坂家の名を継ぐこととなるのです。

ちなみに、大河ドラマ「真田丸」で、真田昌幸の策略の為、派遣されてきた真田信尹と、

信繁に調略された瞬間、信尹にあっさりと殺された海津城の城代、春日信達は虎綱の息子です。場所柄、因縁めいた城だったのかもしれませんね。

逃げの弾正

弾正(だんじょう)とは、役職のことですが、監察や治安維持を担当する役職名です。

武田家には、三弾正(さんだんじょう)と呼ばれる三人の家臣がおり、一人目が攻めの弾正と呼ばれた真田幸隆。

二人目が、保科正俊は槍弾正。三人目が虎信のことですが、逃げの弾正とはいきなり弱い奴に見えますよね。

言葉の響きとは違って、逃げの弾正とは、戦の撤退の時に冷静な判断で、最善策を持って動けるという意味なので、殿(しんがり)に強いということです。

殿とは、負け戦の時に殿を無事逃がすために、敵と戦いながら最後尾を守ることです。相手は勝ち戦で逸っているのですから、一番危険な役目なのです。

けして弱っちくんという意味ではありません。虎綱はその役目が上手かったということで、逃げの弾正と呼ばれています。

それとは別に先程紹介したように、女にも男にモテモテのイケメンだったことからも、逃げの弾正と揶揄されていた訳ですね。

何れにせよ虎綱も武田家の中で、弾正という役職に就いていた事から、香坂弾正、または高坂弾正と現代も呼ばれているのです。

一人生き残った武田四天王

虎綱は、上杉対策として主に海津領内の守備を担当しており、常に上杉との最前線を任されていました。

第四次川中島の戦いは、海津城内にいた際開戦され、虎綱は籠城して戦い切りました。

その他の戦歴としては、虎綱は基本海津領内を守っていたので、信玄と共に戦に出たという史料は少なめです。

信玄が京を目指した時も、上杉対策の為、海津城にほとんど残されており、参戦したのは、家康を脱糞したまま逃げ帰らせた三方ヶ原の戦いくらいです。

しかし、その三方ヶ原の戦いが、虎綱と信玄にとって今生の別れとなったのかもしれません。その数か月後に、信玄は病でこの世を去ります。

信玄の死に目にも会えず、信玄の死後も海津城の守りを任された虎綱は、武田家も多くの戦死者を出した、

織田・徳川軍との「長篠の戦い」で、共に武田四天王と呼ばれた3人の仲間を、一気に失ってしまった虎綱。

内藤昌豊、山県昌景、馬場信春という、信玄に同時期から仕えた重鎮も一気にこの世を去りました。更に長男も戦死しています。

一人残された虎綱の無念は、いかなるものだったのかは、今となっては計り知れません。

そのような中で虎綱は、敗走してきた信玄の息子勝頼を信濃で出迎え、身なりを整えさせるべく、

新しい着物や武具を持って駆け付け、甲府へ戻る勝頼が惨めに見えないように配慮したという逸話が残されています。

信玄の息子勝頼は、正式な信玄の跡目では無いにも係わらず、一人残された重鎮として武田家を護ろうとする、虎綱の心が見えてきますね。

最後まで武田家を護ろうとした男

武田二十四将と呼ばれた家臣の中で、信玄亡き後も残っていた重鎮はわずか7人。

その中でも信玄が一番信頼を置いていた者としては、虎綱だけと言ってもいいでしょう。

勝頼は虎綱初め、信玄が信頼を寄せていた重鎮は遠ざけ、代わりに古くから武田に仕える、一門や譜代の家臣を側に置きました。

そのことがきっかけで、家臣団のまとまりが悪くなったと言われており、長篠の戦いの後、

勝頼を信濃で出迎えた虎綱は、家臣団を再編するようになどの進言をしたと伝わっています。

のちに勝頼を裏切る、一門の家臣であった穴山梅雪は長篠の戦いでも、勝頼を置いて勝手に戦場を離れています。

虎綱は、勝頼に穴山の切腹も進言していると伝わっていますが、この時勝頼が虎綱の言うことを素直に聞いて実行していれば、

この後武田家が滅亡することは無かったかもしれません。

彼は晩年も、勝頼に北条と再び同盟を結ぶことを勧めたり、上杉家の跡取り騒動の際も、仲立ちの為に取次を務めたりと、

最後まで武田家の為に働きましたが、その途中に病で亡くなってしまいます。享年51歳、信玄がこの世を去ってから5年が過ぎていました。

武田家の戦略などを綴った「甲陽軍鑑」は、晩年勝頼にこれからの武田家の為にと口述で始め、

その後を虎綱の甥が続きを編纂したものと言われていますが、ほとんどの物は江戸中期になってから付け加えられた創作なので、史料としては信憑性が低いのです。

しかし、最近では写本などの文字から再研究をした酒井憲二氏の功績により、戦国時代と江戸時代の言葉遣いの違いなどから、

所々の信憑性があるのではないかと、見直されつつあります。

何れにせよ、虎綱が長篠の戦いでボロ負けしてきた勝頼の姿や、周りにいた家臣達の頼りなさなどから、

武田家の後を憂慮して、何か残していこうとしていても、何ら不思議ではありません。

実際その後の武田家は、織田・徳川軍を相手に戦い続けますが、相次ぐ家臣達の寝返り、裏切り、逃走などでボロボロに。

勝頼は最後の時、ほとんどの家臣は側にいない中、そっと自害してこの世を去りました。

虎綱死後、たった4年で甲斐を制した武田家は滅亡しました。

その後信濃は制圧され、真田丸で登場した、虎綱の次男であった春日信達は、織田軍の森可長に従いますが、

わずか3か月後に信長は本能寺の変にて突如戦国の表舞台から消えてしまいます。

信達はそれを機に、森可長率いる織田軍撤退の妨害し、上杉の家臣となりました。

その後はご存知のように、真田含む信濃州と、北条に通じていたことがバレてしまい、殺されてしまいました。

追い打ちを掛けるように、関ケ原の戦いが起きる数か月前、家康天下目前の頃に、北信濃領主として森可長の弟がやってきたのです。

本能寺後の兄の恨みを晴らされたのか、その時信達の一族は皆殺しにされてしまい、春日家もまた滅亡するのです。

虎綱の願い虚しく滅びた春日家

信玄の為に尽くし、武田家の存続の為に働いた虎綱。しかし、彼の願い虚しく春日家も、武田家も滅んでしまいました。

虎綱はあの世で何を思ったでしょう。

始まりは家なき子になるはずだったのに、数奇な運命で信玄と出逢い、身一つで武田家の重臣まで上り詰めた虎綱。

最後はやはり家なき子に戻ってしまったかのようですね。

しかし幸いなことに、虎綱はその二つの滅亡を見ずにこの世を去りました。

最後まで逃げの弾正の名に相応しい、人生の終焉だったと言えるのではないでしょうか?