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戦国最強と呼ばれた本多忠勝の数々の武勇伝や生涯、最後

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戦乱の世で名を上げた武将は数多の人あれど、中でも戦国最強の男と呼ばれた武将がいます。

その名も、本多忠勝(ほんだただかつ)。戦国三英傑にもその武功や勇士を評価され、家康への忠義を貫いた忠勝は、正に武勇に優れた戦国時代の男でした。

その強さのイメージからか、大河ドラマ「真田丸」では藤岡弘、さんが、好演したことで、仮面ライダーと呼ばれ、

ゲーム戦国BASARAではついにロボにされてしまい、ホンダムと呼ばれている程です。

しかしどんな人物だったかまでは、意外と知られていないのです。今回はそんな戦国最強の男、本多忠勝の人物像と生涯を紹介します。

徳川家譜代の家臣

譜代(ふだい)とは、同じ主に歴代仕えている家臣の御家のことです。

その家に生まれたら、当然父の跡を継いで息子もその任に就くことになるのですが、忠勝もそんな安祥譜代(あんじょうふだい)の家臣である本多家に生まれました。

家康の姓は元々松平ですが、その松平家に古くから仕えている家臣達は、安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代と、当時松平家が治めていた城の名前を取ってそのように呼ばれているのです。

松平家が安祥城を守っていた頃が一番時代が古く、その頃から仕えていた家臣達を安祥譜代と呼ぶようになるのですが、後の徳川家臣団の中では最古参に当たります。

本多家もその最古参の家で、忠勝は本多忠高(ただたか)の長男として、三河(現在の愛知県)にて誕生しました。

しかし父忠高は、忠勝1歳の時に安祥城(あんじょうじょう)を巡っての織田との戦で、家康の父広忠を守る為に討ち死にしてしまいます。

この安祥城を巡っての戦は、なんと9年の間に3回または6回起きたと言われており、織田と、松平、そして今川によって奪い合いになった城です。

安城の戦いと呼ばれるこの戦は、信長の父と、家康の父、そして今川義元による戦いなのですが、なんと忠勝の祖父も父も、この戦で命を落としているのです。

更に付け加えると、この安城城を巡る戦いの中で、家康は今川義元の人質になるところを、

織田方に奪われ織田の人質になったり、また今川に取り戻されて人質になったりした、因縁深い城でもあるのです。

話が逸れてしまいましたが、父を亡くし、まだ赤子の忠勝とその母を、叔父の忠真(ただざね)が引き取って育てます。

岡崎にある欠城(かけじょう)にて、叔父は読み書きや、武士の心得などを幼い忠勝に手厚く教育をしてくれました。

忠勝の幼名は鍋之介。読み方の詳細は不明なので、なべのすけと読んでいいのでしょうが、

何となく冒頭述べた「ホンダム」の鉄のようなイメージに近く、子供なのにとても硬いというか強い雰囲気を感じますね。

ちなみに同じ徳川三傑と呼ばれた榊原康政(さかきばらやすまさ)とは同じ年で、忠勝ととても仲が良かったと言われています。

幼き頃から家康の側に

叔父に育てられた忠勝は、幼き頃から家康の側に仕えたと言われていますが、正確に何歳からだったのかは分かっていません。

家康と忠勝は5歳の年齢差があり、家康が今川の人質に向かう際、織田方に奪われたのが家康6歳の時です。

その頃、忠勝はまだ1歳と考えればさすがに早過ぎますね。

その後家康は2年織田家にいて、その2年後今川が家康を人質として取り返しているので、少なくとも家康が今川家に落ち着いてから、忠勝も側に仕えていたと考えられます。

祖父と父が命を懸けて守った主君の息子が家康です。幼き頃から人質になった主君に対し、忠勝もこの主を命に代えても守ろうと誓ったことでしょう。

13歳になった忠勝は元服し、初陣を果たします。

戦国時代の習いとは言え、現代だと中学一年生の男子が戦に行くと考えれば、乱世というのは世知辛いものですよね。

さて、この頃すでに織田家は信長が継いでおり、破竹の勢いで尾張統一に動いていました。

そのような中で、戦国武将達の勢力図を後に大きく変化させることになった、「桶狭間の戦い」目前。

そう、信長が天下に名乗りを上げるきっかけとなる、今川義元との有名な合戦です。

この時信長27歳、家康はまだ18歳です。家康も又今川軍として、桶狭間の前哨戦に当たる「大高城の兵糧入れ」に参戦。

忠勝の初陣は、この時になります。兵糧入れと言っても、周辺には織田軍がいる中で、家康は付近の城を責めつつ隙を作りながら、大高城に兵糧を運び入れるという危険な仕事でした。

しかし結果として、この大高城にいたことで、家康も忠勝達家臣も命を守られたと言えます。

後から大高城に来るはずの今川義元が率いる今川本隊の為に、家康達は兵糧を入れていた訳ですが、肝心の本隊はいつまで経っても到着しません。

そう、桶狭間であっけなく義元は討ち死にしてしまったからです。

この時家康は今川に反旗を翻し、空き城となっていた自分が生まれた岡崎城を奪還、その後織田と同盟を結ぶことになるのです。

忠義心No.1

忠勝は初陣から1年後、14歳の時に初首を獲っています。今川から反旗を翻した家康は、岡崎にある今川の城を攻めておりました。

そのうちの一つである鳥屋根城、正確には登屋ヶ根城(とやがねじょう)と呼びますが、この城を攻めている時に、忠勝は初首を獲るのです。

元服したとは言え、忠勝はまだ14歳。初陣から多少成長したとしても、現代では未だ中二なのです。

叔父である忠真は、若い甥っ子に手柄を立てさせようと、敵を槍で突き刺しながら首を切らせてあげようと促しました。

しかし忠勝は、「手助けされての武功は上げたくない!自分でする!」と敵陣に一人飛び込んで行き、

見事初首を挙げてきたのを見て、叔父や周りにいた武将達は驚嘆したと伝わる程、武勇に優れた男でした。

時代が違っても、反抗心と野心があるところは思春期でもあり、正に現代の中二病に通じるものがありますね。

そのように華々しく戦デビューした忠勝ですが、15歳の頃に、鉄の結束と呼ばれた三河家臣団にピンチが訪れます。

のちに家康人生三大ピンチと呼ばれるうちの一つ、三河一向一揆が発生します。

本願寺を筆頭とする浄土真宗の門徒達が起こす一揆を、一向一揆と呼びますが、忠勝の親族である本多一族の大半含む、

家康の古参である安祥譜代からの家臣達の多くが門徒だったことから、なんとその多くが寺側に付いてしまったのです。

多くの家臣達がバラバラになる中で、忠勝は浄土真宗から浄土宗に改宗し、家康の側から離れず戦い続け忠義を尽くしました。

この際寺側に付き、後に家康に帰参を許された親族である本多正信のことを、忠勝は「あれは卑怯者で、他人」とまでも嫌っていたことからも、

下剋上蔓延る戦国時代の武将の中で、忠勝の忠義心の強さが伺えます。

この時の功績を家康に認められ、忠勝は19歳の時に旗本先手役(はたもとせんてやく)という任に抜擢され、与力54騎を与えられました。

ちなみに旗本先手役とは、城下に住んで家康の身を守りながらも、戦には積極的に出る部隊のことですが、忠勝もその頃から城下に住み、家康の側に仕えるのです。

後に秀吉に家臣になれと言われますが、忠勝は「豊臣への恩も深く感じていますが、長く務めた月日には逆らえない」と、断っているほど、生涯家康に忠誠を尽くしていきます。

三英傑から賞賛された武勇

忠勝は生涯でなんと、57回も戦に出ています。大小合わせてではありますが、聞いたことがあるなという有名な戦は、ほとんど参戦しているのです。

更に名だたる武将と一騎打ちをしたり、無謀とも言える戦いぶりを発揮するのですが、忠勝の自慢はこの57回の戦で、ただの一度も怪我をしたことが無いということ。

同じ家康の家臣で武勇に優れた、徳川三傑の一人である井伊直政も強いのですが、彼が怪我だらけの人生だったことを思えば、忠勝の無双っぷりに驚くばかりですね。

主である家康自体が最後に天下を取るまでに、数奇な運命に振り回され、今川、織田、豊臣の下にいたのですから、側にいた忠勝も当然多くの戦を共に戦っている訳です。

織田側として忠勝は、浅井・朝倉と信長が戦った姉川の戦いにも参加しています。

家康軍に向かってくる朝倉1万余りの大軍に、なんと一人で飛び出して行ったのが忠勝です。

この時まだ22歳の忠勝を守る為、徳川家臣達が団結して朝倉軍を撃退したと言われていますが、年上の者達は冷や冷やしたでしょうね。

また織田側としては、最強と謳われた武田軍とも忠勝は戦っています。

一言坂の戦いでは、偵察として勤めましたが、武田四天王の一人である馬場信春の部隊と出遭ってしまい、忠勝は殿(しんがり)を務め、家康本隊を逃がしています。

同じく武田との戦で、家康三大ピンチのもう一つ、家康脱糞事件のあった三方ヶ原の戦いでも、

忠勝は武田四天王の一人で、最強軍団と呼ばれた武田の赤揃えを率いる、山県昌景とも戦い撃退しているのです。

その他にも、長篠の戦いや高天神城の戦い、秀吉と家康が戦った、小牧・長久手の戦いから、家康が天下を取った関ケ原の戦いまで、忠勝は戦い続けていたのです。

その勇猛果敢な武功は、信長、秀吉、家康の戦国三英傑全てから賞賛され、その他の武将達にも称えられるほどでした。

信長曰く、「花も実もある武将」と言われ、秀吉曰く、「日本第一、昔から今に至るまで比べる人がいないほどの勇士」と呼ばれ、

家康ももちろん、「まことに我が家の良将だ」と忠勝の武功を褒め称えています。

また有名な言葉で、武田家臣が残した狂歌では、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」と、

忠勝の武功を称えた歌が残っていることからも、忠勝はとても武力に秀でた武将だったと言えるでしょうね。

蜻蛉切と鹿角、そして数珠がトレードマーク

忠勝が初陣を果たしてから1年後。家康に偵察を頼まれ出掛けていた14歳の忠勝は、岡崎城に戻る直前に目の前の矢作川が氾濫し、帰れなくなってしまったことがあります。

どうやって帰ろうかと悩んでいる忠勝の目の前に、一頭のオス鹿が現れ、少し移動してから浅瀬を悠々と渡っているのを目撃した忠勝は、後を追って無事に川を渡ることができました。

忠勝が川を渡り切った時すでに鹿の姿は無く、この不思議な出逢いに忠勝は伊賀八幡神宮の使いだと感動し、鹿角の兜を作成したと言われています。

忠勝がこの兜と、天下三名槍(てんがさんめいそう)の一つと言われる、蜻蛉切という巨大な槍を持って戦場に登場するのは、

武田と戦った一言坂の戦いからと言われていますが、真相はわかりません。

この蜻蛉切は、穂先にトンボが止まった時に真っ二つになったという逸話があり、切れ味も抜群ですがとても長い槍なのです。

一般的な槍の長さは、約4.5mでしたが、忠勝の愛槍である蜻蛉切は、長さ約6mと言われているから驚きます。

同じ徳川三傑で武勇に優れた井伊直政は、とても重装備な鎧だったのに怪我だらけ、対して忠勝の鎧は動きやすさを重視して、

とても軽かったと言われています。しかし一つも怪我をしなかったと言われる忠勝は、やはりロボだったのかと錯覚してしまいますね。

そんな勇ましいイメージしかない忠勝ですが、鹿のことから見ても信心深く、首から下げた数珠は倒した相手を弔う為に付けていたとも言われ、慈悲深い心も多かったでしょう。

武田家の命運を決めた、長篠の戦いの際には、軍旗を捨てて行った武田軍に対し、

「軍旗を捨てるとは何事か!」と憤った逸話からは、武将としての忠義をとても大切にしていたことが伺えます。

ちなみに彼の婿は真田信之です。真田家は色々あって、関ケ原の戦い直前に、信之は徳川方に付きましたが、

信之の父と弟は豊臣方に付き、家康や息子秀忠に対して、煮え湯を飲ませた憎き敵となってしまったのです。

しかし、忠義を大切にした忠勝がこの時唯一家康に異を唱え、信之の味方となって死罪にされそうだった真田親子の命を救ったのです。

このことからも、忠勝はとても情が深い男だったとも感じられますね。

戦国時代終焉と共に

家康が秀吉に関東移封されると、始めは秀吉の許可を得て忠勝は万喜城に居住し、

その後、家康によって忠勝は榊原と共に、上総国大多喜(かずさのこくおおたき:現在の千葉県)に10万石の領土を与えられました。

忠勝43歳、幼い頃からずっと側に仕えていた家康から、ついに離れて住むことになります。

この頃まだ秀吉が天下統一する直前、北条は倒したものの、周辺では小競り合いや一揆が続いており、上杉や伊達、最上などの東北勢が落ち着いていませんでした。

家康は譜代家臣達をその備えとして、国境を守らせるためにあえて離したのです。

関ケ原の戦い後、忠勝54歳の時に家康から、伊勢国桑名藩(いせのくにくわなはん:現在の三重県)10万石を与えられ、初代桑名藩主となりました。

関ケ原の功績を称えて、褒美として桑名を貰ったのですが、関ケ原の戦いでも忠勝の大活躍は凄いのです。

前哨戦、本戦合わせてなんと90の首を獲っているのです。この約10年後に忠勝はこの世を去るので、晩年と呼んでいい時期にとんでもない無双おじさんですよね。

この時、豊臣から徳川に付いた福島正則は、忠勝の武勇を褒め称えたのですが、忠勝は「敵が弱すぎた」とのたまっています。

福島正則も荒くれ者で関ケ原では一番槍を狙い、井伊直政と先陣を争っていた男ですが、忠勝から見て13歳も年下である福島は、その一言に震えたかもしれませんね。

忠勝が桑名藩主になってからは、桑名の藩政を整えるべく、城を改修したり、大規模な町割りをして、東海道の宿場町を整備し、現在の桑名市の基礎を築き上げました。

領主としても手腕を発揮し、桑名藩主の中では忠勝の時代が一番安定していたと伝わっています。

しかし関ケ原後は、豊臣の跡継ぎである秀頼がまだ子供だったこともあり、しばらく大きな戦はありませんでした。

その為、家康周辺には知力に長けた本多正信や、その息子正純などが側に仕え、忠勝も関ケ原の4年後辺りから病がちになり、江戸の中枢から離れてしまいます。

一度家康に隠居を願い出て、家康に止められていますが、寄る年波には勝てず、最後は目を患ってしまい忠勝62歳の時に隠居して、息子に跡を譲りました。

57回の戦で一度も怪我をしなかった忠勝は、死の数日前に小刀で指にかすり傷を負ってしまいます。

戦ではなく、小物に名前を彫っていて怪我をしてしまった忠勝は、「傷を負ったら終わり」と呟き、その数日後63歳の生涯に幕を閉じました。

最初で最後のケガ

辞世の句では、家康より先に旅立ってしまうことを悔い、「残していく主君のことを思えば、まだ死にたくない」と残していることからも、

忠勝の家康への忠義はとても強かったのだと感じられます。

忠勝がこの世を去ってからわずか4年後に、家康には大坂の陣が控えていますが、主君が天下を取る瞬間も見られず、

共に戦えなかったことを、忠勝はあの世で悔しがっていたに違いありません。

武勇に優れ、忠義に熱い男忠勝。戦乱の終焉と共に、戦国最強の男の役目は終わったのでしょう。

彼の子孫は現代も続いており、楽天の三木谷社長は子孫に当たります。