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豊臣秀吉の趣味や生涯は?あまり知られていないエピソード

天下一の成り上がりもの、それが豊臣秀吉です。長い歴史を見ても、秀吉ほどなりあがった人物はいないのではないでしょうか。

なんせ、最後には神様にまでなってしまったのですから。そんな秀吉は、群雄割拠の戦国時代をどう生きて、どうなりあがっていったのでしょうか。

今回は、そんな豊臣秀吉の趣味や、生涯、いろんなエピソードについてお話させて頂きます。

秀吉の奇才

豊臣秀吉は1537年2月6日、尾張国愛知郡中村(今で言う愛知県名古屋市中村区)で生まれました。

父親は農村の下層民で名を木下弥右衛門と言います。要する、農民でした。

しかしながら、この説にははっきりしないところもあり、父親が足軽だったという説もあれば他にもいろいろ。

一般的なのは農民の子、というスタンスですね。母親はのちに大政所と呼ばれる「なか」と言います。

秀吉も若い頃は木下藤吉郎という名前でした。もっとも、周りからは「さる」と呼ばれていたので、あまりこの名で呼んでいた人もいないのではないかと思います。

さて、豊臣秀吉の逸話で有名なのは、懐で温めた草履、ですね。聞いた事ある方もたくさんいるのではないでしょうか。

おさらいとして少しお話しますと、秀吉は信長の屋敷で働くようになると、寒い朝など、信長が庭に出る際に履く草履を懐に入れて温めておいたそうなのです。

ある日、信長がいつも草履が温かい事に気づき、草履取りという仕事をしていた秀吉に尋ねました。

どうしていつも暖かいのかと。すると秀吉は自分が抱いて温めておいたと答えたのです。これには信長も大変ご満悦でした。

実は、この草履の以前にも、秀吉は信長の覚え愛でたい仕事をしていました。それは厩での仕事になります。

秀吉は毎日、毎日、馬の毛がぴかぴかになるまで綺麗に磨いてやっていました。そのおかげで、どの馬もとても美しい馬のままでいたのです。

これに気づいた信長が秀吉という存在に気づき、その勤勉さを気に入り草履取りに抜擢したのです。そして、逸話に繋がっていくわけです。

しかしながら、近年ではこの草履の話は後々作られた話ではないかと言われています。

ただ、もしこの話が嘘だったとしても、秀吉の機転働く頭脳は嘘ではなかったと思うのです。

まさか「運」だけで天下統一を果たす武将になるとは思えません。やはり一番にあったのは、秀吉の機転の働く頭脳だと思うわけです。

ちょっと残念な「趣味」

豊臣秀吉の趣味として有名なのは、茶、がありますね。最終的には殺してしまう事になる千利休に習って茶を嗜んでいました。

元主君だった織田信長も大層茶が好きだったようで、信長に憧れを持っていただろう秀吉が茶を嗜むのもわかります。

ただ、ちょっと悪趣味なところがあり、茶室を作ったのはいいのですが、すべてが金ぴかという、なんともかんともな茶室でして。

「わびさび」を楽しむものでもある茶室が金ぴかだと、なかなかそれらを感じられないかもれしませんね。

思うに、幼い頃は貧乏で食べるのにも困ったのではないかと思われる秀吉は、どんどん出世していくと共に、手に入るお金も増えていきます。

すると、これまでできなかった、手に入らなかった、などという、夢でしかなかったものが現実になっていきます。

つまり、貧乏からお金持ちへの反動が大きくなりすぎて、こうなってしまったのではないかと思うのです。

今で例えると、幼い頃にゲームや漫画など、娯楽を感じられるものを禁止されていた子供が大人なって、ある程度の事が自由になるとそれらにお金を費やしてしまうなど、そんな感じなのではないかと思います。

さてさて。秀吉のちょっと残念な趣味は、派手好きだった、というだけではありません。なんともかんともなのですが、女癖も少々……いや、かなり悪かったようなのです。

一説には、秀吉には側室が300人いたとかいないとか。これは当時日本を訪れていた宣教師フロイスが後にそう語ったそうなのですが、ちょっと大げさに言いすぎかもしれませんね。

でもそう言いたくなるほど、大勢の側室がいたようです。ただ不思議な事に。

正室の北政所を始め、これほど多くの側室がいたにも関わらず、秀吉には自分の血を受け継ぐ子供がいませんでした。

ただの女好き、であったかもしれませんが、違う見方をすると、自分の血を残したくて次から次へと側室を設けていたのではないかと思うのです。

主君信長にも、そしてライバル徳川家康にも、数多くの子供がいました。しかし、自分だけいない。これはとても焦ったはずです。

折角築いた豊臣の代がなくなってしまうかもしれないのですから。

しかし、お市の方の娘、茶々を側室とした秀吉は、ここでようやく子宝に恵まれます。秀吉の喜びようといったら、ありえないほどだったようです。

ただ。水を差してしまうようですが、果たしてこの子は本当に秀吉の子だったのでしょうか……。

これも一説には、当時近くに仕えていた真田幸村の子かもしれないとか、石田三成との子かもしれないと、他にももろもろ。

とにかく秀吉の子ではなかったのではないか、という説があるようです。確かにずっと子供ができなかったのに、という疑問がありますよね。

個人的には、長きにわたり自分の子孫を残すことに執着してきた秀吉の願いが叶った、と思いたいですね。

また、実は秀吉には、茶々との間にできた子よりも先に実子がいたという説があったりします。

石松丸秀勝と呼ばれている子なのですが、こちらも実子と言われるも証拠もなく。

もしかして養子だったのでは?という説も多く、かなり不確かな情報なため、あまり知られていないようですね。

正室・北政所(ねね)

秀吉の逸話を映画やドラマで見ていると、必ずといっていいほど北政所が出てきます。

北政所は秀吉がまだ何もなかった頃に結婚した正室になります。それはそれはとても賢い人で、優しい人だったのではないかと思います。

残念ながら生涯子宝に恵まれはしませんでしたが、多くの養子たちの面倒を見てきました。

そしてなにより、ずっとあの秀吉を支えてきたのですから、すごい女性です。なんせ300人も側室がいる……とか、いないとかの男性ですよ。

時には嫉妬をしたこともあるでしょうし、怒りを覚えた事もあるはずです。しかし、北政所はそれらを飲み込んで、ずっと秀吉の傍にいました。

というのも、ここでも秀吉の「人たらし」な性格が働いていたのではないかと思います。

数多くの側室がいて、なかなか北政所の元へ赴けなくても、秀吉は北政所に手紙などをまめによこし、とても気遣っていたそうなのです。

その手紙の内容ですが、北政所の体調などを気遣うのはもちろん、多くの側室はいるけれど、一番大切なのはお前様だよ、

と、正室としての威厳や立場をたてたような内容の手紙も多くあったようです。

こんな内容の手紙をよこされてしまうと、怒りや嫉妬などを通り越して、むしろあきれてしまうかもしれませんね。そして、思わず笑ってしまうのです。

「やれやれ。仕方ない人ですね」と。そんな感じでしょうから、北政所もずっと傍にいられたのかもしれませんね。

秀吉が北政所に頭が上がらなかったのには、もう一つ理由があります。

それは、まだ信長が生きていた頃。二人とも若かった頃の話ですが、そのころから秀吉の浮気の虫はおさまらず、北政所は毎晩寂しさと悔しさを抱いて過ごしていました。

そもそも二人は当時にしては珍しい恋愛結婚だったので、余計に辛かったのではないでしょうか。

そんな北政所に信長から書状が届きます。それはそれは丁寧な文章で、そして優しいものでした。

「あなたはますます美しくなられた」とか「秀吉があなたについて文句をいっているようだが、あのハゲネズミめ、言語道断である」とか。

なんなら「この書状を秀吉に見せてやりなさい」と、完全に北政所の味方、といった内容の手紙だったのです。

これには北政所も大感動したようで、秀吉の正室としての矜持や冷静さを取り戻したのです。

こういった出来事もあり、秀吉の中で北政所は、あの信長が懇切丁寧な、しかも、わざわざ信長が発行した公式の文書である、

っと位置付ける「天下布武」の朱印まで押した手紙をよこす女性、と見て、逆らったとんでもない、と思ったのかもしれません。

どちらにしろ、秀吉の女癖の悪さは性懲りもなくその後も続いていくのですが、北政所は先ほども話したように「やれやれ」といった気持ちで受け止めていたのだと思います。

信長のおかげかもしれませんね。

天下人となってからの秀吉

信長が本能寺の変で死んでしまった後、すぐに明智光秀を討つことで敵討ちをした秀吉。

その時の様子は凄まじかった事でしょう。「中国大返し」という言葉があります。

これは信長の死を知った秀吉が、その時にいた今でいう岡山県からとって返し、約10日で京都に到着したという、稀にない強行大軍の事を言います。

毛利攻めをしていた秀吉は、信長の死を知ります。

すると即座に毛利側と講和して戦いを終わらせると、すぐに明智光秀を討つために移動を開始したということです。

この素早い動きがあったので、後の豊臣秀吉があったといっても過言ではないでしょう。

この時、秀吉ではない別の人物が明智光秀を討っていたら、歴史が大きく変わっていたのではないかと思います。

明智光秀の敵討ちをした秀吉は、信長亡き後の織田家の実権を握ろうとします。

優位な清須会議で古参の柴田勝家と対立したりしながらも、織田家の跡取りに信長の子で本能寺の変にて一緒に亡くなってしまった信忠の子を据える事に成功したのでした。

そして豊臣秀吉が誕生するのです。もっとも、もしこの時に違う誰かが光秀を討っていたとしても、秀吉の機転の働く頭脳で、数年後には実権を握っていそうです。

ともあれ、そのまま天下人へとなった秀吉ですが、ここからが(も?)大変でした。

天下を治めた秀吉ですが、次第に周りから怖れられる存在となっていきます。何か粗相をしてしまうと、すぐに処刑されてしまう。

そんな緊迫感がありました。中でも、とても親身にしていた茶の師匠、千利休を切腹に追い込んだ事に、周りの緊迫感は一気に高まりました。

ようやく平和がやってきたはずでしたが、民、そして家来までもが、心休まる時がなかったのではないでしょうか。

しかも、ようやく日本の中が落ち着いたというのに、今度は海外へ兵を送ったのです。秀吉という男は、どうにも戦いというものから離れられないでいたようです。

もっともその頃には、最愛の息子が亡くなってしまったという事もあり、何かしていないと無理だったのかもしれませんね。

まだまだある秀吉のエピソード

皆さんが知っているようで知らない、そして知らないようで知ってるかもしれない秀吉の多指症。秀吉は右手の指が六本あったそうです。

少し残酷な話ですが、生まれてそれが発覚すると、幼い頃に余分な一本を切り落として五本にする流れがあったそうのですが、秀吉はずっとそのままでした。

若い頃は隠す事なく過ごしていましたが、晩年、自身の姿を絵などにする時、指の多さを隠して描くようにと告げたそうです。

どういった心境の変化なのかはわかりませんが、一つのコンプレックスだったのかもしれませんね。

もう一つは、衆道に関してです。戦国時代、大名が女性だけでなく男性をも好んでいた事は、ごく当たり前の事でした。

織田信長も衆道を嗜んでいて、実は前田利家ともそんな仲だったという話も。

しかしこれらは、武家出身者の中でしか流行っておらず、百姓出身の秀吉には何が楽しいのかさっぱりでした。それは天下人になっても同じでした。

しかしそれもどうかと、と、家来が思ったのでしょう。ちょっとしたはからいで秀吉ととてつもなく美しい少年を一緒にさせたのです。

ですが、秀吉はやっぱり男性よりも女性をこよなく愛しておりまして、その美少年に「お前には姉か妹がいないか?」と尋ねただけで、手は出さなかったようです。

秀吉は考えたのでしょう。これほど美しい少年ならば、きっと姉か妹も美しいに違いないと。ここでもちゃっかり、悪い癖が存在しています。

豊臣秀吉の最期

数多くの逸話を残した秀吉ですが、1598年8月18日。病のためこの世を去りました。齢、60前後だったと言います。

死因は様々な説がありすぎて、正直どれが本当なのか未だにわからないそうです。

ただ、秀吉の人生ほど、目まぐるしい変化ばかりの人生は、他にないのではないでしょうか。

生まれたのはおそらく、土臭い小さな屋敷だったことでしょう。しかし、亡くなる時は金ぴかの部屋。

人生、何が起こるかわかりません。秀吉の人生を見ていると、つくづくそう思うのです。