名のある幾多の戦国武将を調べていくと、名将の後を継ぐ子の苦悩や、葛藤を目にすることが多いです。
いつの時代も、御家繁栄の為に華々しい活躍をした初代の父親を持つと、その息子である二代目は何かと比較されたり、逆に凡庸扱いされがちなもの。
その中でも、天下を取った父を持つ子というのは、特に影に隠れがちですよね。
今回は、天下を継ぎ、徳川260年以上の繁栄の礎を築いたのにも係わらず、あまり目立った存在にはならなかった、
徳川家康の息子にして二代目将軍、徳川秀忠についてその性格や死因、生涯などについて紹介してきます。
ほとんど期待されていない三男坊
いつの時代でも、子供は授かりもの。まして戦乱の世である武家の家では、いつ戦で死ぬかも分からず、
病で命を落とすかもしれず、まさに子は御家繁栄の宝、多ければ多い程良いという時代です。
しかしそれと同時に、下剋上の戦国時代では、子が多くても御家騒動になりかねないという、諸刃の剣でもありました。
家康は正妻の子こそ、一人しかおりませんでしたが、彼は側室も21人、その側室達も含めて誕生した子らは、
なんと男子11人、女子5人という子沢山。その中で側室西郷の局との間に、家康の三男坊として誕生したのが秀忠です。
すでに正妻である築山殿との間に生まれた、立派な長男信康がいましたので、生まれた当初秀忠は、特段家康の期待を受けていた訳では無かったのです。
秀忠が生まれた頃、まだ織田信長が生きており、徳川家は織田と同盟関係にありましたが、まだまだ家康も力が弱く、信長に振り回されておりました。
そんな状況の中で、秀忠誕生から約半年後に、長男信康は武田との内通を信長に疑われ、母築山殿と共に処罰を受け、自刃してしまいます。
次男秀康もいましたが、家康はほとんど逢っておらず、この後秀吉の養子に出されることになりますが、家康との関係はあまり良く無かったようです。
ただし秀忠も初めからあまり期待されていた訳ではありません。
信長が滅び、秀吉が天下を取る直前の小田原征伐の際、謀反を起こさない証である人質として、秀忠は家康に差し出され秀吉の元に送られています。
同じ頃に秀吉から通字である秀を貰い、秀忠と名を改めているところからも、後継者候補としてはあまり注目されていなかったことが伺えます。
秀忠は12、13歳頃に元服し、秀吉の養女であり、亡き信長の孫娘にもあたる小姫と婚約しますが、
小姫の実父にあたる信長の次男信雄と秀吉が仲違いしたことと、小姫が7歳で亡くなってしまったことにより成り立ちませんでした。
後に家康が天下を取った後、後継者を決めるに辺り家臣達と相談した時にも、
秀忠を押す家臣は大久保忠隣ただ一人であったことから見ても、後継者としての期待は全く無かったと感じてしまいますよね。
初陣デビューでトラウマ
秀忠が生まれた頃は戦国時代も佳境であり、信長の時代よりも、秀吉が天下を取ってからは、国内での目立った大戦も多少減ってきています。
秀忠の青年時代は、戦の臭いはまだ残ってはいますが、それなりに国内は安定していたでしょう。
小田原征伐の時は人質として京都に送られていましたし、元服していようと秀忠はまだ12・13歳の子供です。
その後も、秀吉は国替えで家康を関東に追いやり、秀忠も江戸にて過ごしていました。
そんな秀忠の初陣のチャンスは22歳頃にようやく訪れます。
秀吉亡き後、天下を虎視眈々と狙っていた家康が動き出し、天下分け目の関ケ原の前哨戦となる、上杉討伐へと向かいます。
秀忠を上杉の抑えとして宇都宮城に残し、家康は上方の動きを探るために江戸へと戻ります。
その後、家康の命で関ケ原へと二手に分かれて向かう為に、中山道を目指して宇都宮を出発しました。
しかし、この道中にある上田城にて、真田昌幸と幸村親子と対決するはめになったのです。
これが秀忠の初陣となりますが、若い秀忠にとっては戦った相手が悪すぎました。この上田城を巡っては、父家康も真田親子に手こずり、煮え湯を飲まされた遺恨のある城です。
秀忠は、譜代の家臣も含む3万8000千ほどの大軍を率いていましたが、わずか2000程の真田軍にコテンパンにされてしまいます。
何せ真田昌幸は、元は武田信玄家臣。信玄の元でも才を発揮し、知略の優れた武将であって、
昌幸は小県(ちいさがた)という領土を守る為に、北条、上杉、信長、秀吉、そして家康など名だたる武将達を相手取ってきた超ベテラン戦国武将です。
戦を知らない坊ちゃん秀忠では、赤子の手をひねるようなものだったでしょう。
秀忠の不遇はこれだけではなく、実は家康からの指令の文が矢継ぎ早に届いていたのにも係わらず、
天候が悪く文が遅れて届いていたり、思った以上に家康が江戸から早く岐阜へと到着してしまったりと、幾多の連絡ミスが発生。
そのおかげで、天下分け目の関ケ原になんと大遅刻をして到着してしまいます。
関ケ原の戦い自体も、6時間程で終了と想像以上に早く終結したということもありますが、秀忠が到着したのは5日も後。
そもそもが、家康より明日までに関ケ原付近まで来るようにと書いた文が、前日に届くと言う状況で、
色んな意味で無理ゲーだった秀忠は、家康に許しを請いますが3日程逢っても貰えず、相当に落ち込んだことでしょう。
その反動か、その後の大阪冬の陣では兵も休ませず、とんでもない速さで家康の元へ駆けつけ、
今度は「兵を使いものにならないようにして、何とする!」と早すぎて家康に怒られてしまうのです。
嫁が怖い?それとも愛?側室を持たなかった秀忠
秀吉の養女であった小姫との縁談が成立しなかった秀忠は、その後同じく秀吉の養女となっていた、お江(おごう)と結婚します。
このお江は、浅井長政の娘の一人で、母親は信長の妹お市、秀吉の側室となった淀の妹という、中々凄い経歴の持ち主。
更にお江は秀忠より、6つも年上で秀忠とは3回目の結婚でした。この状況を聞くだけでも、秀忠があまり強く出られない気がしますが、秀忠は正式な側室は一人もいませんでした。
武家としては、子供を多く残さねば御家安泰とは言えません。当然、側室は持つべきものという価値観です。
父である家康も、側室は21人もいたのですから、焚きつけられたかもしれませんね。
そんな秀忠の年上バツ2の嫁であるお江は、とても嫉妬深かったからと言われ続けていますが、その信憑性を高める史料は実はほとんど残っておりません。
その上で、本当にお江が嫉妬深かったのか、秀忠が怖くて言い出せなかったのかは分かりませんが、秀忠が唯一お手付きしてしまった女性がいます。
お静と呼ばれたその女性は、秀忠の乳母に仕えていた侍女でした。
お静はその後、秀忠との子を身ごもってしまうのです。秀忠にとっては見合いではなく、自分で見つけた年下の娘。
秀忠はとても執着していたようで、静との間に子が何度か出来ています。
子が出来て正室が認めれば、お静も側室になれたはずですが、実際秀忠はお静を側室とはしませんでした。
一人目の子は、お江にバレないように中絶したとも、命を狙われていたとも言われていますが、こちらも真相ははっきりしていません。
何れにせよ、無事産めなかったということは分かっています。
お静はそのことに傷つき、一度は江戸を去るのですが、秀忠は呼び戻しています。相当お気に入りだったのでしょうか?
そしてまたお静は子を身ごもってしまうのです。女性であれば、やはり好きな男の子を産みたいもの。ましてや何度か諦めた後であれば尚更ですよね。
この子が今度は無事に生まれるようにと、お静の力になったのは、なんと武田信玄の娘なのです。
武田から寝返り、徳川に着いた穴山梅雪の嫁であり、武田信玄の次女であった見性院は、夫も亡くなった後家康に庇護されて江戸城におりました。
この見性院が妊娠しているお静を匿い、同じ江戸城内にてお静の子を産ませたという話が残っていることから、お江嫉妬強い説が登場してくるわけです。
この子は後に会津藩主、保科正之となりますが、父とは一度しか逢えなかったとも伝わっています。
しかし秀忠はお江との間にも、7人の子を儲けているので、仲が悪かったということもないのでしょうね。
徳川の盤石な体制を作り上げる秀忠
三男坊から突如、跡継ぎ息子となった秀忠ではありますが、政務には長けていたと伝わっています。
試験でも登場する、禁中公家諸法度や武家諸法度という言葉を覚えている人も多いと思いますが、この法を制定したのは秀忠です。
朝廷に権力を渡さず、大名達が寝返らないように、決まり事や財力を抑える政策などを作り上げ、徳川の世を盤石にするための政策に力を入れていきました。
秀忠が第二代征夷大将軍になったのは、関ケ原の戦いから5年後のこと。
大阪にはまだ秀吉の子秀頼が顕在ですし、それなりに財力もまだあって、いつ豊臣方の反乱が起きるかは分からない中で、
徳川の二代目が本当にボンクラでは、あっさり徳川は潰されていたかもしれません。
家康は大阪夏の陣の翌年隠居し、駿府(静岡)に入りますが実権は握っており、秀忠はその間江戸城にいて譜代家臣達の統治に当たっていました。
秀忠の凄いところは、家康死後も出しゃばらず、きちんと家康の描いた指針を踏襲していたということです。
秀忠が生まれた時代は、戦乱の世も多少は収まってきていますが、それでもまだ信長時代から天下取りレースに参加していた、
ベテラン戦国武将達の生き残りもいますし、それなりに血生臭い感は残っているでしょう。
戦国時代は家族間でも下剋上が多い中で、偉大な父を乗り越えようとする息子達自身の野望や、指針などを全力で発揮し、二代目、三代目で滅んだ家も多々あります。
現代の会社でも、初代が創業して偉大な功績を残し、二代目がその威光を引き継ぎつつ傾かせ、三代目で喰い潰すとよく言いますよね?
そういう意味では、世襲も危うい制度なのですが、家康亡き後も我を通さず、しっかりと父のビジョンを踏襲していけた秀忠は、徳川家の未来をきちんと考えていた証でしょう。
実は天皇家以外で勢力を発揮し、長い間政治的権力を握れた家というのは、
藤原家と徳川家のみで、二代目以降もきちんと父の威光を汲み、内部の反乱を抑えつつ栄えていったのです。
それを思えば、秀忠は有能な二代目と言っても過言ではないでしょう。
掴みどころの無い秀忠の性格
父家康や、息子である三代目将軍家光は、かなりエピソードが残っており、人格的にもわりとぶっ飛んだ特徴が多いのですが、
間に挟まれた秀忠のエピソードからは、いまいちどのような性格だったのか見えてきません。
例えば、関ケ原の戦い前、上田城の合戦では、真田昌幸の挑発にまんまと乗って惨敗、おまけに関ケ原に遅刻。
その反動で次の大阪冬の陣では、兵士を潰す勢いで駆け付けてしまうという話から見えてくる秀忠は、
負けず嫌いで、融通の利かない真面目さや、父に褒めてもらいたかったという感情も見え、とても若者らしいまっすぐな性格と感じられます。
父を尊敬し、指針を踏襲していたことからは、かなり生真面目だったということが伺えるでしょう。
家康死後に細川忠興が息子に近況を伝えた手紙には、「将軍はとても政務に余念が無い」と残されていることからも、
将軍としての役目を必死に果たそうとしていた姿が見えてきます。
お江に対して頭が上がらなかったのか、けじめを守ったのかは分かりませんが、隠し子である結城秀康を子とは認めず、
家臣扱いしたということからは、恐妻家だったと言われても仕方がありません。
しかし、丹羽長重や小山長門守という二人の男の恋人がいたとも言われており、それなりに羽目は外していたことも見えてきますね。
その他にも、子供の頃儒学の講義中、室内に牛が乱入して大騒ぎの中、一人静かに講義を聞き続けたというエピソードからは、
冷静というより、ぼんやりっ子なイメージや一つのことにしか集中出来ない、シングルタスクな子というイメージを感じられます。
能を観劇中に地震が起きた時も、同じく周りがパニックになる中で、屋根や壁が壊れる兆候はないから大丈夫と、
周りを宥めたというエピソードも、秀忠冷静論に繋がるのですが、やはり能に集中していただけな気がするのは、気のせいでしょうか?
江戸後期に作成された、「御実記」という徳川家の公式な史書があります。言うなれば歴代将軍の功績を褒め称えるものな訳です。
その中でも、初代家康の息子達である、長男の信康や、次男の秀康、四男の忠吉はとても優れた武将であると褒め称えられています。
しかし同じ兄弟でも秀忠だけは、武力知略を褒められておらず、後から取って付けたかのように「温厚な人物」
というフォローがある程度の評価なのは、秀忠としては実に悲しい気持ちになりますよね。
またお江のせいか、秀忠自身もそうであったのかは分かりませんが、
息子家光との関係はあまり良く無かったというエピソードが残っていることからも、良い人なのか多少性格に問題のある人なのか、
とても掴みどころが無い人物だったように感じられます。
遺骨から見える秀忠
秀忠45歳の頃、父家康と同じように隠居し、息子家光に将軍職を譲りましたが、やはり実権は秀忠が握っていました。
しかし、秀忠はそれから約10年、54歳という若さでこの世を旅立ちます。
父親である家康は、75歳という当時としては長生きの人でしたが、秀忠はそれに比べると短命とも言えますね。
死因は胃癌と言われており、相当ストレスが多かったのではないかと推測されます。
実務に長けていたと言われている秀忠ですが、やはり二代目としてのプレッシャーや、権威を保つために相当ムリをしていたのではないでしょうか。
秀忠も跡継ぎ問題を抱えており、超問題児であった次男忠長を蟄居させたあたりから、
体調を崩したとも言われているのですが、政務や家のことなど、徳川存続の為に懸念材料を少しでも潰しておきたいという秀忠の心が見えてきます。
家康自体もかなり過酷な運命に翻弄されて、天下を取るまではストレスだらけであったと思いますが、
大阪夏の陣で豊臣を滅亡させた翌年に亡くなっていることから見ても、ストレスが無くなり安心して気を抜くと、案外人間はダメなのかもしれませんね。
実は1958年の発掘調査で、徳川家の将軍、秀忠含む6人が学術研究対象となり遺骨を調査されました。
その結果から分かることは、秀忠の身長は160cm程で当時男子平均くらいですが、わりと筋肉が発達したマッチョマンだったことが判明しており、
毛深い男らしい身体をしていたということです。
骨にも銃で撃たれた痕が複数見られていることから、指揮をする際、最前線にいたことも考えられています。
そんな遺骨から見えてくる秀忠は、血気盛んな武将らしい武将に思えるのですが、武勇弱いと言われていた秀忠としては、とても心外だったかもしれませんね。
264年続いた徳川幕府の基礎を固めた男
父が望んだ戦の無い世を引き継いだ二代目将軍秀忠。一見派手さは無いものの、秀忠は戦国時代を体験した最後の将軍です。
この父が基盤を固めてくれたおかげで、戦の体験もせず三代将軍家光は、「余は生まれながらにして将軍である」という尊大な言葉をのたまうことが出来るのです。
葬儀は秀忠の遺言で質素に執り行われ、家光にも自分がやり残したことを踏襲し、徳川安寧と為に働けと伝えてこの世を去った秀忠。
最後まで己に光を集めることをせず、家康の指針を踏襲した秀忠のおかげで、徳川家はその後264年も続いていくのです。